寧日時を迎えず
日々鬱積を刻む
寧日時待てども
鬱積之を閉ざす
長野の中野という地で女性をナイフかなにかで刺した後通報で駆け付けた警察官二人を至近距離から散弾銃で襲いその後立てこもるという恐ろしい事件が起きた。
これまで出来事や事件に対して関心は持つがブログで語ることもなくたいてい次の日には興味がなくなった。WBCでさえそうだった。
それなのにどうもこの事件が何か言いたくて仕方がないのは自分のくだらない承認欲求かはたまた素で興味を抱くことなのかわからない。
そもそも猟銃を手にするそれは、猟銃を持つこと自体がそんなものを持つのなんてよほど余裕がないとできないことだろう。つまり金銭的な余裕である。貧乏人には銃を持つという発想はない。そんなものを持っているのはただの負担ではないか? 獣を撃つことは金持ちの道楽ではないか? 金とヒマのあるものに許された特権みたいに考える。
では金持ちならどうか? 誰があんな物騒なものを持ちたいと思うだろうか? そんなもんより車とかもっと他の趣味にお金を使う。これは極めて偏見であるがそもそも動物を撃ち殺す行為自体が前年代の古臭い趣味であると思うし、そもそも戦後の意識の高まりの中動物愛顧の観点から野蛮というほかない。動物を仕留めたその姿には生々しく散弾銃でやられた動物の血を見る羽目になる。これが私はたまらなく嫌である。残酷なものであると。
そんな残酷な狩猟を行う、それは貧乏人でも金持ちでもなく極めて特異に映る。その猟銃を持とうと思い立つことが。動物を撃ち殺す人間として見るのだからハンターという類は私は嫌いである。動物を撃ち殺す残酷な人間がこんな事件を起こしても何ら不思議ではないというのが正直この事件の感想である。いくら害獣として人を襲う熊イノシシといえどそれをやるのは汚れた家業という自覚があれば私は納得する。単に銃の魅力に見せられそれで獲物を捕らえたいという昔気質な思想であったならば私はついていけない。
銃を持つとタガが外れたときにこうなるだけ。それを防ぐとしたらいい人間が銃を持たなければいけない。・・・そんないい人間ばかりが銃を持つわけではないだろ。その時はいい人間でも後から悪い人間になるのは今まで幾多の犯罪史を振り返ればわかることだろうに。この事件、端にそこの銃があったから起きた出来事だろう。包丁だけだったら警察官二人は死なずに済んだかもしれない。散弾銃という趣味を否定したくはないが否定したくなる瞬間である。
このような事件を防ぐのはできるはず。散弾銃の弾を許可なく個人が持つことを禁じるのである。必要に応じて警察に申請してそこで初めて警察から弾をもらう。そのときに警察が同行する。つまりイノシシ熊が出没したとき以外は猟銃使用ができなくする。北海道で野生動物の増加から人に被害が増えだすその対策からハンターに対する規制緩和は致し方ないとしながらも、そもそも銃を持って動物を殺すなどという動物権利というものに疑問を抱かない人間ならばその人間の気質に最大限に注意した上で銃を持たせてほしい。
そしてこの三人を殺したバカについてだが、その家庭環境からして甘やかされてたボンボンの類だろ。甘やかされていたがゆえにこらえが効かず感情的になりやすく極めて自己中心的な行動として死刑が相当である。が、死刑とは強盗殺人強姦放火と自分の快楽、利己を究極的に追求したことによる報いでしかなしえない刑なので、今回のような快楽でも利己にも属さない病的な憎悪を抱く感情表現の果ての凶行となれば精神疾患を割り引かれ、特権階級に属していれば忖度から懲役30年ぐらいかと。ただ、警察官の殺害に至っては国家治安維持に対する挑戦であり事の成り行きはどうあれ国家への反逆と捉えられる(渋谷暴動事件を例に)。警察を害すればヤクザならば死刑になるし(工藤会抗争)、その例は一般人でも変わらない。国の治安を守る警察を殺す罪の重さはとてつもなく、国家反逆に当たると日本の司法は判断するだろう。私は警察を二人も殺した、それほどの殺意に驚きを隠せない。
これはもはや警察は仇を討ってもいいだろう国家を乱した醜悪な殺人鬼には頭に銃弾を放つ、それが犯人にしてやれる最善の策であり本人もそれを望んだ方がおさまりがいい。
4月7日にNHKのドキュメント72時間という番組でドール趣味を持つ愛好家とそこに集うドールショップの日常を探るという内容が放送された。
同じドール趣味を持つ私からはドール趣味というなじみの薄いこんな趣味もあるのかというような実に感慨深い内容を把握するには十分すぎるものであった。
しかし番組が終了してふと感じたことがある。
「何故この人たちはドールが好きなのだろうか?」と
私はドールは好きだがドールを取り巻く界隈とは少し距離を置く。それというもの同じドール趣味の人間同士、温度差を感じてしまうからだ。
いわゆるドール好きのノリが私と会わないのである。ドールを「娘」と形容するその界隈の習わしがいささか苦手である。ドールはドールであり玩具である。娘という人間の分身と思うまで私はドールに愛着を今でも持てない。今回のドキュメント72時間もそんなドールを我が子のように可愛がるという方々ばかりであり、とてもガラスケースに何か月も同じ服を着せさせて放置している自分とはドールに対する価値観が違ってくるだろう。趣味において価値観が違う者同士が語り合うことは難しいと思うしトラブルの元になる。これは別の界隈で身に染みた。だから私はドール界隈の方々とはつながろうとも思わない。ドールとは表では華やかだが人々のドールに対する価値観は驚くほど多様でどす黒くもあるしドールの接し方ひとつで揉め事も起こる。そして意外とつまらないものなんだなと熱が冷めてくるものかもしれない。
この番組に出てきた方たちは何故ドールが好きなのだろう? どうすればそれほどドールを愛することができるのだろうか?
私は幼いころから姉と妹がいてそいつらの影響で男よりも女の趣味を見る機会が多かった気がする。姉はシルバニア、妹はリカちゃんと幼いころからドールみたいなものは目にしていたが男ながらそれらが魅力的に思えた。が、さすがに自分もそんなものは欲しいとは思わなかった。
その後家を離れ一人で暮らすとアニメ等自分の趣味を楽しんだ。フィギュアも大学生のころ始めていた。私がドールに注目したのは東方のチルノのドールである。チルノがドールになっていたから、いわばキャラでドールが好きになったくちである。好きなキャラクターだからそのフィギュアを買うみたいな感覚でチルノのドールを買っただけであり、いわば東方グッズの一部として別にドールが好きになったから買ったのではない。幼いころに思ってたようにドールは姉、妹がもつ女のモノであるという考えは崩れていなかったし今でも崩れていない。
私がドールが好きなのは好きなキャラクターがドールだったからそのドールを買っただけに過ぎない。何か運命の出会いというようなものや、もう一人の私というたいそうな思想も何もない。だから私のドール愛は薄っぺらいのである。可愛いから綺麗だからただそれだけでドールを好きになるのならばフィギュアでいいはずである。もう少しお金をかければドールという楽しみが分かってくるだろうとドールにのめり込もうとした。しかし、どうしてもドールを可愛いという感情から「娘」であると呼べるほど好きにはなれなかった。ドールを外に連れ出して野外で撮影するようなことは到底私にはできなかった。そこまでしてドールを可愛がれなかった。何故なのか? フィギュアはどんなに高くてもガラスケースに飾っておくし、多くのフィギュア愛好家はそうしてる気がする(YouTubeのフィギュア愛好家を見て)。ドールのようにスケールフィギュアを外に連れ出して撮影してるフィギュア愛好家なんていないかもしれない(ねんどろいどは割かし野外で撮影されてるが)。フィギュアは野外撮影しないのに何故ドールは撮影するのか?ドールは日本人形みたいに玄関や部屋に飾っておくものだという固定概念があり何故野外に出してまで撮影する? 飾っておいて見て楽しめばいいのでは? という疑問がある。これでは野外撮影するドール好きとは「ソ・リ」が合わないだろうし先に述べた他のドール好きと「ノ・リ」が合わないである。 結局私はドールというものを見下しているのかもしれないしドールが好きでないのかもしれない。
何故ドールを娘と呼べるほど好きになり外に連れ出せるほどドールが好きなのか?
ドールを持つ私の素朴な疑問である。
それとドールは男よりも女が持っていた方がサマになるというか、もし男がドールを持つのならば好きなキャラクターがドールになっているのが欲しい。それならばキャラクター愛作品愛に駆られたファンとしての消費行動として見て取れるし、男なのにドールなんてという偏見を聞かなくてすむし、やはりドールは女性の象徴として存在してそこに男が立ち入るのは野暮なのではという疚しさを覚える。ドルクに入りずらいのも女性の下着コーナに野郎が入り込んでいるように感じて実に気にしてしまう。私は結局キャラドールみたいなのがしっくりくるのである。そしてこんなキャラクタードールを一体でも手に入れればもうドールというものは私の中で完結できる。
これが本当に私が欲しかったドールでありそれ以外は正直いらない。
私が好きなドールを手に入れたとき本当にドールが好きであると胸を張って言えるのに…
こちらの紹介した歌は二・二六事件を色濃く映し出す国を憂いて新しい日本社会を築こうとするかのような昭和の歌曲。
ところでまさかとは思うが二・二六事件について知らない教養なき民はいないと信じたいので話を進める。この歌詞には当時の腐りきった世の中に対しての怒りの現れが表現されている。不器用ながらもその歌詞を口語訳してみてその後感じたことを話す。
1番
汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
溷濁(こんだく)の世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く
かつて楚の屈原は泪羅河に身を投げたことによりこの国を憂いた魂が沸き立つ
巫山(重慶市の景勝)の雲は風雲急を告げるかのように乱れ飛んでいる
つまりこれは今の日本に社会は道理が失われたということだ
そのことに我らは血潮が沸き立つような怒りを覚える
2番
権門上に倣(おごれ)ども 国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく)を念(ねが)う心なし
位置や名誉、家柄ばかりが尊ばれそんな奴らは権勢を欲しいままにしているが
金と権力ばかりに執着し誠に國をよくしていこうという真心はとうに潰えている
財閥は富を蓄えてその力を誇示しているが不甲斐なきかな、貧困にあえぐ国民を見て見ぬふりではないか
3番
あゝ人栄えて国亡ぶ 盲(めし)ひたる民(たみ)世に躍(おど)る
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
権力者は栄華を極めるがそのおかげで国は衰退していく
そんなことは思いもよらず道理を知らぬ輩は大手を振っているが
そのように人心を失った国が幾度となく滅んできただろうか
囲碁は一局で趨勢が変化するというが今の情勢はまるで囲碁を打つかの如く刻々と変化していくものだ
4番
昭和維新の春の空 正義に結ぶ益良雄(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花
昭和の世を変えていく昭和維新なんて晴れ晴れとした空気であろうか
正義のために契りを結んだ勇ましきかな同志たちには迷いない
その生き様はまるで万と咲き誇る桜の花びらのように美しく散っていくそれは正に清く正しく澄み切っているものだ
5番
古びしむくろ乗越えて 雲飄揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて起つ時に 大丈夫(ますらお)の歌なからめや
この腐敗した世の中を打破せんがために一介の我らは何物にもとらわれない境地にある
そんな我らが国を憂いて立ち上がるからにはそんな心情を包み隠さず打ち明ける歌がないはずがない
我らの心を歌として刻むのである
6番
天の怒りか地の声か そも只ならぬ響あり
民(たみ)永劫(えいごう)の眠より 醒めよ日本の朝ぼらけ
天も地も怒りに沸き立っている尋常ならざる状況に今こそ闇を打ち破る時が来た
国民よ今こそ眠りから覚める瞬間である
共に日本の新しい世の中、新しい光をを迎入れようではないか
7番
見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐
見よ、天の最も高い所に雲は垂れ下がっている
すべての海は叫びている
これまさしく革命の気風は吹き荒れいつまでもそれは止みそうにもない
8番
ああうらぶれし天地の 迷ひの道を人は行く
栄華(えいが)を誇る塵(ちり)の世に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺めぞや
ああ、このみじめな世の中では語ることも何もなく、人々は何をすればよいのかわからずにいる
一見するとこの世は豊かさも目にすることができるが、しかし、こんな俗世に至ったすべを高々とした立派な場所から眺めていられようか
9番
巧名なにか夢のあと 消えざるものはただ誠
人生意気に感じては 成否を誰(たれ)か論(あげつら)ふ
この世の中において名誉や手柄などどれほどの価値があるというのか
そんなものは夢のように消え去ってしまうものだ
しかし「誠」の心だけは消え去ることはない
人生とは損得で動かされるものではない「誠の心」で動かされるのだ
そのことに対して誰が成功だとか失敗だとかそんなくだらないことに拘わろうとするものか!
10番
止めよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
我等が剣(つるぎ)今こそは 廊清の血に躍るかな
あれこれと悲歌を謳うのはもうやめよう
いつまでも悲しんでいても仕方がないではないか
もう悲歌慷慨(悲痛に歌い憤って激しく嘆く)の日は過ぎ去った!
我らの剣が今こそ世の腐敗を打破して、願わくば我が血でこの世を清めたまえ
相当に意訳しています。これも聞きかじるくらいではこの歌詞は現代語に変換できない。ある程度くらいの書見で行ったもので意味の間違い誤訳は必ずあるはずです。間違った知識を披露して迷惑が被るのならば私の愚かさを自覚している次第です。
しかし、歌詞の意味だけでもと分かってもらいたくてなんとか書いてみたもの。
この歌詞は意味には多くは漢学に由来する。ゆえに教養なくしてその意味は伝わらない。これは私の誠に勝手な私見だが無知なものに歌詞の意味を理解されたくなという思いみたいなものが、革命というからにはありきたりな言葉よりも難解な言葉で綴ることがその革命とやらにふさわしく聞こえてくるのではと考えて綴られているかのようだ。志あるものでなければ到底その意味も伝わらないそんな歌詞ではないかと思うのである。
それは裏を返せば実に独善的である。自分だけ分かればいい。自分だけが正しいのだと。しかしそんな難しい難解な歌詞では天下万民には理解されない。そしてそんな歌詞のように二・二六事件は理解されず多くの青年将校が処刑されて志を遂げられなかった。二・二六の失敗の原因は人心の心を掴みきれないままに独善的に行動した点である。革命というからには自分だけではだめなのである。民全員に分かりやすい言葉で綴らなければ。何故漢学に精通するものでなければ分かり得ないそんな歌詞にしてしまったのか。単純に貧困にあえぐ民衆を助けたいという簡素な言葉で歌詞を綴れていないのがこの青年日本という歌の欠点である。だから私はこの歌は嫌いである。小難しくて難解でそれでいて独善的で民衆の言葉に響いてこないと感じるから。
所詮軍部の派閥争いから端をはしたもので誠に民衆をどうこうしようと起こしたものではない。ただの本当に軍部の内部抗争。世を憂いての革命とかそんな大そうなものでは全くない。青年将校の第一の要求とは貧困にあえぐ民を救いたもうという崇高な理想なんかではなく自分の派閥に属する皇道派の上役を要職に就かせろという俗な要求であったことには甚だ幻滅のなすがままである。おかげで軍部が台頭して日本からは民主的な政治の在り方は潰えて国民は軍部の奴隷となる転換期となった実にはた迷惑では済まされない自分勝手独りよがりなシロモノ…。
今年も2月26日になるとこの事件について述べられることがあるとしたら、その日になる前に先に言いたかった。もうただの集団殺人事件でしたで終わらしてほしい。義挙だとかいってもてはやしていた人間を去年思い出して気分が悪かった。今の世の中自分勝手な正義で相手を傷つける正義中毒の人間がいる中、二・二六はその確固たる出来事だということを述べたかったことも付け加えておく。
そもそも今回のブログ内容はこの小難しい青年日本の歌の歌詞の意味を断片的に理解できるように記しただけで二・二六を否定するのは二の次である。
でた久々の凶悪事件と囃し立てるつもりはないがもういい加減分かればいいと感じる
埼玉県飯能市で3人をハンマーで顔面を打ちつけて殺害した事件。
そして犯人は40歳無職。
これだから無職はと軽蔑する必要はない。
この事件は無職が原因で引き起こされたものであると感じる。
人間働いていれば周囲のことなんて気にならなくなる。ブラックまがいなところではなく週5で7時間でも働ければいい。それでこんな凶悪な事件はなくなる。せめて窃盗や煽り運転で逮捕されるくらいで人を殺したりはしない。
人間働かないで生きていくといろいろなことが気になり始める。周囲の音、人からの視線、そして思い込み…。これらは結局ヒマで仕方がないから引き起こされる。仕事していない分周りの人間に関心が向いてしまうのである。確かな根拠はないがある程度私見に過ぎなくても精神疾患の私が思うことである。
※自分もこんな立場だから他の人間とは違った視点かもしれないことを了承してほしい。
別に無職でもアニメでも漫画でもソシャゲでもしていれば多少気にならなくなるが、これがなんの趣味もない人間であると、好きなこと打ち込めることがないと神経が過敏になりちょっとのことで落ち着きがなくなる。人間とはヘンナ生き物であるといえる。
人は食わねば生きていけない。その生きていくための食い物をどのように手に入れるか。それは金を使って手に入れる。その金はどう手にするのか。働いて手に入れるのである。この人間の一番の基本ができていないのである無職は。その当たり前ができていない人間がまともなはずがない。働かなければその時間が長くなるほど精神病になる。精神がやられるとまともに空気を吸うのでさえも難しくなる。そうなると生きていても仕方がないのである。だから自分の人生を終わらすことに躊躇がないのである。
無職だから事件が起きたただそれだけである。
そして、犯人は何も人格破綻者でも生まれながらの精神病者でもない。宅間みたいな小学生でありながら生きた猫をストーブに放り投げたりする生まれたときから天が見放したほどの人間でもない限り本来はごく普通の人である。頭もよくサッカーも得意な普通の人間だったのだろう。ただ宅間と共通箇所がある。家庭環境の悪さである。どの犯罪心理学の著書にも幼いころの家庭環境の不備がその後の犯行の第一の始発点となってしまうとのこと。日本の死刑囚のほぼすべてが育った環境が悪い。虐待は当たり前で育児放棄に加え貧困、学習環境の劣悪さ…。この犯人の本来の家庭環境はよくわからないが家族は犯人を残して出て行ってしまったとのこと。そうなると家庭環境の不備の一つであろう。所詮人とは誰かの理解や助けがなければうまく人間が育たないのである。それを行うのは家族であり使命でもある。
その無職にさせた原因は家庭環境だと断言する。うまく人間を育てなかった父母という家族のもとにそんな人間が社会に出でもうまくいくはずなく職にありつけない。無職の原因は家族が・・・残念ながら偉そうに言うが家族に原因がある。なにがあったか知らないが勝手に残して出ていくその根性は許せないし犯人の心情察し余る。
虐待とか社会問題になっているが、当たり前である。人間を育てられなければこれからも死人が出てくる。人を育てるというのはとてつもない責任を負うのである。今の日本人は子育てができない軟弱な人間が多い。うちは虐待していないから大丈夫ではない。お前は店や交通機関で騒いでいるわが子を周囲にこれみよがしに叱ることができるか。周囲の大人に迷惑かけた時に子供を泣かせるほど叱りつけプライドを押し殺して平謝りできるか? 日本は豊かさを手に入れた代わりにその豊かさに甘え昔ながらの貧しくとも守り抜いてきた理性・道徳を失った。自分勝手に育ててきたツケがこの様である。
私は犯人よりも犯人の家族が許せない。そしてそんな無職をなんの気にも留めない周囲の空気。行政はそんな無職にもう職をあてがってやれ。使えない人間かもしれないが使わざるを得ない。無職にさせておくことがどれほど社会問題になるのか? たかが15万の給料も紹介できない国ならばもういっそ共産国家を望む。無職だからと差別する資本主義社会なぞキタチョンのミサイルで滅ぼされてしまえ。
何故人を殺したのかを論じるよりも人殺しが出にくい社会を築き上げることが先である。そうした政治を望むのであるが、自公は問題にしない。子育て支援よりも貧困家庭に支援しろ。topixラージ70とかに勤めている家庭の生意気そうなクソガキに金を渡してもただ肥えた豚になるだけで亡国の国策に過ぎない。「将来有望な家庭の子供ならば支援のし甲斐がある、貧乏人は麦を食え」と言わんばかりのその根性、反日の元である。
今更競馬に拘わってきてダルがらみしてくるけど有馬記念でこれだけは覚えておいた方がいいというのがある。たらればではなくガチでいつもいつも言われていることでいいい加減学習した方がよい。
ピンク8枠の特に16番の大外枠
ガチで死神が潜んでいるクソ枠。それはもはやオカルトレベルでお祓いなんかおそらく効かないだろう。
そんでその生贄みたいになったディープボンド。
この馬枠発表される前には紐の最有力候補だったが川田の怒りが示すかのように私も心底がっかりして木工用ボンド買うのをあきらめた。
有馬記念の16番枠は何がそんなにクソなのか? 要は大外枠だから距離を多めに走らされて不利なの。ならばスタート直後に内に切れ込めばいいと思うがその切れ込むのに脚を使い最後伸びなくなる。まさに「なんじゃそりゃ」だがそれだけ欠陥枠といってよいしもはや解体して更地にしたほうが清々する。
かつては眉毛こと蛯名元騎手が枠抽選で16番を引き当てたとき危険かつ危ない顔していたがそのおかげでマリアライトは不運な馬だったと今でも忘れない。もうこんなものは中山のコース自体を大改修して変えてしまうか距離を2000にするとかするしかない。でもね、伝統の有馬の2500を変えないし、だから被害はなくならない。だから有馬16番はもう有馬買う初心者は絶対に覚えておけ。
買うなと。
「いや枠ごときで勝機が左右されるはずない」。俺もそう思いたいよ。一体どの馬ならこの呪われた枠を退治できるのか? ディープか? オルフェ? そんな名馬が8枠で走ったらどうなるのか私は知らない。おそらくなぜか好枠引くキタサンみたいに(17年宝塚は除く)疑惑の抽選で入れないようにしてるんだと思う。そう俺は考えてるがそれってなんかフェアじゃ無くね? 馬から勝手にダイブする騎手(気になったら検索)がいるくらいだから中央もきな臭いと思っている。
ジンクスは打ち破るためにあるというどこかの言葉では通用しない競馬の闇です有馬記念の16番枠は。。。
イーノック「大丈夫じゃない大問題だ」
じゃあ北方領土武力制圧しろよ
俺も徴兵に志願して国のために死んでやっからよぉ
な、な、な、何を目的にこういうことすんだろう? 10月たかがキタチョンミサイル青森上空通過してビビって決めたのならば、あなた方の危機管理のなさでしょ? 防衛費増強して対策しますなんてただの詭弁だよ、なぜ青森上空にミサイルを飛ばしたのか? そうならないためにどうすればよいのか? 国民に地下に潜れと言っても青森県につくばTX秋葉原駅みたいな深い駅とかあんのか? そう返されて答えられなければもう挫折なんだよ。外交で少し北朝鮮に強く出てもいいのに外交問題にも出来やしねぇ、ヘタレ日本に防衛費増額してもそんなヘタレに防衛できんのかよ?
俺はこのブログでパヨクと罵られて(むしろそう思われるのおいしいなと思ったが)中道左派だし母親はきょう師できょう産党支持だし(韻を踏む)血筋から所詮パヨクといわれようがやっぱり急遽防衛費のために増税って国民不在の民主主義だと思う。閣議で決めて国会で承認されて、、、そこに国民の意見とかってあったか? 「わたしー、せいじとかわんかないしー、かってにやればーwww」みたいな頭悪そうな女子高生ばかりじゃないと思うんだよ日本国民は。年末だからその年末をどう過ごすかに頭がいっぱいの日本国民のすきを突いたかのように言いだす姑息さはいただけないんだよ。
俺は防衛費は今のままで十分で増額してまでやることではないと思います。北朝鮮、中国、ロシアの脅威を全く感じていませんのでその国にあてがうお金は無駄ではないかと思います。もし増額となれば外交で危機が生じたときです。いきなり宣戦布告なしでミサイルが飛んで落ちてくるという最悪の状況を考慮してミサイルを打ち落とすというスターウォーズ構想(SDI戦略防衛構想)ができるというのであればそういったものに予算を使うべきです。でも、そんな何を何のために使うのか言ってないよね? 用途不明な防衛費増額に何で脳死でOK出すと思ってんの? ふざけ過ぎじゃね? まさかとは思うが富士重工にでも頼まれて言ってんじゃねーよな? 100万の借金で首吊る国民もいるのに1兆円なんてその税金払うだけで幾人の国民が死んだかもしれない、そんなこと想像したことある?
天下は天下の天下なり。今度家康の大河やるからこれを機会にこの言葉を俺は政治家に問う。どうせ捨て置かれるけど言わずにはいられない。
そもそも俺は日本がどうなろうと知らん。自殺願望があればより多くの人間を道連れにして死んでいきたい。つまりそれは戦争で日本が攻撃されることを望んでいる。昔2CH無職・だめ板に「こんなクソみたいな国とっとと滅びればいいと思う」というスレッドがあったがいまそんな気分である。日本が戦争になったら自ら私も戦うがそれは愛国心を言い訳にした自殺願望。もうこの国が勝手気ままに国民不在の政治をしてきたことに絶望していた。かろうじて前首相が暗殺されて暗部を曝け出すような展開はあったが根本は昔と変わらない。なんか息苦しいよ今の日本。サッカーも負ければもうどの国が優勝するのかメディアは論じないし、儚いブラボーからの現実に戻れば30年を過ぎても給料が上がらず税金が上がる未来が続く。こんなんでどう明日を生きる希望があるの? 趣味とか生き甲斐がある人ならばそんなこと気にしないで能天気にやれるが、私みたいなつまらない人間にはことのほか苦しいですよ。
精神もろい人間は勝手に絶望して死ねばいいのですかね? もともと政治に期待してなくてももう少し自動車税ぐらいは安くできると思うのですがほんまたのんます。汚職してもいいから税金だけは上げないでください。土下座しますからそれだけはどうかお慈悲を・・・・