寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

オリンピック、こんなこと言うのは古臭いでしょうか?

ロンドンオリンピックが始まり、本来ならもっと早くこの話題を触れようとしたのですが、私がいうオリンピックとは選手の応援を込めてというよりも、「国の為に戦うか、自分の為に戦うか」とか、ホントそんなオリンピックを日本の国威高揚の場にしてしまう気があるので。正直オリンピックでメダルを取るたびに「皇国の光輝かせ」が世界に知らしめられることに対して日本人として誇りを抱くのです。
そんな、私と同調する考え方が8月の1日(水)のサンケイスポーツ23面のコラムにあった。それは開星高校前監督野々村直通「末代までの教育論」に書かれてあった内容に。野々村直通氏は私も知っている。なんでも野球の監督してた時に試合の1回戦負けを「末代までの恥」と言ってしまうほどの激情がよく覚えている。甲子園の「やくざ監督」と題うっただけあって文章にちょっと押されたような気分になった。
野々村氏は昔東京オリンピックのマラソンで銅メダルの円谷選手について語っていた。円谷選手については後のメキシコオリンピック前に自殺してしまった。話は逸れて寺山修司優駿に寄稿した文筆に円谷選手を阪神大賞典で死んでしまったキーストンになぞらえていたことを。円谷選手を走りまくったと表現し、「終には地の果てまでも走って行ってしまったのだ」という文章は寺山らしく、美しくも儚い黄昏の美学を存分に語り尽くした名文として今思い出したのだが・・・。
おっと、野々村氏は円谷選手が自殺したのはもうマラソンランナーとして自分は走れなくなった。それが周囲からの期待の重圧としてよりも、そうなってしまってしまったからには国の為にもう自分は戦えない。それでは自分が走れなくて無様に負けてしまうことは国家の誇りを汚すもの。勝つことこそが国家に対しての責任感。それこそがランナーとしての自尊心。しかしもう国の為に戦えない。だからこそ、そんな自分を恥じて自殺した。死んで詫びるという武士道精神に則った最後は日本人の格調、品格を知るうえで美しい人物像として語ってあった。
私はプレッシャーに押しつぶされてしまった結末として捉えていたから果たしてこれが本当なのかは疑り深い。しかし逃げることよりも自分の不始末は自分でつけたとすれば、たしかにそれは日本人としての武士道精神が窺えてくるとは思う。そんな精神を身の下に日本人としてのプライドを持って選手は戦うべきと野々村氏は十カ条の応援メッセージを伝えていた。それは簡略すれば・・・
一 自分の為に戦うのではない
二 国に栄誉をもたらすために戦え
三 国の為に死ぬ覚悟で戦え
四 国の代表なのだから国旗と国歌に真摯になれ
五 国歌斉唱に身体をゆするな
六 国旗国歌に敬意がない奴は国賊
七 金メダルを噛むことは勲章を辱める行為
八 拳拳服膺
九 日本人として(武士道精神といった)精神性を世界に示せ
十 日本人は気高く振る舞い、品格を世界に知らしめよ
※私なりに口語訳してあります。
戦前の精神やらここまでコン詰めなくてもいいような気もするが、あまりにも直截的に語られてあったので驚かされた。まず、テレビのコメンテーターは言わないだろう。このような精神が果たしてオリンピックに意気込むにあたって必要でしょうか? 私は口に出さないまでもある程度意識して欲しいと思っています。なぜとか、どうしてとかはここでまたダラダラするし、それが嫌だからオリンピックについて今日まで語ることなかった。それにしても何故日本人選手を応援するのかという問いかけに「同じ日本人だから」とすればそれは一種のナショナリズムです。愛国心です。それでなければ日本人を応援する理由にならない。今もなお、「国家」という潜在意識にアンチテーゼを抱いていても日本人を応援しているだけでそれが嘘になる。オリンピックを応援するのは健全なナショナリズムで限定するのは私は違う気がする。国の為に戦う者を応援するのは戦争もスポーツも同じ意識の下にあると。
どうやら、オリンピックをある種の目的手段としてとらえ始めてきたので、今の日本人に足りない意識を認識するためにこちらの書籍をあえて紹介します。
その国に対して誇りを持てない人間なんていませんよね。

日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する

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