寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

私がツイッターで政治系ツイート、政治厨を嫌う理由

題名の通り、その「なぜ?」を私なりですが述べていきたいと思います。別に私のブログで何のたまわろうと勝手ですが、それにより何かしら不快感を与えてしまうことを承知で語らせてもらうので、腹が立ったらすぐにブラウザシャットダウンしてください。もしくはコメント欄に「削除しろ」とお書きください。
政治系ツイート、ひいては政治について固執した感情を抱いている政治厨を嫌うのことへの態度としてしばしば見せる振る舞いを以下に記す。もちろんこれらの行動があるからといって実際にその個人が嫌いだということは全く定かではない。しかし、私の感性の有無を確認しないでそのような忖度を無視した表面的な行動・発言の集積だけを根拠に嫌悪を示すことは確かに存在すると言っておこう。以下に、幾つかの危険な行動・発言を列挙してみる。

自分の主義、主張しかしない&出来ない

特にその主張ががネトウヨ的のものだったら極めて危険、というか確定。話し相手がオタク仲間だろうがネット上の知り合いだろうが、社内の同僚だろうが、仕事や学業の話を離れると、もはや狭い趣味の話題しかしゃべることが出来ないという人は、侮蔑的なニュアンスでネトウヨと呼ばれるリスクが高い。特に嫌韓、在日といった反韓感情、その他様々のジャンルの話しか出来ず、モノカルチャーな自分をアピールしてしまう人は、見てくれが素敵であっても極めて高い確率で「キモイ」「クソイ」と小馬鹿にされてしまうだろう。また嫌韓だけのモノカルチャーではなく、普通の人にはあまり馴染みのない専門領域や趣味だけのモノカルチャーになってしまっている人(例:法学専攻で法学の話しか出来ない・政治思想専攻で政治思想の話しか出来ない・在日問題で在日氏ねの話しか出来ない等)も、時に「ウザイ」「クソイ」などという言葉を贈られる事があり得る。
こういった言動の背景には、知的範囲の乏しさ・相手の立場を考えられない・交際範囲の乏しさ・自分が評価される土俵を離れられないなどといったプロフィールが存在するのかもしれない。
なお、この項目は知識への造詣が深いか浅いかは殆ど問われない。実は知識人として全くリスペクトに値しない場合であっても、自分の主義・主張の話しか出来ないようであれば、侮蔑的なニュアンスでネトウヨなどと陰口叩かれるリスクは上昇する。

説明や話題が、常に自己顕示の場となっている

このような方々を、我々はいったいどれぐらいの頻度でみる事が出来るだろうか? ツイッターである政治についての話題について、あなたもこういう特徴を見いだしたことがあるかもしれない。人間は自己顕示の欲求を多かれ少なかれ持っているので、自己顕示そのものは非難すべきでは無いように思える。が、それが恒常化してしまっていると鼻につくわけで、否定的評価の対象となる。これは最早趣味だとか愛好家かどうかに限らず、誰もが嫌う特性であり、別に「ウザイ」というけなし言葉を使うまでもない、ごく当たり前に嫌われる特性である。こんな事を常にやっている人はなにかしかの陰口の対象になる(往々にして、本人は気づかない)。少なくとも、要領を得ない自己顕示はどこでもろくな結果を生み出さない。
様々な知識やコレクションによる自己顕示が強い背景には、時に自信の無さが隠れている可能性を指摘出来ることもある。等身大の自分に自信が無いのを所有物や知識によって補っている場合は自己顕示は強く、必死で、恒常的なものとなりがちである。顕示されるものは知識・コレクション・実績・知人など様々だろう。

自分が大切にしているものや知識・思考に対する批判への過敏性

前項目の自己顕示が強い人なら尚更だが、顕示されるものや、自分の顕示の仕方について批判されると過剰に反応する人がいる。特に政治系ツイートでそのような特徴を露わにした場合「ウザイ」として叩かれる。また、自分が愛好している思想や自分が好んでいるものの考え方・対処法・処世術などに批判があると必死に反応し、過剰との誹りを受けることもある。周囲はこういう時、「これだから政治の話題は度し難い」ぐらいに思って、本人の必死な反応にまともにとりあう気にもなれない。感情的になっていればなっているほど評価は下がるし、良識かつバランスのとれた識者の間でも毛嫌いされるリスクは高い。結局、知識・思考がどうという問題では無いのだ。こういう批判過敏性は政治の話題だけでみられるものではないため、わざわざ「ウザイ」という言葉が用いられるとは限らない。しかし、政治厨という言葉が流通している文化圏ではこのような批判過敏性とでも言うべき特徴が政治厨という言葉に託されるのだろう。
実際は、政治の話題の全てが自分の主張に対する批判に過剰なわけでもないし、むしろある程度落ち着いたリアクションをとることができるわけで、実際にこういうリアクションをとっていて「必死だな、キモッ!」と言われる方はあまり多くない。むしろ、博覧強記と呼ぶほど政治に傾倒していない半端者などにもみられる事が多いわけだが、少々の政治の話題にこの特徴が結びつくと、必死な奴として小馬鹿にされ疎まれる事は避けられない。リアルな人間関係でこれをやったら、一発で嫌われる。嫌われるのに我慢できずにやってしまうからこそ、嫌われ続けて「ウザイ」呼ばわりされやすくもなるし、その病理に注目する価値も高くなるのだが。
自分が大切にしている主義・主張や考えが非難されたり貶された時、必死で反論するばかりか、感情的な反論をせずにいられない背景は? 実際のところは個人によって要因は様々だろう。しかし、それらが批判される(≒脱価値化される)ことによって彼らが寄る辺を失ってしまうからこそ必死になる可能性は指摘してもいいかもしれない。

反対意見(叩き)に対する敏感さ

前項の補足として、このファクターも挙げておこう。政治の話題を好むかなり多くの人は、目前で自分の考え方がちょっとでも否定されていようとも、それを受け入れる、あるいは論する、無視したりして、自分の考えが否定、叩かれていても耐えるorスルーする事が出来る。しかし、時々それが出来ない人もいて、反論に対して敏感にというより過敏に反応する場合がある。これがキチ○イの間で起こる現象ならまだ救いはあるが、ノンポリ主義者の前でこれをやると、大変「痛い奴」というレッテルを貼られてしまう事がある。自分に反している意見に対して敏感に反応するさまは、特に政治に対して頑固なこだわり見せていない人達からは異様なもののように見えるらしく「なんでそんなに必死なの?」という周囲の冷笑を浴びる事となる。そりゃ知らない人からみれば政治に対していい歳した大人がのめり込むのはある種、気持ち悪いだろうに、そういう洞察が彼らには欠落しているか、洞察はあっても心が融通利かせてくれないかどちらかのようである。

(原因はどうあれ)周りを説得しきれない理屈を多く発言する

周囲の理解を無視して理屈を話し続けた場合、周囲からの批判を集めやすい。実際には優れた理論であっても、周りに伝わらなければ結局独りよがりとみなされるわけで、必ずしも理論理屈が間違っているとは限らない。プレゼンされる理論や理屈の内容ではなく、むしろそのプレゼンテーションの方法(説明の内容というよりは、態度や言葉遣いが中心)に問題があるケースが往々にしてあるわけだが、だとしても周囲から冷遇されるのは避けられない。
このような「独りよがりな理屈野郎」と呼ばれそうな状況になりえる。理屈の優劣はさておき、周囲の人達への適切なプレゼンテーションが出来ていない場合、当該分野の政治厨という事で非難されてしまうのだ。各政治分野の政治厨は勿論、学問や仕事やその他文化活動でもこのような物言いは発生しうる。特にこのような「理解され難い理屈野郎」が何らかの政治思想を持っているor持っていることが推測される場合認め難く、受け入れ難いとして徹底的に嫌われる可能性がある。
幾ら優れた理屈や理論でも、高飛車な伝え方・相手をわきまえない伝え方ではウザがられるのに、敢えてそのような伝え方をする人達。彼らの持つ背景は何だろう? 多くの場合、コミュニケーションの能力が無い、相手の立場を考えることが出来ない、という極単純な理由が当てはまりそうだ。自分は正しい→正しければどんな伝え方でも意見は通る筈という思いこみがあったり、相手の立場や得手不得手を察する能力の欠乏があれば、こういったトラブルは多発する事になるし、多発するほど人望を失い、侮蔑を得ることとなる。また、時折みられるものに“理屈に酔うタイプ”というものが存在する。整然とした数字の呈示・少々過度に理論化された話を話せる自分に酔っているのである。この辺りは自己顕示で酔っぱらうプライドが高い人間に相通ずる所があり、注目するに値する。また事実、自分の理論・理屈に酔うような人が、自己顕示にも酔っぱらってしまっているケースはしばしばみられる。そんな人が自分の得意な分野の話をする時は、高揚した気分を隠そうともしないので、遠目にもよく分かる。隠しても無駄だ。目でわかる。

相手の理解を無視して政治の専門用語を乱用する

同じ政治好きの人同士で、政治の単語を撒き散らす(それも、出来るだけマニアックなやつ)のはとても気持ちの良いことだが、これをツイッターの面前で繰り返すと「何この人気持ち悪い〜」という非難や侮蔑に曝されることとなる。右翼左翼、政治家政党政策への支持不支持、ナショナリズム・反ナショナリズム、親韓嫌韓親中嫌中、マスコミへの肯定否定…例を挙げればきりがないが、所詮狭い趣味世界の中でしか流通せず、公には大して無価値で無意味とされがちな知識・単語・台詞を披瀝し続けると相手はうんざりしてしまうし、会話する気も萎えてしまう。そして多くの場合“まともに話もできないクソ”というレッテル貼りに直結してしまう。ツイッターの中で専門的な議論をしているわけでもなく、プライベートの場で、しかも相手が分かりっこない単語を気前よく散布すればあなたも立派な政治厨扱いとなる。場合によっては政治の話でない事でも政治厨扱いされる可能性すらある。これはコミュニケーションのなかでは明らかに危険な選択行動であり、政治論争に限らず、相手に通じない専門的な言葉を連呼する際はよくよく気をつけなければならない。特に濃い政治趣味の話題の場合、相手はあなたの事を意味不明のオタク話しか出来ない痛い奴だと思う可能性は殆ど100%に近い。まして、あなただけが目を輝かせているなら尚更だ。
こういう危険な行為を平然とするからには、相応の空気の読め無さ加減が背景としてある可能性が高い。知識の披瀝という意味で、自己顕示が背景に存在することは否定できないが、それよりも空気が読め無い・話し相手の立場を考えられないといった、コミュニケーションの決定的拙劣さがなければとても出来ない。また、該当政治分野でトップクラスの知識が無くても、その趣味分野を知らない人をうんざりさせるには十分すぎるという事には、注目したほうがいいかもしれない。知らない人にとってそれらは充分わけがわからないわけで、話題にされ続けると苦痛を感じる可能性が高い。この場合も、政治趣味の(或いはその他の分野の)造詣の深さはほとんど問われていない。
また、同好の政治好き同士で政治の話をしている場合でも、声が大きく、周囲の人にも聞こえる環境で話し続けると周囲の人から白い目でみられる。それが目立てば目立つほど、持続すれば持続するほど侮蔑や非難の視線を集めやすくなる。例えば毎日登校する学校や、通勤先・得意先などでこういう振る舞いをすると、同好の相手に政治の話をしているだけなのに、自然と周囲の評価が下がっている可能性もある。幾ら相手を仲間に限ったとて、声が大きくて目立ってしまえば、理解の無い周囲の人達からはあなたは騒音発生器とみなされてウザがられてしまう。

おわりに

以上、ツイッター上の政治系ツイート、政治厨という言葉で差別や侮蔑の対象とされやすいような行動・発言などについてまとめてみた。ここに挙げたような行動をとっている人は、周囲から蔑みのニュアンスを込めて政治厨と呼ばれる可能性が高い。所謂侮蔑されるネトウヨ嫌韓厨・キモイ・ウザイに分類される可能性が高いというわけで、もし心当たりがあるならば修正することが望ましいだろう。政治趣味を持つ事自体はともかく、ここで挙げた多くの項目は政治厨だろうがそうでなかろうが人間としてダメだと思われやすい項目であり、誰を問わず友達と人望を失うには好都合のものばかりである。政治厨というスタンスを捨てたいと思っていない人であっても、上に挙げたような言動だけは慎まれたい。
そして最後に、以下の文面は私の主観的発想に帰依するものもであり、客観性は問いかねる。予防線を張らせていただく。