寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

ひきこもりについてだが・・・

毎日毎日くだらないと思いながら生活している。そうやってくだらないと感じてしまうのは世にはびこる不愉快なニュースを知ってしまったがためである。

大阪でひきこもりと思われる男性が刃物で人を刺した。

もういい加減これらの解決策はないのだろうか? 政府は解決しようとしない。何故なら政府とは常に強者の立場であり、強者の都合のいいように世の中を回したがるからだ。ひきこもりみたいな弱者を相手にするくらいなら、金になりそうなことに無心する。強者とは金を持つものであり、強者として存在したいがために、強者の資格である金を持つものに対してはそれなりの働きをするが、弱者と呼ばれる人たちには(その弱者とは想像に難くない)、弱者を助けようとしても金にならないから助けない。

馬鹿な!!

残念ながら日本の政治はこれなのである。私が政治に失望して遊仙詩のように振る舞いたいと願うのもこうした弱者に対してはあまりにも人非人な血の通わないその面を持つ政治家達を見てきたからである。王安石(1021~86)という中国北宋の政治家がいた。王安石は傾いた国の財政、軍事を立て直すべく「新法」という政策を打ち出した。新法とはいわば弱者を豊かにしていき、それで国力を押し上げていこうという、弱者救済の性質を持ち合わせていた。「衣食足りて栄辱を知る」とは春秋時代斉の大宰相菅仲の言葉であり、人は経済的に充足してこそ礼儀、節操を知るとされる。いくら口で綺麗ごとを放っても貧乏人の弱者とは生活に余裕がない。口で言うよりもまずは俺たち弱者を豊かにしてみろ。それで初めて国が豊かになったと決定づけられる。王安石の政治信念は正にこれである。しかし、図らずも新法は地主、大商人や特権官僚の既得利益を脅かすものであり、司馬光ら保守層の大反発を招いた。改革とは旧態依存と潰しあいであり、大変な手間と時間と争いを要するものとはいえ、一時的な損得勘定からなる反対。下の者から豊かにしていき、国力を持ちなおそうとするというのは絵空事なのであろうか。

今の政治情勢と照らし合わせると、王安石の民の目線に立ちながらの政治姿勢は今、現代の政治に求められるべくものであると断固としていえる。しかしそれがかなわない。何故なら弱者を豊かにするというのは政府の国益には結びつかない。いうなれば無駄であり、金にもならないからしないだけである。王安石の時代と今の時代は一緒なのである。金にならないことは政府は一切しないのである。だからひきこもり救済なんて口先だけで何もソレらしい活動なんてしないでNPOに丸投げしてそれを政府は「一応対策を講じている」としていて、NPOの行いを政府の行いだと国民に誤認識させようとしている。もしひきこもりが政府に大金を渡すならば政府はひきこもりを助ける。しかしひきこもりはそんなことはしない。だから助けないし、助ける価値もない。弱者は弱者らしく弱者で振る舞い、強者に頼ろうとするな。弱者を助けると強者達にそんな奴助ける必要はないと怒られるから政府は弱者を助けない。何も誇張ではない。正直に話しているだけだ。一応反論もある。安易に弱者を助けようとすると、助けてもらえるからと味を占めて自ら弱者になろうとするその社会機能の停滞を恐れて政府は弱者を救済しないのだろうと(働こうとせずに安易に生活保護に頼る生活保護不正受給等の問題)。

しかし、それはただ単に怠け者のことである。ひきこもりは単に怠け者ではない。だから、救済が必要なのである。小田晋、作田明二人の編集からなる「心の病の現代1 ニートひきこもり PTSDトーカー」という本を改めて見直してみた。二人の著者を知らないのはもったいない。小田晋氏はかつての神戸連続児童殺傷事件についてなぜその犯行に至ったのか様々な言論人はその答えを導き出せぬ中、唯一一瞬にして快楽殺人、性的サディズムと心底を見抜いた。余談だが柳美里氏は少年Aの犯行文を天才の文章と絶賛して、小田氏の快楽殺人者という主張に「人の個性を精神病などと片づけるその人間性があまりにも哀れ」と過激に言い放ったのだが(うろ覚えですが、確か批判していた)。作田明氏はメディアでも露出が高かったから言うことはない。心理学、精神医学という気難しそうな人物でなく、気さくな人柄がとても印象的だった。

この著書はPTSDとストーカーとニートひきこもりについて問う三部構成で成り立っているが、おおよそニートひきこもりに対するウエートが占められているので残り二つは言い方は悪いがおまけみたいなものである。その証拠に最初のニートひきこもりに対する見解を綴っているのが小田氏であり、著書の表紙のニートひきこもりのフォントの大きさを見れば、これがニートひきこもりの本であるという捉え方をしても構わないと思う。もうだらだらと語るのもやるせないので簡単に内容説明。

結論から言うとニートとひきこもりは精神病であり、病院にぶち込まなければ問題は解決しないとしている。小田氏はニートひきこもりを個々の個性として、新たな生活スタイルとして、またはかわいそうな弱者として社会で認めてあげなければいけないという理解を示してあげるということを極度に嫌っている。言葉を発すればいつでも「精神病なのだから治療が必要」だとする強固な信念が存在している。ことにリベラル的な考えは到底受け入れないし、かわいそうとニートひきこもりを庇う者たちを「全共闘くずれ」と称している。ニートひきこもりは社会の体制に属さないその反体制的なサマが、反社会的な思想を持つ全共闘世代がそんなニートを好意的に支持するとしたらば同じ穴の狢で社会から指摘されてしかるべきであるとしているからだ。ニートひきこもりに対して安易に同情は禁物。何故ならそんな奴らを社会は受け入れないし(ニートひきこもりの就職の難しさが主)、現実を教えず保護的な議論は偽善であるとこれしか言わない。

私の率直な感想としては半分反対で半分はおおよそ納得できている。まずその、ニートひきこもりは精神病と決めつけるのが大変感じが悪い。いくら著名な方であっても腹に据えかねる。その精神病とする根拠がこれまた見事な正論であるから余計に憤りを感じる。ニートひきこもりを冷静に多角的な側面からとらえると、父権の不在(エディプスコンプレックス)、男性特有の自己現実妄想、引きこもりの突発型犯罪の起因、人格障害(境界性人格障害自己愛性人格障害)などという文言に対してニートひきこもりの反論の余地がない。それでいて精神病で病院にぶち込むのが相応と言われれば私は正直読んでいてぐうの音も出なかった。人間とは図星を言われると怒りだすとはまさにこのことで怒りたくなる。私はニートひきこもりに対してリベラル的な感情を抱き、ニートひきこもりは悪くないという立場であり、いわば全共闘くずれだからである。この正論は鋭い。鋭いがゆえに、人の心も鋭さで傷つけてしまうのではないか? ニートひきこもりという弱者にとっての逃げ場が無くなるもので、これを当人に聞かせてしまうとしんどくなり、落ち込んでしまうだろう。

しかも、ニートひきこもりを精神病と言い放つのは人間としての尊厳を、人権を省みない無責任な発言であり、その言葉には人としての温かみがない。法とは非情なもの(貧乏で飯が買えず、腹が減って食いものを万引きしても同情されないで法で裁かれる等)であると捉えるかのようにニートひきこもりに対しても非情になれとは。法は人ではないから非情であっても構わない。しかし、ニートひきこもりは人である。もう少し優しい言葉をかけて、厳しさの中にも人としてのぬくもりを感じさせる文言があってもいいのに、この著書にはそんな批判には言い訳がましく非情を貫いているのである。ある日、元気だった少年が中学に入りいじめをうけ、ひきこもりになってしまった。これを果たして精神病だと呼べるのだろうか。後天的なもので言うにしても、こんなの人の気持ちの変化であり、精神病でないと断じていえる。いじめを受けてひきこもりになれば「お前は精神病だ」と言われれば「自分が悪いんだな」と回避性パーソナリ・・・とにかく、自罰的ストレスで余計当人を追い詰めてしまうのではないか。だから私はニートひきこもりに対して精神病なんて口が裂けても言えない。そんなのは2ちゃんのちょっと言動が人と異なっていたら「キチガイ」と無責任に書き込むソレである。第一、精神病だからと入院してもそれで治るとは限らない。有りもしない精神病と誤診されて、ベッドにベルトで縛り付けられて、むちゃくちゃな投薬されて、気が狂いだして、最後には医者に首の骨を折られて殺された。製薬会社と医師が患者の治療費を奪い取るために金づるとして犠牲になったある方をテレビで放映していたことは誰かしら知っていてほしい。はっきり言います。精神病じゃないのに、ちょっとした心の変化なのに、それを精神病と診断されて薬づけにされて余計おかしくなった人を見てきています。ガン患者にその人にとっては効きもしないのに抗がん剤売りつけて患者から死ぬまで金を巻き上げる行為が他の医療現場でも見え隠れしている気がするのです。私も精神病です。精神病であるが、やはり精神病と他人から言われるのは本当につらいのです。だから、あえてこちらから精神病と自虐的に振る舞うのですが、やはり精神病も個性として捉えて邪険に扱わないで欲しいというのが本音です。

このことが先の著書に対する半分反対の意見であり、今度は半分おおよそ納得する点を一応伝える。小田氏はニートひきこもり問題をたんなる労働力不足として把握するのではなく、職業訓練や支援は不要。そうではなくて、真に必要とするのはニートひきこもりの根底にある「心の病」への対策であると説いている。これはまさにその通りであると。私の先に示した王安石うんぬんの語りに至る弱者救済をとはこのことであると。また、ひきこもりを理解しようというのは、現代社会に適応することを否定する価値観であり、ひきこもりの人格障害を医療の対象から外し、任意でない入院を避ける考えであるとして、結果の重大事件の発端となることを許してしまうとされるという。これは全くその通りである。ひきこもりの犯罪はひきこもりというどうせクソの役にも立たない奴に医療の手を差し伸べることもないという歪んだ資本原理主義に由来する。金にならない奴は助けない。助けなかったから犯罪をする。全くバカである。ストーカー殺人とは医者に擦り付けてれば、隔離しとけば防げたかもしれない事例が多々ある、というか防げた。警察の後手とは単にメンドクサイ、金にもならないボランティアと決め込み被害者を無視する。これは物の価値は金であるという浅ましい人間の醜くて愚かな側面が警察のみならず社会に反映してるからである。金にならなければ助けない。その助けなかった先に何が待っていたか。いい加減学習してほしい。日本人は猿以下だと諸外国からバカにされてほしい。いわば、精神病と決めつけるのは心情的に許せないが、実害が出てきそうならばそうは言ってられない。オブラートに包みながらその心を尊重するにしても、ある程度の厳しさも必要になるかもしれない。綺麗ごとで片づけられないならば病院で治療してもらう。それも慈悲というか情けだろう。私も精神科に通うことはものすごく抵抗があった。しかし、これでは周りに迷惑かけてしまう。キチガイは精神病院へぶち込めというのではなく、もう少しデリカシーのあるというか、単に温かい心を考えて考えてそれを勧めていってほしい。

それと納得する点に至る特称する文言があった。「冒険教育」から「キャンプ教育」でニートひきこもりを立ち直らせるという小田氏の考え方である。冒険教育と野外活動で困難やストレスを経験させていき、そこに克服、感動という感情を呼び込ませてひきこもりの自立を促そうという治療プログラムである。それに代わるキャンプ教育とは言葉の通り、ひきひもりにキャンプを体験させるというもの。えっ、そんなことかと感じたが、効果はかなりのものがあるらしい。このようなニートひきこもりは病院へという誰でもわかりそうな回答のほかに別の対策をあげていたのはこれが著書の中ではこれだけである。これだけであるが、あるだけまし。病院へぶち込めというよりは人間的温かみがある。それにニートひきこもりに「自分から立ち上がってくれるだろうという甘い考えは捨てて欲しい。そんなのは現実逃避」として、親が何らかのアクションを示さなければ子供は絶対に変わらないと締めくっている。やはり結局は親が味方になってあげなければならない。子供を腫物のように触ろうとしないのは全くもって間違いであり、問題解決にならず現実逃避だと。親。子の悩みは親が共有してあげる。それ以外に何があるのか。私が最も言いたいことの一つとしてニートひきこもりを解決するには身近なすぐそばにいる、解決の近道は親の励ましであるという思いだ。そもそも子がこんなになるのはすべて親の責任。教育が悪いんだから、もし子がそんなになったら親は責任を取る、取らざる負えない。ニートひきこもりの事件の直接的原因は親の教育の不備である。これは私の信条とともに、様々な書籍を読んできた知識の結論からなるものである。

もう一度いう。親が何とかしろ。してみろ。そうでなければその子はいつまでもいつまでも死ぬまでそうしているのだから。

この著書でようやくまともな個所が読み取れてホッとした。正直この小田氏の綴る著書は私の中では賛同するものではありません。あまりにも正論が鋭すぎる。大人のひきこもりをどう解決するか? 著書の中では「はっきりと言おう。三十代を過ぎても「ひきこもり」がつづいた場合、入院治療、すなわち閉鎖病棟への入院を考えたほうがいい。入院して治療すれば悪化することはまずない。家族にとっても本人にとってもいいことづくめである」(82p16行から引用)と示すのだがこれは非の打ちどころがなく、妥協点がなく、研ぎ澄まされている。ゆえに手厳しいのである。確かにその通りであるし、私もそうだと感じるのではなく、そうであると納得したい。されども、厳しすぎて人のぬくもりを感じられなくて嫌なのである。これはそれぞれ個々の感性が生ずるものであり、どうしようもない。それに全共闘という政治用語を著書の中で翳すのもいただけない。政治思想と心の病とは別関係であり、自分と考えが異なる人(吉本隆明氏、芹沢俊介氏)が自分と考えが異なる思想を持っているから否定するのは物事に対して分別がついていない。小田氏はガチガチの保守論客(ネトウヨに至っては断固否定的で毛嫌いしているが)だからリベラル左翼的発想が嫌いなのはわかっているが、その左翼らの言い分に果たして間違いだと言える根拠はあるのだろうか。政治思想のみならず左翼の心理学、精神医学見地というのは否定しなければならないのだろうか。それほど左翼の考え方とは間違ったものなのだろうかと。これ以上は問い詰めても仕方がない。むしろ、それほど決して揺らがない信念をもって自分は正しいという目が醒めるような正論が私には眩しすぎたに過ぎないのだから。それに小田氏もネットで友達を作り、ひきこもりを脱却させるという手段に懐疑的ながらもある程度は理解を示している点からも頑固で融通の利かない話の通じないどこかのソレとは違うし、考え方の違いでいざこざが起こるのはくだらないので、もうそれくらいにしておこう。

さて、長々と書き綴っていた気がする。ニートひきこもりの事件に対して我々はどうしたらよいのだろうか。小田氏は早いうちにひきこもりの芽を摘み、病院に入院させる。いわば医療ケアをしてあげるとしている。私の考えはそれに折衷案を加える。医療ケアとともに本人の人権を尊重して優しく接してあげる。人に備わる優しさでニートひきこもりを正していこうと。私は人の優しさが他者を救うものだと信じている。また、ニートひきこもりを救うのは医者ではない。医者は弱者でないのだから(社会的地位があり高所得者だから)弱者の気持ちがわからないのではないか。ならば、弱者の気持ちがわかる強者を求めても、そんな奴政界にはいない。結局弱者を救うことができるのは同じ弱者だと思う。弱者の気持ちは弱者にしかわからない。でもその弱者は弱者ゆえに弱くて弱者の力にはなれない。私も精神病のくせして働いているから弱者の味方をしたくても、自分が可愛いから仕事を辞めてまで付き合うことができない、ニートひきこもりに対して。自分の人生を棒に振ってまでニートひきこもりを助けて、助けられなかったら自分も死ぬという自己犠牲の精神を持った人でないとニートひきこもりは助けられないだろう。そんな人間果たしているのか。いない。だからニートひきこもり問題が今なお続くのであろうか。病院に入れてもそんなの医療費の無駄だという薄情物が日本にいる限り、この問題も解決しないだろうし、私も薄情物で口先だけで何も行動しようとしない。ならば黙ってろというが、いつもひきこもりの事件が起こるたびに同じ言われようだから、いい加減にしてくれという気持ちでこんなこと言ってる。私も頭わるいから見当違いなこと言ってると自覚するし、そうやって予防線張るくらいの自信のなさだ。

どうすればニートひきこもり問題は解決するだろうか。

小田氏は社会病理でありもはや個人の問題ではないとしている。

社会にはびこっている狭い価値観に振り回されているだけでなく、口先だけで行動しなくてもいいから、もう少し深く考えてみてみたらどうだろうか。ニートひきこもりを無視するよりは情がある行いだと思うのだが。