寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

何も生み出さないオタクは悪? はいそうです少なくとも同人界隈では

くその5CHからの出典で恐縮だが何も生み出さないオタクは悪なのか? というタイトルのweb記事を見た。

 

myjitsu.jp

 

この記事の内容をおおよそ要約するとアニメ漫画に代表されるような「いわゆるオタクコンテンツ」と呼ばれるそうした作品をただ消費するだけでの要するに買うだけ買って自分からは作品は作れないオタク層「通称無産オタク」は創作を手掛けるクリエイター側からしてみたらうざいこの上ない存在だという。何故なのかは無産オタクは自分では何も生み出せない癖に人様の作品をああだこうだと論評してやたら偉そうでうざいとのこと。そうした無産オタクたたきの背景はクリエイターの才能を誉めそやす空気が蔓延してそのクリエイター信者が甘やかすからクリエイターは天狗になって自分は優れた存在として自負して、だから自分では何も生み出せない能力ない人間は無産オタクと蔑む存在であると結論づけてしまうことが考えられるという。しかしクリエイターの向上には無産オタクの声も必要なのだから何事も客観的に物事を捉えておく必要があり、無産オタクだからといってその行動を否定されるものではないと締めくくる。

これに対して私の答えはそんなこと言っても無産オタクは大変嫌われます。別に対立煽りするわけではなく客観的に私もオタクの端くれとしてそれは常々そういうものなのですオタクノセカイとは。特に顕著なのが同人界隈の絵師たちでありこれがBL界隈はもうそりゃ無産オタクなんてムシケラゴミと捉えている絵師もいます。だから対立煽ってる訳じゃなくそれがあるからこういう記事が出てくるんだろ。わかる。何故嫌われるのかは記事にもある通り自ら何らかの作品を生み出せないその才能の無さを軽蔑しているだけである。以下それについて語ってみるが。ちなみに記事であるクリエイターとは何を指すかといえばおそらくやっぱり絵師(イラストレーター)のことであり同人界隈を指していると考えられる。

じゃあどんな才能ならば無産オタクと呼ばれないのかとは何も絵が凄く上手く商業デビューするとかそういう大そうな才能ではなく絵でいうならば同人誌が出せるとかpixivで割かし評価を受けるとかTwitterである程度いいねがもらえるとか。具体的などれくらいの評価があればいいのかは主観によるがpixivでは絵にブクマ100(人気版権含む)あれば無産オタクなどとは言われない。早い話要するにその作品が好きならば二次創作かなにかできれば無産オタクとは言われない。無産オタクと言われたくなければ何か同人活動してろ。もしくは別に同人誌を出すほどの力量はなくてもpixivとかでイラスト小説をあげていれば最悪無産オタクとは呼ばれない。呼ばれるのはpixivで作品0のいわゆるROM専といわれる層でこれが純粋な無産オタクといえる。

 

 

 

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こんなくっそしょうもない小学生レベルの絵でさえ描けないのであれば無産オタクらしい。

 

こんなことを絵師(クリエイター)は言うのである。ホント「テメェ何様じゃ」である。しかしオタクが何か生み出すと言ったらその作品の絵を描く二次創作がオタク界では大変な幅を利かせ、絵が描けるオタクとはヒエラルキーがたいへん高く実に位が高い。その頂点が絵師(イラストレーター)でありコイツラは上手い絵を描いていればもうそれで王様でいられる。それ程オタク界では絵の上手さというのは崇高なものである。それはコミケに参加してみたらわかるだろう(最近やってないね)。大手サークルみんな絵がうまいからあんなてんやわんやな騒ぎになりあれじゃ絵師は祭られて然るべきだと誰もが思う。だから「テメェ何様じゃ」という態度が通じるのである。

私は昔東方が好きでそのコンテンツを楽しんでいた。東方とは二次創作で発展したようなもので、だからなのか知らないが東方を好きになったら自分も二次創作しておくものであるという空気が昔はあった。それはつまり東方が好きになったら何か一つくらいキャラの絵を描くことが東方を好きであるという証明になりそれをすることが礼儀とされた。東方の絵が描けなければまがい物の東方ファンだと言われていた時代があった。東方の輪に入るには最低限キャラの絵が描けないといけない。それが出来ないと東方の絵師とは決して仲よくなれなかった(ソースは私や昔の同人仲間。だから何とか絵を努力して絵師と相互になったりした)。別に仲が良くならなくてもpixivとかにコメントを送っても返事はないなどコミュニティからは外される。東方という二次創作で培われた作品ならば自分も造り手にならなければそのジャンルにいる資格はない。これは昔の東方界隈にあった。私が東方を好きでいた2005-2010あたりでは。そんな空気がなくなったのはおそらく震災後で今はそんな空気全くないだろう。

こんな昔の気風を今でも心の中で抱いている人間がいる。だから無産オタクといって差別して蔑むのである。それは「その作品を二次創作で盛り上げることができない、ただ金だけ出して終わるなんてなんて才能がない人間なんだと。こんな人間この界隈に不要だ」差別意識の裏には二次創作で同志となれないそんな人がいても仕方がないという創作熱の温度差からくる感情だったのである。別に自分が絵がうまいことを鼻にかけての発言ではないと思うのだ(まぁ絵の上手さで偉そうな絵師はいるが)。作品を批評するよりも求められるのがその作品の絵が描けるかどうかであって大して絵も描けないで批評するオタクは絵師とって評判がすこぶる悪い。だから無産オタクといって蔑んでしまう。そういや以前し○びという大変有名なイラストレーター(個人的には絵師百人展十傑に数えてもいいような?)がTwitterで絵の描き方を指摘してくれた一般人に「受け売りの知識だけで偉そうに」とよくも指図してくれたなと横柄な態度(問題になってのちに和解)で信者がファンネルしたり適切なアドバイスも相手と同等かそれ上でないとしてはいけないしむしろ無礼この上ないというその程度なのです。「絵を批判するなら俺以上の絵を描いて評価されてからにしろ」。コレ暗黙の了解で当たり前。

まー確かに絵師というものは性格悪い。これはガチ。ネットでも「絵師 性格悪い 偉そう」とサジェスト汚染だ。私も同人したことあるが、なんていうか絵師と呼ばれる奴ってサラリーマン的常識が欠如しているの。無礼だったり尊大だったりくだらない一言ですぐ機嫌悪くなったり褒めているのにいちいちコメントしてくんなとか終いには同人誌買うにあたって買い専(同人誌を創る側ではない要するに創作側から見たら購買者)お断りなんて言い出す始末。口の利き方が出来ない奴が多々いた。孔子五常なんてからっきし持ち合わせていないこれで絵がうまくなければおまんまの食い上げというほどのバカが多かった。芸術的才能がある奴は人間性までも芸術的でないのは昔の偉人でもそうだが(ワーグナー等)性根がダメなんだよね。その点の性格から無産オタクと言ってしまう面もあるかも。ただ…

絵師の性格の悪さは否定しても作品の素晴らしさまでは否定することではない。残念ながらいくら優れた批評やたくさんの購買力よりも絵の上手さのほうがこのオタク界隈にとってとても重要で正義なのである。優れた作品に人の人格など考慮しなくていいしそれでも人はついてくる天狗になるのはお目こぼしすべき。著作権接触した二次創作なんて誉められたものではない? いいえ、クズでも優れた作品をつくれればそれでいい。これが私の無産オタク云々に対してのアンサーである。無産オタクと言われたくなければ何かキャラの絵を描いてみればいい。絵の上手さは問われるかもしれないが金だけ出して自分では何も生み出せない人間にとやかく言われるのは確かにうざいことだとは思うその気持ちは確かにわかる。私もウマ娘のイラストをTwitterリツイートするだけで自分では絵が描けないくせしてそれで盛り上げているつもりなのかと訝し気に思う時がある。消費者という立場をとることなく皆でその作品を盛り上げていくというのがオタクたちのコンセプトだったし(昔はだが)、だからこそコミケが発展した。それなのに二次創作で盛り上げることなくお金でオタクの地位でいることに対する態度というのは本来のオタクとはかけ離れている。岡田斗司夫は国内のSF作品を全てを読破理解しこれで自分もまともなSFオタクと名乗れるだろうと先輩に言い放ったが「国内のSF羅列したぐらいでお前は世界のSF作品を何もわかっていない」と看破された。それから世界の様々なSF小説を翻訳して理解してやっと認められたという経緯を氏の著書で読んだことがある(新潮新書「オタクはすでに死んでいる」)。そう、オタクというのはそのジャンルの知識書と言われてから名乗るものである。そのジャンル造詣の深さがあればあるほどオタクと認められるのである。今ではアニメ見てグッズ買って屁理屈述べて終わる、それでは薄っぺらいのである。絵が描ける描けないで差別するその背景にはこうした概念を漂わせるものがある。その人の性格の悪さはひとまず置いといてオタク言うならば何かその才能を活用してそのジャンルに踏みとどまるそのくらいの気風は持ち合わせろ。そんなことを言いたくて無産オタクと言ってしまうのだろう。