寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

本なんか読みたくねえ

買っても大して読まない本が部屋にあって邪魔だから実家のほうに置いてきた。そんな本捨てればいいといっても、それは知識を捨てるような行為になるので私にはできない。まして本を売るなんて言うのは知識を売るというヤマ師のような、それほどまで金に汚くないので出来ない。まさに「本を売るならぶ・っ・殺・す」(本を売るならブックオ、なんたらのもじり)なわけである。でも本を捨てるのが嫌だから本が好きというわけではない。本はいいが本を読むのが嫌いです。

そもそも昔から本を読むのは嫌いだった。だからガキの頃の夏休みの宿題と称した読書感想文が苦痛で400字原稿用紙に200字ちょっと書いて怒られたり。そもそも本を読んでも何も感想を持たないのに無理に書かせるこういう教育がEUに劣る生産性のない日本社会を形成するんだよ。好きなことさせろよ。ちなみに絵を描くのは好きでなんかの金賞をとったり書道では全国書道コンクールで佳作(しょぼいとか言うな)になったたりしたよ。本を読むのがつまらない。そもそも本を読んでよかったなという思い出がガキの頃の思い出に全くない。これはお里が知れていると思うかもしれない。が、漫画は大好きだった。幸い歴史が好きだったら横山三国志とかあとは手塚火の鳥とか、そういう漫画は文字でしか伝えられない本よりも絵がとても好きで絵が描いてある漫画は善、絵がなくて文字しか書いてない本は悪。つまり本は字ばかりでつまらないということ。字を読んで内容を理解するよりも漫画のような絵を見るほうがとても楽しかった。

最近本屋がAmazonに負かされていて近所の昔からの本屋が潰れている。これはゆゆしき問題だとか聞くけどそもそも本が嫌いな私にとってもどうでもいい話です。Amazonで本買うくらいなら車券買ってたほうがはるかにマシ。あんなもん読んだって健康になる訳でもなく知識をつけるにしても本で読むような知識は日本の働くうえでは全く糧にならない。だってそうじゃん? 羽林家、名家の公卿を言えても職場では何の役にも立たないんだから。それどころか地球から月までの距離は38万4400キロだか何だか知らないが小学生で知ったこんな知識を面接で聞かれることもないし、聞かれるのは何故わが社を選んだとかというクッソくだらねー質問ばかり。別に金が貰えればどこでもいいという正直な本音が否定されて嘘ついたほうが勝つくだらない詐欺師根性に本の知識は役に立たないということ。私だったら面接でその人の誰も知らないような知識をさらっと言えれば(例えば万葉集の一つでも言えれば可)有無を言わせず合格させる。そういう場面があれば本を読んでいても役に立つだろうに。

今の日本社会で本を読んでいてもなんだか教養が身についたとか賢くなったと思いたいだけのうわべだけの連中が本を読んでいるんだと思う。百田氏の「大放言」という書にこういうのが書いてあった。

「本屋でよく見る自己啓発の本なんて効果のない毛生え薬」だと。

これを読んでこのハゲ面白いなと。ほんとそうだよ。あんなもん読んで何の効果もないのにそれでいて「これは使える!」とかまぁ、そう思うのは勝手だが私にとっても無駄という一言で片づける。そもそもそういう本自体がそこら辺のブログと変わらないだけで信者以外は興味がないし。私は別に本を読まない俺カッケーと言いたいわけです。ではなぜ私が本を読まないのか箇条書きで。こういうバカもいるんだなとバカにしてください。むしろそれを狙っています。

・そもそも本を読んでも面白くない。魅力ある知識がかかれていない。

・小説とか所詮作り話に付き合うほど暇でない。それって結局作り話じゃん。本当のことだったら面白いのにと思ってしまう。歴史小説は史実を創作しているので史実の捻じ曲げとして見るのでことのほか嫌い。(ノンフェクションとかは昔は好きだった。墜落遺体とか。小説は筒井のとか「ふがいない僕は空を見た」がよかったが)

・字を読んでいても疲れる、眠くなる。面白くない。漢検3級に落ちた私には漢字が読めない。

・主に新書とかだが読んでいて内容がやたら偉そうで著者の屁理屈を聞かされているようでムカついてきてブン投げたくなる。あれは5ちゃんのニュー速でクダまいてる知ったかマンと同じ

・すぐ上と被るが内容が難しすぎて疲れる。中公新書応仁の乱」というの読んだがまったく意味不明。応仁の乱自体がイミフメイだがそれに輪をかけて意味不明。明らかにアホの私を置いてきぼりにしている。周りの理解を得られないで自分の知識に自己陶酔しているこの作者はまるで知識でマウントとるオタク野郎ではないか。最近のベストセラーの本にどうもこの傾向がある気がする。

・仕事で疲れて本を読む気力がない。

YouTubeとか鬼滅の漫画とか見ているほうが本を読むより面白いから。

・私がムカつくと思う人物に本好きが多いから。口先だけの本の知識で人を見下すようなあるはずの優しさが欠如した人間が本好きだから。本が好きでなくても人に優しくできるのであれば本なんて読む必要がないから本なんて読まなくていい(本を読んで優しくなれればそういう本を出してほしいと思うが)。

・本で知ってみたくなる出来事がない。ニュースとか社会の出来事に関心ないしそっち系の本は触るのさえ嫌。趣味にしても昔は競馬が好きで血統について書かれている本とか読んでた。東方の神話設定とかで日本神話とかの本を読んでた。精神的に落ち込んでいる時に哲学宗教倫理関連の本を読んでた。ムカつく資本主義に嫌気がさしてマルクス生誕150年企画の本を読んでた。今はそういうこの分野について知りたいという探求心が無くなった。本を読んでも何も心に響かない、読んで「そう・・・」というただそんな空しさが残る。本を読んでも結局は楽しくない。

・要するに知的探求の欠如。つまり年取ってバカになった。まんがきららの4コマでさえ読むのが苦痛なほどw 

以上が私の本嫌いの理由です。最近夜に部屋で放送禁止用語を突然叫ぶ汚言症とかチック症みたいなのが出てきました。これでは本を読めないわけです。そんな私でも強制入院させられた際に入院中に暇つぶしに読もうと置いてある本がありますのでそれを載せときます。なんかDVDもあります。ちなみに表紙カバーみたいなのは別にエロ本ではないですので誤解しないで。

 

 

 

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クラシック音楽

そういや昔は音楽とか聴いていた。クラシックとか。最近聞かないのは、ほら、うちの住んでいるボロアパートだと、私クラシックとか大音量じゃないと聴いてられんのよ。そのせいで隣に迷惑かけるじゃん。近所トラブルのほとんどが生活音とか騒音関係らしいよ。その音を騒音だと捉えない無神経な輩と些細な音に騒音と捉える神経質な輩は共存はあり得ないので。周りの配慮からいつの間にかそういう音楽聴かなくなった。

さいころはピアノ習ったり吹奏楽でトランペット吹いたりしてたけど今思うともう少し楽器に対して真剣に向き合えば良かったと思っている。まあ人生で何かを成し遂げることは容易なことでないから自ずと道を閉ざすことはあるから。でもね、昔から好きなクラシック音楽はあるから年明けてから部屋で音をしぼってクラシックを聴いてみたけどやっぱり素敵だなーという曲をあげる。クラシック音楽聴くほどの素養は今は無くなったけど年が明けてからたまにはこんなことも語りたい。

 

 


チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調作品64 第2楽章 スヴェトラーノフ

 

 

チャイコフスキーは私が音楽家の中で一番好きです。哀愁漂うとか物悲しいしんみりしてるのが好きな点。そんな数ある中で好きな曲がこちらなんだけど冒頭のホルンの音色がたまらなく好き。あとこの動画では11分25秒からのクライマックスが突如視界が大きく開くような壮大な曲調に変化するのがとても好き。語彙と音楽用語がないから好きとしか言えないがとにかく好き。

 

 


ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲

 

 

ワグナーというのは、この出だしから荘厳さ、威風堂々としているさまは惹かれます。私はこのしょっぱなから聴く人の心をつかむようなこんな曲を出オチ音楽と名付けてます。やっぱ聴いていると気持ちが堂々とします。昔はこの曲で厨二病になりました。

 

 


ショスタコーヴィチ 交響曲第5番「革命」第4楽章

 

 

出オチ音楽その2。聴覚を通じて魂を揺さぶる曲といえばこちらを思い浮かべます。共産趣味に溶け込むとしたらこの曲で間違いない。私は正直最初の4分だけ聴いていればいいです。

 

 


Johann Strauss - Roses from the South (Waltz, Orch.) 南国のバラ

 

 

シュトラウスといえば青きなんたらドナウよりもこちらのほうが私は好き。華麗で優雅で格調高くて、これがクラシックなんだなと、まぁ言える、気がする。クラシックてこう、なんていうか、品がよくないとね。あんま音楽で屁理屈こねるのできなくて「マジヤベー」というアホ若者レベルのキャプションでしたがこれにておしまい。もっと好きな曲あるけどきりがないのでおしまい。

 

クラシック音楽は要するに聴く人は何となく聴いていて素晴らしいなという催眠術に掛かっているし、そもそもこの音楽を聴いて「私はわかるんだ」と都合付けているだけのオ〇ニーに過ぎないので本当のところこの音楽が素晴しいとは言えないのですが。そもそもクラシックは聴いていて眠くなる曲がほとんどでつまらないとも言えます。昔の人と今の人とでは音楽に対する感性も大幅に変わってきているのでクラシックを聴かないのは至極当たり前と思えるわけで。でも、たくさんの昔の曲にも今聴いても心惹かれる曲があることは確かです。昔の曲を聴いて「この曲いいな」と探してみるのも楽しいことかもしれません。いろいろなテレビや映画で使われているクラシック曲で気になったものを見つけたり、今はフィギュアの曲から関心を持ってみるのもいいかも。

今年を振り返ってもあんま楽しくなかったなぁw

夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。
而して浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何ぞ。
古人燭を秉りて夜遊ぶ、良に以有るなり。
況んや陽春我を召くに煙景を以てし、大塊の我に仮すに文章を以てするをや。

 

李白の春夜桃李の園に宴するの序詩。時の流れというのはいつまでも目的地に着かない旅人のようなもの。そしてそんな時の流れとともに過ごし行く人の人生何ぞ短くその短い人生の中でどれ程の楽しめるひと時があるだろうか。昔の人はロウソクに火をともして夜中まで遊んだというがもっともなことです。春の日差しが降り注ぐ中、春の景色は私に文を書く才をお与えになられたのですからその才を短い人生のうちに存分に楽しめばよいではないか。

芭蕉の「月日は百代の過客にして」は聞き覚えがあるが私は李白のほうを思い出す。人生は短いのだから今楽しんでおかなければ死んだ後に後悔するだけだというその問いかけは、社会の中で働く現代人にどう映るのだろうか。生活のためにとは言え、本当にそれで今の人生満足しいるのだろうかという人としての生き方に私ならば疑問を持つ。そもそも仕事がこんな生活が嫌だから楽しい方向へ走ってもよいではないか。そうやって今年の一年は生きていこうとした。しかしそれもやはり難しいものだ。ブログのトップに私の詩を載せているが、その詩の意味は今なお「それ」であり、楽しいと思ったことは一年を通してみても一瞬でありそのうち楽しいとは思わなくなる。この国で生きていくことに何をしようとしても李白のように楽しめないのが今年一年を振り返るすべでもある。

年号が変わり新しい時代になっていても社会問題は山積みと思える。具体的に何がソレなのかは個々の判断に任せるがまさか今の日本社会何も問題はないと言い切れば私はそれは恐ろしい人物だとして避けて通る。それよりも今年も天は人を殺した。台風の被害は直接被害を受けない私にも天を恨む気持ちにはなる。災害だからと片づけるのではなく災害自体が憎らしくて仕方がない。もうこんな地震や台風が洪水がおこる日本という国に嫌気がさした。

それでも来年はオリンピックの年である。実は私はひそかな楽しみでもある。ラグビーが日本を活気立たせたのだからオリンピックの年は間違いなく華やいだ日本、楽しい日本になるんだと信じている。どこかのニヒリストはオリンピックは日本の葬式だと吐き捨てたらしいが私はそうは思わない。確かに来年の8月あたりは疎開するといっていたが、こうも365日辛気臭い性格だと疲れるので無理やり盛り上がり私の性格をオリンピックは変えて欲しい。オリンピックで私を楽しませてほしい。純粋にそう思うから来年は実はちょっとは期待している。ちなみに私は🐀年である。オリンピックの年が私の干支とは何が因果か知らないが、やはり何かを感じずにはいられない。

今年は仕事は正直悪かったのであまり語りたくありません。私生活では特に去年と変わらない。ドールというものに少し熱くなったくらい。コミケも何だかんだ夏冬と参加してきたがもう頃合いだろう。先ずは李白のように酒を飲んでその時だけ楽しめるような、辛いことは考えず、ただ楽しんでいければと来年はそんな年でありたい。

最後にこのブログを読んで頂けている方に対して面倒な文面ではあるのですが、読んで頂けることは大変ありがたいことです。感謝いたす次第です。

コミケ97二日目

馬券当たったからコミケ行こうとしました。まずは馬券を払い戻しするのにウインズ後楽園へ。何がそんなに楽しいのか性懲りもなく馬券買う爺が多くてこの国は高齢化社会であるというのをまざまざと認識した次第。こんな口臭くさいところにいると人間ダメになってしまいそうなので(突っ込むのであればどうぞ)東京ビックサイトへ向かいました。現地に着いたのは11時ごろ。並ばなくてもスンナリ入れる模様だが、今回は企業ブースのある青海へ。

コミケだけあって人もさぞかし多かろうと思ったが意外と少ないような気がした。やっぱコミケ会場と企業を分けるのは人を分散させられて歩くのも快適でいいかもしれない。入ると手荷物検査で中身を見せるらしい。十数年もコミケに湧いてくる私でもこの手荷物検査なるものは初めてだと思う。このご時世だからにしても嫌な時代になったもんだなと今なおテンションは低い。

企業ブースの中はそんな人は多い、が会場が広いから進みやすい。今日来た目的はごちうさのなんかを買うため。NBCユニバーサルという企業に並ぶ。なんか建物の外の奥のほうへ並ばされた。なんか去年はこんなにこんでねーけどなんだ?と思った。缶バッチのガチャなんてやるからこんなに並ぶのか。1時間ぐらい並んでても暇だからアベマでリゼロ見てた。買う順番になったが今回のタペストリーはあんまよいとは思わなかったから買わんかった。缶バッチガチャでタペ当たればいいやと思った。缶バッチガチャ2回やったが外れた。まあ、しゃあんめ(仕方ないだろうという茨城弁)。並んでいる最中バーニラバニラ♪とかいう例のバニラカーが走ってきて吹いた。冷静な私もあやうく中毒になるところだった。こんなところまで出張してくる根性は一体何? 

 

 

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チノしかいねーじゃん。高いからしゃあんめ。そんでパスケースは明日から使うことにした。

 

 

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今まで使っていたパスケースと交換だ。こういう実用的なグッズっていいよね。これを世間様に見せつけるという悲しみを背負うことこそがキモオタとしての役目だと思う(は?)。いろいろ企業を見て回っても正直「何?」と思うばかりで欲しくなりそうなものがない。唯一わたてんの会場限定グッズがあってそれいいかなと思ったけど高かったからやめた。馬券11万5千円払い戻したその金が手元にあるのに金の使い方を知らないかもしれない。だからこちらだけ買って終わりにした。

 

 

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これはアパートの鍵に付け替えて使うことにする。正統派ロリアニメだと思うが界隈の中でこの作品の評価がいまいちわからない。私は好きだなーロリコンだからね。

せっかくコミケに来たのに企業だけで終わるのは物足りないとコミケ会場にも行く青梅から歩いて。リストバンドなんていうもんつけなきゃ入れないその理由がいまいち納得できないが。ここでも会場に入る際手荷物検査。これは仕方がないにしてもなんか、うーん。大してよくチェックしてない気がする。形だけ取り繕っているよ。こんなんで意味あるのか。東館に行けないのがなんかコミケらしくないな。南館はどうもなれない。とりあえず一通り回ってみてもつまらなかったから寝た。そして飽きたから帰ろうとしたけどまた企業に行った。なんかこれだけしか買わないのは寂しいからと思い。夏コミの時は体調クソ悪くて目的を果たしたらすぐ帰っちゃったけど今回は寝たから、寝ると気分がいい。15時に無料配布のポスターと冊子もらった。

 

 

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これが何かはよくわからないんです。タダだから記念としてもらったに過ぎない。結局何も買わずに帰ることにしました。

今回参加した感想は正直つまんなかったです。何か目的がないとコミケってつまんないんだな。作品を欲しがるわけでも人と交流するわけでもなくただ、「私ぶっちゃけノリできたんで」では楽しめない。鬼滅のグッズもなんか通俗的で興味がわかなかった(完売とかもあるが)。馬券払い戻すついでに参加しただけだからこんなもんかと。とりあえず二日目参加終わり後は三日四日はどうするかこのブログ終わった後にでも考えることに。

コミケ参加決定

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www2.keiba.go.jp

 

の馬券が当たったので急きょコミケに行くことにしました。なんかソフトで加工してあるような感じだけどスキャナかけただけだから。それでもTwitterみたら変態的に地方の馬券当ててる方を目にして気落ちするもんです。私も昔はオフト後楽園の爺から「先生」と言われたことあるけど(大して嬉しくない)度胸がないからワイドしか買えないしこれが精いっぱいかもしれない。100円1000円でなく平気で万単位から買う方って何者? 人間なの? 

たぶんコミケは3日か4日に行くと思うけどもう好きな作品も会いたい方もいないので正直ただ行ってごちうさのタペでも買って帰ってくるだけだと思う。参加する意味が見つからない今日、何か発見できればと思うのだがどうだろうか・・・。

当てるというより引くこと自体が難しい鬼滅の刃一番くじ

ほら今日アレじゃん?

中山大障害とかじゃなくて、みんな大好き鬼滅の刃一番くじの日じゃん。このくじ以前夏の終わりごろにやったんだけど作品がくっそ大人気になった関係で再販したんだよね。ほんと何がそんなに大人気なのかはわかる人が理解すればいい。

んで、私も鬼滅の刃が大好きだから勿論楽しみにして生きてきて、今日その日を迎えることができたんだけど、これまた大人気だから競争倍率が凄まじいだろう。だから腐さん方が襲来して警報出るような都内の店で引くのはどうせ満足な結果が出ないだろうともっとべつの場所で引こうとしたのです。

よーし明日は早く起きて店で並んで待つぞーといって寝たんだけど、開店時間を間違えて(笑)店に着いたもんだから当然売り切れてた…。店の開店時間30分後に着いたんだけど見事に完売。なんじゃそりゃ? マジ意味わかんねー。もっとロット仕入れておけよ。その店では5回までしか引けない制限だったとか。あんれまぁ、10回なんて引けんのね。もしかしたら引くことができるだけでもラッキーなとんでもないくじなんだなと。

仕方なく鬼滅くじやってるだろう次の店に向かった。もう時間にして開店時間30分過ぎてその店に着いたからまーた売り切れているだろうとダメ元で行ったらなんかまだ残ってた。幸い人も並んでないしなんとラッキーな店を見つけたと思った。が、なんか賞の品ほとんどないじゃん。しかもここは3回までしか引けない。何の賞が残っているのか考えていると先を越される。急いで3回引くことにしてさあ捲ろうとしたら店員さん二人が捲りだす。いや、そのくじ捲るのが楽しいんじゃんと突っ込もうとしたけど、ああこのくじまるでコミケでシャッターサークルに並んでるそれと変わらない雰囲気だなと考えると納得。結果E、F、F賞。なんだやっぱりな。ん、でもレジの後ろに禰豆子フィギュアがある。じゃあまた引こうと再度3回引くことに。35のよくわかんねぇ年齢の男がくじを引く姿はホントよく飽きないで熱中できるもんだよなぁと自虐になる時がある。だけど禰豆子フィギュア欲しいもん。出来はいまいちかもしれないけど禰豆子ならなんでもいい。

親子連れや若い学生風の子とまじりながらくじの列に並ぶのはある種気恥ずかしさもあります。いい年してそんなんだから独身なんでコレはもう許して下さい。意外と腐の方もとい若い女性の方は並んでなかったなぁ。もうミッションコンプリートしたの? さすがだな。今一度くじを3回引く。うわぁなんか少ない。この少ない中から禰豆子を連れて帰るというキモオタ魂が燃え上がりキモイ。そしてついにこのキモい男は禰豆子のB賞を引いた。残り十数枚から3枚引いて引き当てれたのはひとえにキモい情熱があったからこそ。

この日のくじの為に生きてきたのだから喜びはひとしお。禰豆子フィギュアなんてどうせ引けねえと思っていたけど、今まで一番くじで引いた賞の中で一番うれしいです。

 

 

 

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一応どんな様子なのか他の店に鬼滅くじあるかと確認したらどこもかしこも完売。 何ロットかいれてたけど開始20分で完売したらしい店も。 なんなんこのくじ? マジ意味わかんねー。そもそもなんでこんな大人気なのか。そういや並んでた時親子連れが目立った。鬼滅のアニメは鬼の首が飛んだり血液滴る描写があるけどそういうのレイティング的に小学生に見せて大丈夫なのかなぁ? 漫画ではそれほどでもないかもしれないが小学生とかでも好きなんだね、ちょっと驚いた。それにしてもどこもかしこも1時間も持たないような一番くじって今までなかったような。買い占め防止に3、5回に引く回数制限しても正午になる前になくなるってどんだけ好きなんだと呆れる。だから当てることの前に引くこと自体難しいなんて今までのくじの価値観を覆している。これはなんなのか? 一瞬の熱狂の中なのだろうけどこれだけ盛り上がるくじを引けたことがよかったとそんなことを考えさせるくじでした。

以上自慢でした。

※追記

今回の一番くじは小学生くらいの小さい子も引いていた。そしてこう考える。やっぱり金を払えば払うだけたくさんくじ引けるっていうのは考えてみるとどうなのだろうかと思う。それじゃ金持ってる人間がたくさん引けるから上位賞も当たる確率高くなるだけで、反対にあまりお金を持っていない小学生はくじをたくさん引けないわけで上位賞当てる確率は金ある人間よりも低くて、そう考えると金にモノを言わせバンバンくじを買うことに疚しさを覚える、私は。それじゃお金を持っている奴が強いとなり、お金を持ってる奴が幸せになり、お金ない方は自ずと不幸になるという資本主義のあり方に疑問を持つ私の考えがこの今の一番くじに当てはまる気がしてやるせない。お金を払ってたくさん引いてもそれは金の力で己の運の良さではないと思う。子供と平等に1回2回引いて上位を当ててから自慢しろよと。

だから小学生も働いているからといって子供に財力の差を見せつけようと10枚もくじを引く大人もまずは平等に3回とか1回とかくじを引く回数を制限するのが平等のくじだと思う。そして一回くじを引いたらもう一回くじを引けなくすればいい。整理券を使ったりして。それがくじの本来の運を試すものであるだろう。お金を使えば当てられる確率が高くなるという金持ち優遇措置のそういった態度をとるのであれば今回の鬼滅のくじは回数を制限したことは、大人気だからという理由だけでなくお金の関係で多くは引くことが難しい小学生でも上位を引くチャンスはあるという今後のあり方を模索するべきとそう指し示すすべになればと思う次第。

一番くじなんて金をたくさん払って引いてくれたほうが店としては後腐れがなくていいのかもしれないし、引くほうも金にモノを言わせてでも当てたいという根性は特に文句はなかったけど、こういう小学生に人気なくじの場合はある程度の配慮もあってもいいのではないだろうか。金がある奴が勝つ、無い奴は負ける。そういう社会の縮図がこの一番くじというものに表れていると感じたら途端に一番くじが憎らしくなった。それと欲しいものにはお金をかけてでも欲しがるその物欲の浅ましさ強欲さ(ロット買い)、自分さえ良ければ相手のことは気にしない(子供が見ている前で何十回もくじを引く大人)という薄情さをこの一番くじでも感じるのである。

全てのチャンスは平等に。これが私の一番くじに対する願いである。

何が出ても当たりのきららファンタジアくじ

まんがタイムきららはたまに買って読む。正直漫画の内容が単純だから私みたいなパーにも理解できるし台詞も難しい漢字使ってないから読みやすい。あときららのキャラは正統派的に可愛いもん。だからそんなきららのキャラくじがあるとしたら引くわけで、私は土日になると実家に帰るけど(土日の東京は賑やかで嫌いだから)茨城のどっかの店でそのきららのくじがあった。あまり引かれてなくてくじ一回720円が650円になってたし上位賞のクロスが全種類あった。東京では3日で売り切れるのに興味ないのかなと考えると何だが寂しい。財布の中には取手競輪場でとかす予定の金を持ってきたからある程度は引けるが何回やろうか迷う。通常1、3回くらいしかこの手のくじは引かん。よくつべでは10回引いてるとか目当てが出るまで引き続けるというのやってるけど、そんな金にモノを言わせるのではなく運で1回で当たりを引き当てたいわけでそういうのがくじってもんだと思うから。で、目当てのモノが引けなくてそれでおしまいなんだけど、今回のきららのくじは引けないと悔しいようなチョイスだったので10回引いた。

私「きららファンタジアのくじ引きます。回数は・・・えーと・・・10回でっ!」

店員「1回ですか?」

私は日本語も不自由なんだな…。

 

 

 

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勝ちだ勝ちだ勝ちだ

 

10回引いて一枚目めくったらしょっぱなチノが出た。ワシはチノ至上主義者で朝な夕なにチノチノうるせー人間だから店員に「もうこれが出れば十分ですよ、他に何が出ようともうB賞が引ければもう何も望みませんよ」とうぜえこと言ってた。私はわかった。やっぱり1回2回ではとても目当てのモノは引けない。だから10回は引くんだと。あと今回値下げしてたとは言えある程度は下位賞もなくなってたから相対的にクロス当たる確率も上がっていた訳でまあ、理想的なくじの残り方してたから何事も見極めも大切だと。

一番くじにはまるとしたら、欲しいものを引けたときの喜びをまた味わいたいと思うからなんだな。そういや鬼滅くじ21日だけど、また3ロット当日午前中に亡くなりそうだし、これどうするか? 腐が大量襲来する東京よりもカッペのほうがくじ残ってるかしら? あと聞いた話だけど、タイガーアイとかいう石を身につけると一番くじで目当てのもの引けるらしいお。