寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

日テレの糞ドラマ

私は作品についてアンチになったら、特に語ろうとはしません。嫌いなものは無視します。それなのに声を荒げて批判しているのは、実は深層心理に深く引っかかってきているという証拠とも取れるので、内心気になっているということになり作品の存在を認めていることになる。本当に嫌いなら視界にも耳にも入れたくないというのが本音であり、わざわざ嫌いなものを口に出したりするだけでも耐えがたく、無視、無言が本来の嫌い方である(と精神分析学の本に書いてあった)。それに好きなものは好きと言えども、嫌いなものは極力口に出さないのが大人としての礼儀とか美徳で、口から出る恨みは「怨」をなし言霊として精神環境を不安定にするので避けて通るべきなのだ。
「嫌われているうちが華」
しかし、こうやってやり過ごすポリシーが崩れたのが日テレの連続ドラマ「明日、ママがいない」だった。なんだか年が明けてから穏やかじゃないんだよな。また、精神病が再発したのかな?
私は半沢直樹というドラマが嫌いです。世間に支持された作品を否定したくなるのは厨二病と呼ばれてもいいが、理由がいくつかある。
まず、お金の話であること。金がらみの話とは聞き苦しく見苦しい。ミナミの帝王なんかが好きで読んでた自分にとっては矛盾しているかもしれないが、あれは闇金というアウトサイドからの視点なので汚い金の話はリアリティがあり面白い。だが、きちんとした、しかもお客から信頼されていなければならない銀行では汚い裏の事情は極力見たくもない。イメージが損ねるというか、銀行が金に汚いなんてイメージを持つことが不快感なのである。銀行の裏の顔が見て取れて新鮮だという意見もあるかもしれないが、このドラマは人間愛よりも「所詮金」という拝金主義者的なメタファーを感じてどうも好きになれない。「愛はお金で買える」とかいってる堀江某みたいな胸糞悪さが漂うようで。
次にこの話の前提が復讐であること。倍返しとは所詮恨みつらみの負の感情であり聞いて気分のいいものではない。古来日本では人の恨みは災いを及ぼすとされ、有名なのは菅原道真公、崇徳上皇の怨念であり、恨みは人を震わすものとして恐れられていた。だから恨みというものをなんとか食い止めようとするのが神道やら日本仏教であり、人々は恨みを忌避してきた。日本人は恨みごとを嫌う民族なのである。それなのにこの復讐といって恨みを面白がっているようでは日本がストレス社会に蝕まれている現状を目の当たりにしているようでいたたまれない。なんだかんだで日本の幸福指数は先進国では下位なのだから、どこか納得するのもあるが…。所詮倍返しとは忠臣蔵のような逆恨みなのである。お互い嫌な思いをして結局幸せになれない。
それと人を貶めるようなやり方が陰湿で嫌だ。口舌の刃で人を斬ったり精神的に追い詰めるのは拷問的な悪趣味さを感じ、ネチネチした今時の学校いじめを彷彿させている。これだったらサラリーマン金太郎のように悪党には啖呵を切って殴りかかったりする方がカルタシスが得られる。まぁこんなのは私の気質のせいでもあり、支持されようなものではないが、ホントサディスト半沢直樹は敵に対してインテリぶって小賢しくてそんな復讐は私は嫌いだな、やっぱり最後はぶん殴れ。敵を懲らしめるというストーリなら網走番外地のラストが大好きだ。
最後に笑顔がない。これまた個人的な物言いだが、あんな負の感情を見ていて疲れないのだろうか。辛気臭いドラマだよ。暗い世相を反映してるのか。なんでこんな暗いドラマが好まれるんだと不思議に思う。それに半沢直樹みたいな性格の上司って尊敬されるか? はぐれ刑事純情派安浦刑事みたいな上司が私は好きです。
要するに金について揉めて恨みを抱いて復讐して晴れやかな気持ちになれず終わっていく人間のドロドロと汚い心情を見せつけられた無情さから、嫌気がさして鴨長明のように引きこもりたくなるドラマが「半沢直樹」なのである。
大変偏屈に捉えられている。むしろそういう考え方のほうが可哀想に思えてくる私の感覚なのかもしれない。しかし半沢直樹は私が単に趣向が合わなかっただけであり、好き嫌いは分かれるだけでどうでもいい。今回放送中の日テレの糞ドラマは人間の尊厳を踏みにじったものであり、好き嫌いで語れるものではないと感じる。
私は施設の子供たちにピアノを教えるボランティアをしている。そんな子供たちは私が思っている以上に繊細であり、感受性が並はずれている。私のわずかなそぶり、言動でその子を泣かしてしまったことがあった。親がいないという現実とは子に深い影を落とす。そうわかっていたはずでも・・・。それは大人になれば大体は克服するらしいが、子供のうちは決して触れてはいけない言葉が「親」だという。その親がいないということは子供にとっては恐怖そのものなのだと聞かされた時、私の思慮の浅はかさを痛感した。だから施設の大人たちは口がさけても、というか、親という言葉をほのめかしたりは決してしない。そんな子供は親という存在を最大限に隠したい。だから「ソレ」を思い起こさせるような場面を作ってはいけないはずだ。
人には触れてはいけない傷がある。そしてその傷に触れてしまっているのが明日ママがいないというドラマだった。施設の子供に見せなければいいとかではない。フィクションとして分別ある大人が楽しめばいい。いや、それ以前に問題はある。子供のあだ名をポストとぬかすのは何事だ。子供は人なんだ。モノとしてたとえられるものでは決してないはずだ。それも実在をモチーフにしている訳であり、子供の人権を踏みにじっているということに気づかない鈍感さには怒りよりも悲しみが先走る。そんなものを興味本位で楽しんで見ていたら、私とその人とはソリが合わない。冷淡な脳みその持ち主なのかと邪推する。
このドラマを通してしっかりと問題から現実逃避せず真摯に向き合い、自己啓発を促し解決の糸口を探っていこうという試みが生まれてくればという綺麗ごとを並べられても困る。本当のところは話題が欲しいんだろ? 子供のトラウマを資本主義戦略に取り込もうとする悪趣味な大人は、まず軽蔑しておく。刺激的ならいいのか? 不幸も考えようによっては面白いと位置づけるのか? インパクトが強い方がいいとしても人として道徳的にアウトだ。どうしてもこのドラマを放送したければ施設に許可を取らなければならないはずだ。勿論こんな脚本施設は許可などしない。だから本来は放送できないはずなのだ。それを新たな試みとかいってこんな糞ドラマを見切り発車的に放送する。子供たちの気持ちなんてどうでもいい、いわば視聴率が取れれば正義になるだろうというその驕り高ぶり。人間ではないな、このドラマを企画した奴は。人間道ではなく畜生道と言ったところか。
もちろん私への反論もあってもよいし、いろんな考えがあっていい。だが、これだけはどうしても許せなかった。許せない理由をうまく説明できなかったが、施設の子供について大っぴらに触れたりしないでほしい。優しく見守るだけにしてほしい。もちろん、そんな子供たちの心理を知ることが大切である。それをせずにドラマに仕立てた奴がやはり許せない。もう少し子供の気持ちを分かってあげたらどうなんだろうか。
最後にこちらの書籍を紹介しておく。私もしっかりと読んだ。大人だけの目線だけでは子供たちを傷つける。だからもう少し子供たちの目線にたってあげてはと心から願うのだが・・・。


震災と心のケア 子どもの心の傷がPTSDになる前に

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