寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

あぁ、競馬

私は競馬場、ウインズに存在する際に、ふと辺りを見回して物思いに耽るときがある。その時の雰囲気が心地よい。まるで現実的な物事を忘れさせてくれるようなそういう時間がある。
それは競馬には特殊な空気が存在する。その空気とは夢という名の幻影だったりする。競馬にはなにやら一体感がある。それは競馬というレースに込められた馬券を当てるという「夢」のために意気奮闘し、時には涙を流したくなる始まりと結果にある人間ドラマ。そうさせる競馬の空気とは人間の心理を操る凄さと怖さがあるし、それでいて馬券を当てようとする人間から伝わるオーラが私に触れたとき、自己の競馬感とを比較しようとしてみたら共感し心地よくなるのである。「あぁ、競馬ってやっぱり面白いんだな」。
たくさんの大衆が馬券を握りながら悲喜あらわに感情を抱かせる競馬には人間の深淵にある業とも本性が鮮やかに映し出される。ゴール前で叫ぶおっさん、緑の職員にくだをまくおっさんとなにもおっさんじゃなくてもいいが、そうした行動もまた、私自身にも無意識の中に秘められているだろうと否応なしに共鳴できる気がする。人間の性とも本質ともいえるそれは人間について学ぶさいに興味深いだろう。そんなテーマがあったりするから競馬とはなんだか面白いのだ、私が考えるには。
・・・なんだかいきなりこんなこと言い出すのには今日は皐月賞。それなのに馬券を買っていない自分がなんだかなぁと思ったからだ。もちろん震災が心に与えた影響はある。それと同時に、今の競馬は惹かれるものはあるのだろうかと、競馬をやりたくなるという気持ちが人々にどう伝えられるのだろうか。私は馬券が当たる当たらないは正直想定内であれば結果は求めない。私が考える競馬の魅力とは、賭事をロマンと都合よく置き換えてしまう競馬のドラマ性だろう。だから寺山修司が競馬を大衆文化の域に押し上げようとも、宮本輝の「優駿」の哀感な文章も競馬にはそうした魅力があるからなし得たのだろう。
私は競馬には賭事以外の魅力を伝えないとここ最近思ってきた(以前はその逆に考えてた)。お金が儲かるというのをアピールするのもいいかもしれないが、それはギャンブル故の絵に描いた餅になることもある。それに幻滅させないためにもギャンブルとはまた別の側面をアピールしてギャンブルだけが競馬ではないとしたほうがいいかと。私はやっとJRAの倶楽部競馬の意図を理解できたつもり。お金だけに固執するアピールよりも何らかのロマンを伝えることの模索は別な競馬の魅力を伝えてそれに共感できればと・・・。
それでもまだ競馬に対するギャンブルのイメージが抵抗感として人々にはあるだろう。最初にだらだら書いたような競馬の捉え方してる私はある種貴重な変わり者のような気がする。実は競馬が自分の趣味から遠のくことへの戒めのつもりで書いただけだが。それにまたウインズ浅草で年齢なんて関係なく、屈託なく、偏屈であったり、陽気でバカっぽくて(褒め)人間味あふれるおっさんと好きなことで喋ったりするのも競馬が好きだったことを再確認できるだろう。
そろそろ馬券買いにいくか・・・。