寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

加害者を追い込む過剰な正義

朱門には酒肉きに
路には凍死の骨有

杜甫


今の日本ではないかと。富を持つものは生臭く生を貪り、貧乏人は道端で凍死しても同情されない。地獄の沙汰も金次第とは何時からこんな日本は薄情な国になったのだろうか。私が生きていたほんの数年前からこの変わりようはおかしい。おかしいのはてめえの頭だと言ってしまっても構わない。人柄を才能で潰すことでこの国は成長したのではないと。日本が諸外国から評価されてきたのはその「人柄」である。「人命は地球よりも重い」とハイジャック犯の要求を鵜呑みにした日本政府はまだ弱者に対する抱擁があり、「それ」だけは国外からも評価されていたという。それが今では自己責任と言う薄情な言葉で切り捨てそれを国民が理解してしまう。だから、この国は弱者に薄情になったのだ。国が変われば民も変わるものか。私はこの国の人間ではないのだろう。

弱者を助けようとせず、さらに弱者となる人を追い込んで弱者に仕立てようとする。

どこかの鉄道かは東急田園都市線で痴漢を疑われた男性が女性と他の男性客によって電車からおろされたあとに線路に逃走して轢かれて死んだ。痴漢冤罪なのか痴漢と言う卑劣な行為の報いだというのは個々の判断でよいのだが、私が許せないのは女性ならともかく、関係のない他の男が正義ずらして男性を苦しめたことである。どこの誰だからわからないが第三者の私人逮捕は大変腹が立つ。これは私は過剰な承認欲求からくる正義としている。痴漢を捕らえて女性に感謝されたいというのではない。痴漢という低俗な人間を合法的にいたぶり蔑みいじめて気分を爽快にしたいだけである。痴漢男は悪。悪だから大衆にその醜悪なサマを見せつけるためにも俺がこの行動を起こさねば(痴漢男を捕まえなければ)。まさにいじめである。この国は弱者となったものをいたぶって快感を得る得体のしれない人間がいるのである。溺れた犬を棒で叩くどこかの国のメンタルを見習っているのである。痴漢は最も醜い犯罪であり衆目に触れることで社会的信用を失墜させる。だから、せめてもの情けとして痴漢者に大立ち回りをして捕らえるようなことは差し控えてもらいたいのである。痴漢者がつけ上がるからとかそういうのよりも、痴漢者と周りのトラブルを私はあまりにも汚い世界なので見てるだけでも吐いてしまうのである(実際吐いた)。そんな芝居を終わらせて欲しくてそこら辺の男数人で取り押さえるような大げさな真似はやめていただきたい。痴漢者とその被害者と周りの協力者のやり取りはこの世のものとは思えないほど悍ましい。私が痴漢者を取り押さえる男を嫌うのはこんな心からの嫌悪感である。しかし、罪は罪。罰しておかなければとおもうところだが・・・。

昔の日本は「武士の情け」と言うものがあった。人の弱みは見て見ぬふりをしてあえて周りに風潮させたりしない。何故ならそれはその弱みを持った人をさらに傷つけ自尊心を内心までも傷つけては余りにも不憫である。それがたとえ犯罪であってもだ。悪人であっても恥をさらさせたりはしない。それは日本固有の日本人の持つ優しさでもあった。

古代中国において春秋時代の楚の荘王は臣下にむけて酒宴を開いた。その時ふとしたことからろうそくの明かりが消えた。暗闇の中である臣下が荘王の妃に悪戯をした。妃は荘王に「私に無礼を働いた者がいてその者の冠の紐を切りました。明かりをつければ冠の紐が切れた者がいます。その者が私に無礼を働いた者です」と語った。荘王は臣下全員に「明かりがつく前に冠の紐を切れ」と命令した。明かりをつけたら皆の冠の紐は切れていたので誰が妃に無礼を働いたのかわからずその場は収まった。確かに悪いことをしたならば咎められねばならない。しかし、大勢の前で辱めを受けさせるのは悪戯とはいえ耐えがたい屈辱であり他の臣下からは蔑まされ今後の人生に暗い影を落とすことになるかもしれない。ちょっとした悪戯ぐらいでそれでは可哀想であるとしたのは荘王の優しさでもあった。その後は続きがあり荘王は戦いで死にそうになった。その死にそうになった荘王を命を捨てて救い出したのが妃に悪戯をした臣下だった。見事に荘王の優しさにその臣下は応えたのである。女性の言葉と臣下の今後の人生を天秤にかけて判断した荘王が戦国の覇者となれた所以の一つであろう。

故事を持ち出して私が言いたいことはいかに犯罪者でも人としての尊厳はある。身体は痛めつけてもいいが心まで痛めつけるのは余りにも不憫でならないと私は思う。ことに痴漢と言う人前で恥ずかしいことはその当事者間で誰からも知られずに厳罰を受ければよい。そういう犯罪は他人に言いふらすのは下品で無教養。ことにそんな痴漢と言う過去の後ろめたさを弱みとして握り、それで陰口を叩くような卑怯な輩は殺されても構わないと思っている。過去は過去。受けた罪を罰で全うしたらいくら気になっていても決してそれをその人にむけて言い放ってはいけない。

さて、痴漢を取り押さえた男どもにそんな相手に対して気遣いはあったのだろうか? 断言する。ない! そんなことだから痴漢者を余計に怖がらせて線路に追いやり殺してしまうのである。線路で死んだのは冤罪云々とかではなく馬鹿な男の過剰な正義のせいであると言いたい。悪者は悪いから銃で撃ち殺しても構わないというダーティハリー症候群に武士の情けとか、情けをかけてあげられる寛容な精神を持つことなど二度とできない。その人の人生なんて知ったことではない。悪者は悪者なので人ではないのである。捕らえた男の言い分はこうだろう(死ぬ前までは)。これは今の日本社会にに相通じる。低所得者は努力不足、甘えだから助けてやる必要ない。おそらく痴漢を捕まえた男は社会的に合格したリーマンあたりだろう。何を偉そうにネクタイ絞めて首から社員証をぶら下げ勝ち誇った態度でいるのだろうか。そんなんだから弱者に対して過剰な正義を振りかざすのである。自分自身を善人だと思っている人間の傲慢さに自分のなかにある悪に対する自覚に関する問題を解いてほしいと常日頃であるのだが。

さて、無教養なエリートリーマンがこの過疎ブログを見ていることを祈りながらもう一つ・・・。

レ・ミゼラブルジャンバルジャン。彼はくだらない金額のパンを盗んだ罪で十年余も時計吊るしの刑を受け刑が終わると無一文で刑務所から追い出される。食べるあてもなく死にそうなジャンを教会の神父が助けてあげる。神父はパンを盗んだだけでそれだけの刑を受けるのかと驚きジャンが余りにもかわいそうすぎると涙を流す。神父はジャンを教会で働かせジャンもそんな神父の優しさに感動して真面目に一生懸命働いた。神父はそんなジャンの献身的な態度に心を打たれる。ある日神父が教会を留守にしたとき一人残ったジャンは魔がさしたのか教会の銀の蝋燭立てを盗んで教会を出て行っしまう。帰ってきた神父はジャンがいないのと蝋燭立てがなくなっていることに気がつく。後日ジャンは逮捕された。手には盗んだ蝋燭立て。ジャンは己の悪事を認め観念して警察とともに神父のもとに。ジャンを捕らえた警察は神父に伝える。

「奴が盗んでいった蝋燭立ては無事戻りました」と。

その時神父は怒りながら警察にこう放った。

「あなた方、なんてことをしてくれたのですか! その蝋燭立てを彼が盗んだ!? とんでもない!! 何を勘違いなさるのか。その蝋燭立ては彼に差し上げたのです。それなのに何故彼を捕まえたのですか。あなた方はまたしても罪をかぶせて彼を痛めつけようとするのですか!?」

その後のジャンは完全に改心してパリ市長になる。そんなことよりも恩をあだで返したジャンを神父が、このような言葉を放ったわけとは何だろうか。

親鸞歎異抄にもある「悪人正機」。悪人こそが救われなければならない。悪人は善行を成しえないのだから救ってあげて善人にさせなければならない。常人は常人ゆえ、悪ではないから救うこともない。まことに救うべくは煩悩具足に苦しめられている悪人。どんな修行しても地力救済を成しえない。だから阿弥陀仏は救ってあげねばならない。ジャンが悪事を働いたのに嘘をついてまでジャンを庇う神父。悪人こそが救わねばまた悪人になるだけ。ならばまたジャンを救わねば。実に単純である。罪の重さよりも人間としての良心がジャンにはあり、神父はそちらを選んだに過ぎない。本当に悪人ならば教会で真面目に働くわけがない。ただ、その時は手が出てしまったけど彼にまた辛い思いをさせたくない。銀の蝋燭立て一つでまた彼の人生に影を落とすくらいならそんなものあげてしまっても構わない。

キリスト教はこんな博愛精神がある。右の頬を殴られたら左の頬を差し出す。悪人には悪人をも改心させるほどの慈愛の精神が、その慈悲深さ優しさこそがキリスト教の「愛」となり最大の特徴なのである。

犯罪者を擁護するのは私ぐらいである。しかし今日において僅かばかりでもいいから犯罪を減らしたいと思うならば、罪を重くしたり見せしめとしてさらし者にするのでは世が殺伐とするだけな気がして全く効果がないと考える。私の足りない頭で犯罪関連の本を読んだがどうも罪を減らすのは博愛主義だと信じている。

それにしても、だ。悪人なら悪人を善人にさせることの手間を惜しみ悪人のまま悪人で終わらせ後世に悪名を綴る。貧乏人は努力不足と言い自己責任と言う薄情で無慈悲な言葉で後世に綴る。お人好しと呼ばれた日本人も変わられたものだなと実にため息が出てしまう。