寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

この季節は堅苦しい恰好なんてしないで

 

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No.xxx 区分 その他 情報書込日時:2018/05/xx xx:xx

場所 東京都墨田区xxx

日時 平成30年5月xx日 xx時xx分

不審者 身長165cmから170cm、30代前半の男性、ベージュのチノパン、白のポロシャツから東方projectフランドール・スカーレットの法被をまとっていた

状況 周囲に気持ち悪がられる

その他 警察には未通報。今後パトロールを強化して近隣住民と連絡を取り合う

 

私はスーツとか嫌いです。あの「私働いてます、仕事してます、社会的地位が確保されています」という自己主張の強さと服装から醸し出す気位、貴意の高さがハナにつく。要は偉そうでムカつくんだよ、スーツとか。特にネクタイなんてのは大嫌いですね。無理やり西洋人の真似しなくてもいいのにネクタイが好きなんて西洋コンプレックス丸出しとしか思えません。ネクタイは首に絡(から)めるという意味から「会社から首をつながれている鎖」というメタファーなのです。ネクタイをすることは犬に首輪をつけて飼いならされている意味。用済みになればネクタイを引っ張り首を切る(解雇)。私はクールビズ以外でもネクタイだけはしません。昔それで怒られたけど、今は諦められているせいか怒られません。

そんなにスーツネクタイがカッコよく立派に見えるから好きだというならば、大礼服でも着てろよ。

 だからこういう法被とか好きです。流石に街中でこんな格好してたら「景観を損ねる」とかで通報されるけど、この画像はいずれTwitterなるものやる時のアイコンにしたいと思う。ところで、着流し羽織はいいよね。たまに浅草とかで見るけど、明治神宮でそういうの着てた方を見たときは場所が場所だけに「ホント素敵だな」と思いました。私もそういうの着てこれから東京でも歩こうと思います。

たかが女に趣味のものを捨てられたくらいでキレる男。その男尊主義がキモい

いずれ語ろうとして忘れていたことがある。もう昔かもしれない。ある方と話したことなのだが妻に自分が集めた特撮とかロボットフィギュアを捨てられそうになり、その非常識な、人の尊厳を殺したとか私に語った。よくネットでも話題になる (最近話題になったか?) 妻や彼女に大切にしていた趣味のものを捨てられるという報告は聞かれる。自分の趣味に理解を示さないバカ女としてその後の顛末は関係は修正不可能と締めくくられる。その方は私もフィギュアとか買っていると先に話したから共感したのだろうか、そんな自分の趣味を捨てられるあまりにも理不尽な妻の行動を嘆いていた。私はその話を聞いて・・・相手に指を突きつけながらこう言った。

 

「不見識者め! 恥を知れ! 妻が何故それを捨てたのかを、その意味を考えたことがあるのか!」

 

相手を指さして意見を言うのはとても気持ちいいです。私は性格が悪いから今後付き合う予定のない人にはこうしたニュアンスの言葉をよく言う時がある。本音を語って嫌われれば当たり前。むしろそれで好かれたら私はその人を尊敬するが、大抵嫌われる。

 

夫、彼氏の趣味で集めているものを捨ててしまう女性の心理は私の自己分析によるとこうである。

 

・明らかに嫉妬深い性格。夫や彼氏が自分以外の趣味のものにうつつ抜かすのは他の女とうつつ抜かす不倫だと認識する。趣味のものを他の女性と同一視するのは女性の価値判断に対する脳みそが未熟であるから分別をつけろという男の言葉は無意味である。私以外のものに夢中になるのが許せない。だから捨てる。

 

・嫉妬深いことは独性欲が強いことも挙げられる。自分が夫に尽くすのだから夫も私に尽くすべき。それは私以外は見ないでというヤンデレ的独占的な考え方に他ならない。要するに精神病なのである。自分が一番でないと嫌だ。趣味に高じるのは私を下に見ているからだ、一番は私であり趣味ではない。そんな一番を奪う趣味のものは捨ててしまえば私が夫の中で一番になる。精神病だから、だから捨てられる。

 

・相手を自由自在に管理したがったり、思い通りにさせようとする束縛的価値観に起因する。藤原紀香がいい例だろう。風水にこだわり過ぎて元夫に愛想つかされた (詳しくはググレ) 。私の理想通りになってというのは、そんな不潔な顔してないでとかカッコよくなってという心理が働いている。彼女からしたらフィギュアやプラモや鉄道模型はカッコ悪い趣味なのである。そんな趣味を持たないで私の思い通りになって。だから捨てる。

 

 ・自分の価値観を大切にするあまり、己の理解されないものが許せないという視野の狭さ、器量のなさ。右翼が嫌い、左翼が嫌い。だからといって同じ国に住む者同士だろ。協調性とは固執した価値観が打ち砕いてしまう。価値観を分かり合い、お互いの長短を見極めてより良い未来を目指すものなのだが、日本ならずとも世界中がこんな簡単なこともわからない。国がこうならば、その国に住む人間もそうだろう。価値観が違うというだけで嫌悪する。だから捨てる。

 

 ・夫や彼氏のものは私のもの、という極めて常識とは逸脱した自己中心性。自分のものはたとえ他人のものであっても自分のものとすることは幼児期の心理特性。つまりガキ臭い性格で大人になれていない。とても恥ずかしい。夫、彼氏の趣味のものは私のものであり、それは私には必要ない。だから捨てる。ある種よくこの年まで生きていけたものだと首をかしげたくなるだろう。

 

・心理学的見地から言えば趣味のものを捨てるという女は自己愛性パーソナリティ障害と考える。そして私はそんな女の行動様式に理解を示す。何故なら自慢するわけでもないが私も精神病だから彼女たちの気持ちがよくわかる気がする。もし、趣味のものを捨てられた男たちはその辺の身の上事情もある程度知っておくべきだった。これは普段の何気ない日常でよく目にする。「あれ?」と思ったらすぐに趣味のものを隠すべきだった。それがわからなかったのならば、なんでそんな女といっしょに暮していた意味がないではないか。お互い惹かれ合って一緒に暮らす仲だろ。

 

結局女も悪いが男も悪いのである。いや、女の心理に気づかない男というのは鈍感すぎて反吐が出る。男というのは正直デリカシーがない。感受性が欠如している。女性は感情表現がたいへん旺盛。それに元来女とは建設的な意見より感情的に動くものであることは長い歴史の中でも証明済みであったはず。男がそんな女性の感情を読み取れないのはいくら偏差値がよくてもバカに他ならない。そして愛しているから趣味のものを捨てたという理由ならばそんなくだらない趣味のものなんて捨てても構わない。趣味が愛よりも優先されることは私にとっては許せない。捨てるのは彼女なりの独善的で稚拙ながらも真の愛情表現だったのです。

趣味と人の愛、どちらを選びますか?

趣味を捨てられただけで人の愛とは捨てられるものなのですが?

趣味はまた集められますが、人の愛とは集められますか?

私は、人の心も価値があり、趣味を分かり合えない人の心なんて価値がなくて捨ててしまえという唯物主義者に似た、その人の感情表現だった出来事を損得で切り捨てる男尊主義が気持ち悪いです。ものを捨てられたというのはその人の屈折した愛情表現だったはずです。屈折しているとはいえ、いじめとか困らせるために捨てるような感情ではなかったでしょう。私が「趣味のものを捨てる女は何なのか」と上で示しましたが、どうも、男の人を愛しているからそういう行動をとっているのです。喧嘩してとか、何かの腹いせで捨てているのではないのです。愛の行動様式に過ぎないのです。私は愛とは人の趣味を捨てられたら離婚できるという口先だけの法的拘束力などとはまた違う絶対不可侵的な聖域であるとみています。関係が破たんしたらそれで愛は終わるという愛は愛ではない。愛の為なら趣味を捨てても、それも人の愛であったと一定の理解を示します。ていうか理解する。

趣味のものを捨てられたぐらいで心神喪失したり離婚を突きつける男とは愛を知らない、よくそれで大人になれたなと。大黒摩季の歌にあるように「あなただけを見つめるために全てを捨て去ってあなたについていく」というあなただけを見つめているという歌。職業、財産、家柄、すべてを投げ出して駆け落ちするような愛。そこには物欲というものとは無縁。そんな真の愛というものを趣味のモノを捨ててまでしてわかってほしかった女の心底…。愛があれば趣味がなくなってもそれでいいではないか。

私は趣味どころか自分の命も愛した女性に捨てられるのであれば喜んで殺されるだろう。私の死に方で一番望むことは愛している女性から殺されること。その理解しがたい考えは私が考えた歴史小説でこの意味不明を理解してください。

茶々は小谷の城で自分の父浅井長政を殺した秀吉を憎んだ。茶々は北ノ庄の城で自分の母を殺した秀吉を憎んだ。茶々が殺してやりたいほどの秀吉は、秀吉が若き日の頃から惚れていた母のお市と自分が瓜二つだからと秀吉は茶々を側室にしようとした。茶々は側室になれば秀吉に近づけるし、それで殺せるからと側室になった。そしていざ秀吉と二人きりになった時茶々は何故側室になったのかを秀吉に話す。その話を聞いた秀吉は「お前にならば殺されてもいい」と茶々に小刀を渡した。茶々はその時、殺されてもいいくらいと思うほど自分を愛していた秀吉に激しく動揺した。「いつ殺すかは楽しみにしていな」。茶々は小刀を持ちながら秀吉の前から逃げ出した。

そんなことより、愛している人が大切にしているものを捨ててまで私に振り向いてほしいというほどの愛情表現をされる夫や彼氏が羨ましいです。そんな愛されかたに嫉妬します。私は結婚したら(できたら)まず、趣味のものを跡形もなく捨てます。お願いだから一緒に死んでと言われれば喜んでいっしょに死にます。愛とはいろいろな考え方があり、私「だけ」はそれが愛と捉えています。

大切にしている趣味のものを捨てるなんて信じられない、理解できないというのは同性の女性からも強い批判があるようです。大切なものを捨てるのは到底許せないことだと。でもそれが愛情表現だとしたら私はそれでもいいのではと、批判する人を説得します。今回はそんな意図がありこんなこと言ってます。人の大切にしているものを捨てるような理解しがたい人間を理解しようとした理解しがたいブログ主であるので理解されないことは私もよく理解しています。ただ、たかが趣味のものを捨てられたぐらいで騒ぎだすようなモノの価値しか見ようとしない、人の愛情を蔑ろにする男は私は理解せざる負えないにしても、心の中では理解したくないです。

プライドがなくてもいい

電車の中で歌うたってたら

知らない方から

「もしかしてユーチューバーとかの撮影とかですか?」

とか尋ねられた

 

かんけーねえよ

ただの酔っ払いだよ

気にすんなって

 

どこかで聞いた話だが、ある営業勤めの新入社員は人混みの大通りで歌を歌い、それで物怖じしないような度胸付けをおこなうという。まあ、物おじしない堂々とした態度というのはプレゼンとかでは大いに強みになるからあえて説明しないけど、人前で歌う変な特訓にはもう一つの理由がある。緊張とか気恥ずかしさとは一分一秒でも無駄にできない営業活動において、度胸がないとなるとそれだけで時間の無駄。時間の無駄は効率の無駄。緊張しているだけ大切な仕事の時間が失われてくる。だったら緊張しない度胸をつけたほうが物事が円滑に回りだす。時間も無駄にならない。うーん、私の説明抽象的だね。元来論理よりも直感なんだよ私はね。

 

そんな事情とは違い私はただ電車で歌ってた。私はそれが恥ずかしいこととは思わない。むしろ恥ずかしいからこそ面白いんだ。ホリケンが言ってたけど周りが引かれても気にしないくらいのギャグをやれてこそがそのギャグをやる意味がある。つまりそんな引かれるギャグをする自分が大好きだということだ。私と性格がホント似ている(才能は天地ほどあるけど)。私の歌で周りが笑ってくれたのならば本望です。迷惑ですが。そりゃ「うるさい」って殴り掛かられたら止めますよ。まさか警察に突き出しても私がそれをまんざらでもないのですが。

私は人から笑われることはわけない。バカ扱いされようがキモオタだろうがロリコンだろうが(最近ちょっとヤバくなったが)、それよりもプライが高い奴と思われるのが嫌いです。そもそもプライドというものが鼻につく。よくいるよね。自分が頭いいと思って他人を下に見る人って。相手をバカとそうやって思うような心のプライドの高さが大嫌い。Twitterで「俺はあれが馬鹿らしく見える」とかいう奴は私から言わせればもう少し相手のことを分かろうとしないのかな? そうやって相手を切り捨てるほどのプライドって本当に大切なのかな? 少し自分の間違いを指摘されると素直に受け入れればいいのに、プライドが高いからそれもできない。小さい器ではビールも飲めやしない。だからSNSでくだらない言い争いが怒る(起こる)のです。ツマラナイカラヤメロ(宮沢賢治風)

プライドが高いとその高さを保つのは疲れる気がするのです。いつもプライドで自分を縛り付けておくものなのでしょうか?

私はプライドというものを捨てた。バカになりたいとおもったら電車でカーペンターズの青春の輝きを歌うのです。

それ以来気楽に生きてこれた。でなかったら若いうちから自殺してたまじで。

そもそも電車で歌うのはプライドが低いからじゃなくて単に精神薄弱者だからだろ

そう自分で言うてしまうプライドの低さに日々心は助けられているのです。

人を殺して何になる

施設で19人殺した事件も座間の9人の遺体をアパートに置いておいた事件も私にとってさほど気にも留めなかった。

しかし新潟で女児が殺されたことは今後においても残響になるかと思う。

いつも事件がおきたら「何故」とか「許せない」とか単略思考な人間は「死刑にしろ」と殺したがりが出るのだが、その気持ちは一年後には振り返ろうとせずいつの間にか忘れている。それ程の心の留め金が外れるくらいならば最初から事件に関心を持たないでほしい。5年10年後には凄惨な事件も忘れかけている。あまりにも薄情ではないか。

私は戦後の重大殺人事件は事件発生の日時と概要とその後の判決まで自信はないが、覚えているほうだと思う。私が唯一周りから優れていると自負するのはそうした事件の記憶をいつまでも覚えていること。

この事件のいたたまれなさは殺しておきながら線路に放置するということ。これは一体何なんだと。数ある児童殺害でもあまりにも薄気味悪すぎて。感情的に言えば犯人は生きていても仕方がないだろうという口調になる。私は感情論からくる死刑反対であると自負するが、正直この事件は人間の失敗として処分するべきである。人を2以上殺して死刑になる杓子定期な永山基準なんか用いるべきではなく、感情的に始末しておく。家族は残念だが公民権をはく奪したほうが良い。それだけの事件なのである。それだったらば、殺したならば森にでも海にでも捨てて欲しかった。線路に捨てるのは到底許せるものではない。何故線路に捨てることがいけないのか。

人を2度殺したからである。以上。それだけ言えば十分だと思うのでこれ以上言わない。

そもそも、なぜこんな人間が出てくるのか? 事件はこうした児童殺害は動機がいまいち報道されない。何故ならばその動機があまりにもおぞましいからである。児童を性的暴行して殺すのは報道しにくいと誰かが言っていたか(最近の事件では千葉県のベトナム人小学3年殺害事件)。だから、どういった事件かは知られても、その動機があやふやになり「何故こんな事件を起こしたのかと?」白痴をかますかのような大衆があるわけで、それでは今後の事件の阻止力になりえない。事件がおきたからには国民はどうやってこのような事件を限りなく少なくするには何が大切かと真摯に考えて予防措置を取らなければならない。煽り運転の交通トラブルがあるからドライブレコーダーをつけようというような予防策が何故児童殺害がおきたときは出てこないのか? 

何故殺したというのがあまりにも訳が分からない。どうこれからこういう事件を防いでいったらよいのかわからないから国民は事件の防止に関心がない? 「ただの異常な気質がそうしたのであり、どうすることもできない」。もしそうだとしたら思考の停止であるのだが、それも致し方ないのだろうか。ストーカー殺人もああいった事件があったことでようやく公的機関も本腰を挙げているが、どうしてもおきてしまう。殺人を1年を通してゼロに抑えることは土台無理だからだ。殺人は人々の考える常に上を目指している。だから殺人は無くならない。常人が非常な人間を理解して犯罪を防ぐというのは常人が出来るだけで常人の思い描く犯罪防止を軽く超えてしまう非常人がいる限り犯罪は無くならない。

人を殺したのはその人が人を殺したかったに過ぎない。ただそれだけのこと。今回の事件もそれと同じ。あまりにもあんまりな話である。所詮殺人を防ぐ術は人類は持ち得なく、罰を与えておしまいにするしかない。殺人防止という方程式を解いている最中にまた殺人がおきたら方程式を解いていた努力も無駄になる気がしてくる。殺人を防ぐことが出来ないのならば感情的になって後で忘れてしまうほうが楽であるから、国民が児童殺害になんら対抗措置などを言挙げ出来ないのは「所詮殺人をなくすことは不可能」と心のどこかにあるから、半ばあきらめているのだろう。

人を殺す奴はどうやっても人を殺す。「人を殺して何になる」とそういった昔から疑問を持った私はそうした犯罪心理学の本を読んでみたが無駄だった。「サイコパス-冷淡な脳」という本を読んだことがある。サイコパスという常識的には考えられない犯罪を犯す人間の脳を解き明かそうとした書である。その書の言いたかったことは「サイコパスという並の人間の頭をしていない人間がいるから、そういうやつが犯罪をしているから、もしその犯罪をする人間がいるならばサイコパスな人間を矯正していかなければならない」と。そして最後があまりにも救えた話ではない。「そもそもサイコパスという殺人を苦にしない、むしろ快楽として行う人間をなくすことは遺伝学上不可能である。これから先もサイコパスの脳を持つ人間と社会は付き合うほかない。もし、このサイコパスという脳を治すことが出来るのならば、いったいどうすればよいのだろうか、皆さんも考えて欲しい。私はどうしていいのか、まだ答えが出そうにない」。・・・こう最後に綴っているのはあまりにも、あまりにも肩に死体が乗っかった様なそんな絶望を感じた。要するに殺人をする人間に善悪なんて説いても罰を与えてもただの骨折り損なので、あとはほどほどに殺人を理解しておく。決して殺人をなくそうとは思わないことだと、そういいたかっただけ。これは詐欺の本だとブン投げたあとどっかに捨てたと思う。犯罪者の気質がサイコパスとわかっていながらそれを防ぐ手立てがないとは、殺人を許容しろっていうことか? サイコパスを治す手立てがないからには、殺人はこれからも起こり続ける。そしてそのたびに悲しみがおき、怒りがおき、刑を科して溜飲を下げてから、そしてまた風化していくそんな殺人殺人事件とこれからも人間は付き合っていくのだろうかと思うと気が重くなる。だから私は殺人事件に無関心だったはずだが。。。

 異常な気質を持ち殺人をする。金銭トラブルや痴情のもつれ、家庭、仕事のトラブルの殺人はまだわかる。だが、線路に放置とはいったいどの面さげて今まで23年生きてきたのか? 子供を殺して線路に放置するために親は腹を痛めてそいつは生まれてきたのか? 最後に女児を殺すために今まで生きてきたのか? そして殺して刑を受けるそんな人生を本当に望んでいたのか? 私はそう考えた時、これ程人間というのは訳が分からないものなのだと、このブログを書いている最中に何度思ったことか。

 

休日の東京は疲れる…その2

五月に入ると吹奏楽の「五月の風」という楽曲を聴く。

どうせなら当たりくじを抜いていたタワーレコードの新宿店で全日本吹奏楽コンクール課題曲参考演奏集(1995-1997)なるCD買って聴いてほしいんだけど、youtubeで「五月の風 吹奏楽」と検索すれば、是非聴いてみてください。ブルースカイとライジングサンと五月の風の3曲は音楽の通信簿一貫して「5」の私の耳が腐ってない限りいい曲だと思います。

五月の風とはヒンヤリ冷たく、でも心地いいのです。私は夕方にそういう風が吹いてくれることが好きです。その風が一日が終わりを迎える際にもう一度あの日中の日差しに照らされた緑豊かな新緑の空気を今一度振り返らせてくれるのです。そして改めて五月という季節を教えてくれる。

晩来 風起こりて 新緑 枉げて相思う

夕暮れの上野公園の木々の中を歩きながら風が頬をくすぐったときにでふと詠んでみた一文。

でも、五月というのは、そんな緑の美しく風が心地よい季節ではあるが、五月病の発祥の季節でもある。この病気については今更説明する気はないが、ことに私はよくこの病気にかかる。三月は体力的に疲れ、五月が精神的に疲れる。だから五月のこの時期に外で遊んでくるのだが、まあ楽しめた。しかし、もうあと何年生きていけばいいのかもうこの辺でいいのではと思う。

この祝日続きは東京をぶらぶらしていた。東京どこでもいい。駅周辺を歩けばそれで満足なのである。私はつまらない人間だから外で楽しくしている人に楽しさを分けてもらおうとしている。ほら、笑いにつられて笑ってしまうことってあるじゃん? あんな感じ。新宿、渋谷、池袋、原宿、上野、品川、秋葉原、恵比寿、あとは新橋かな。そのへんの駅周辺でぶらぶらしている。マジです。意味不明で不審者だと思われますが駅周辺を歩くことが私なりに面白いのです。新宿伊勢丹では私にとっては場違いな場所なのに「なんでこの人ここに来たの?」と思われるほどの嫌がらせみたいに店の中うろうろしてます。あとはゆりかもめに乗りフジテレビがある辺りの駅に降りて大腸菌まみれといわれる砂浜を歩きながらたまにその大腸菌まみれとされている海の水に手をぬらして「ひゃあぁぁぁー」と意味不明に独り言をつぶやいて、意識の高そうな人たちと一緒に歩きながらまたゆりかもめに乗り豊洲まで向かうのです。な、なんかちょっとアレな人ですが実際本当に精神病を患っているでしょうがないんです。

でも買い物したのはやはり秋葉原でした。アトレ秋葉原ごちうさのコラボなんたらがやっていたので何か買おうとしたけど買おうとしていた扇子が売り切れていたのでしょうがなく缶バッチ一個買っておしまいでした。どのキャラが描いてある缶バッチなのかはわからないように梱包されています。私はチノが好きなので是非ともチノが入っているばいいなーと期待しましたが、やっぱりチノが入っていました。やはり日頃の行いがいいのでしょう。

 

 

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トリミングめんどくせえ 

 

秋葉原はフィギュアとか見るのが楽しいです。たまーに掘り出し物があったりするのでそれを見つけることができるとまんざらでもないです。中古フィギュアは別に中古でも私はいいという人間です。その形をしていれば汚れていようが褪せた色合いだろうがぶっかけてあろうがまったく気にしません。それどころが、新品で買うとこんな高いのに同じような形をしている中古品が箱、ブリスターが破損しているだけでこんな安いのかと感謝して買うこともあります。要はフィギュアの形をしていれば新品も中古も変わりません。中古だろうが置いておけばそれは紛れもないフィギュアなのですからいちいち気にしても仕方がないでしょう。私は限りなくB型に見られるA型なのでA型本来の綺麗好きとか神経質さとか無縁になりました。そんであるショップのジャンクフィギュアを買いました。

 

 

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八雲紫(香霖堂ver) グリフォンエンタープライズ

 

また東方のフィギュアです。しかも昔買ったのをまた買っている要するにバカです。値段のわりに状態が大変よくまるで中古未開封と私の目利きが(笑)判断したのでお買い得だと思い買いました、5000円。このゆかりんは原作設定よりも幼さが出ている気がします。造形も深く掘られていて淡白さは感じられず置いてあるとなかなか存在感を感じさせる。ポーズや髪のなびかせかたからも躍動感が伝わってきている。実はこのフィギュアは前にも買ったお気に入りですが、落として壊れてしまったのでまあ買いなおしたわけです。俺は可愛いと思うけどなぁ・・・コレ・・・。

今日は東方の博麗神社例大祭でしたが、去年に続き不参加です。フィギュアの東方が好きであり、イベントとしての東方は昔の熱意が薄れてしまったようです。それでもTwitterを見ていると楽しそうで羨ましいです。誰かと一緒に参加したいのですが、いつも一人だからねぇ・・・。

 

東方のフィギュアについてああだこうだ

5月4日に以前欲しがっていた東方の魔理沙のフィギュア買いに行きました。秋葉原へ。「まーた始まった」と政治の問題をニュースで目にしたら私が発する言葉ですが、「まーた始(恥)まった」とばかりにフィギュアです。

去年10月15日に東方オンリーイベ秋季例大祭にてフィギュア制作会社のキューズQというとこから出た霧雨魔理沙のフィギュアのデコマス(要は試作品見本のフィギュアのことを指す)を見に行ったとき「これを買うまでは自殺はできないな」と今日まで生き続けてついに購入して今に至る。私もフィギュアとか買っているからよくわかるけど( ? )、そのフィギュアは東方というキャラのフィギュアの中でも格段に出来がいいと思いました。んで、買ったのがこれなんですが。

 

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秋葉原のラジオ館のなかにあるあみあみというフィギュアショップで買いました。私は通常版と違いコースターが付属されている高いほうを買いました。11%off13,380円。化粧箱がよく中身が見える透明プラスチックで見栄えが冴えてるなと第一印象。このフィギュアを買うためにつまらねえ仕事してきたつもりだが・・・。正直当初のワクワク感とは幾分違う。買うまで待っている時間が楽しかっただけで、買った後は目的が達成されたと同時に楽しみは消えてしまったのかもしれない。購入して満足した後に残るのは購入出来て嬉しいという感情ではなかった。・・・もう購入出来てよかったから、これから何を楽しみにして生きていけばいいのだろうか。もう欲しいフィギュアはない。何を楽しみにワクワク時間を待ち続けながら生きていこうかと考えしまうと気持ちはまたつまらない仕事に向いてしまい軽く鬱になるね。

メンドクサイ性格はもうこのくらいに。このフィギュアは出来は大変いいです。東方香霖堂という東方の小説の魔理沙のイラストをフィギュア化したものです。元のイラスト自体可愛らしさというかメランコリックといったほうがいいかもしれません。優しさに包まれるかのような描き方で実にメルヘンチック。そんな小説の挿絵のイラストがフィギュア化してるので買うしかありませんでした。東方のフィギュアではグリフォン(グランドトイズ)がよく知られていますが、もうグリフォンは息してない気がします。かわって東方スケールフィギュアといえばキューズQと今回の魔理沙のフィギュアを作った会社ぐらいしかまともな東方フィギュア出しません(他社も出てるが目立つのはこの会社ぐらい)。出来は何度も言うようにいいです。細かく細部に彫りを入れてくるディティールの抜かりない造形がよくわかる気がします。繊細かつ奥行きも感じさせる本格的なフィギュアだと思います。服装の細かい造りもその塗装と色使いも目に優しく映りふと微笑みを覚えるくらいです。きらびやかさで言えばアルター(フィギュア好きならまず一番といえるデキを誇るフィギュアメーカー)にはかないませんが、その塗り方には魔理沙の愛らしさが存分に見て取れます。若干ロリくさくてもっとマスタースパークをぶっ放しながらオラつきながら箒でかっ飛んでいくスピード感あふれるカッコいい男言葉を使う、敵には容赦なく切れ目鋭く不敵な微笑みを浮かべる厨二気質のメタル調の魔理沙を思い浮かべるのであれば(長い)このフィギュアはやはり愛らしすぎてカッコいい魔理沙をイメージするならば失敗作だと思います。普遍的な価値観を問うならばこのフィギュアの出来は好みが分かれる気がするし、これが東方魔理沙の決定番フィギュアだと言えばそうではないと思う。

ただ、私はロリコンだからこのフィギュアが気に入りました。

若干チークが薄い気がします。キューズQのフィギュアって全体的に塗りが淡いんだよね。私ははっきりとした塗装というか鮮やかに濃い色合いのフィギュアが好きだから、それだけが今回のフィギュアの不満ですが、それを覆い被せるほどに造形からくる雰囲気に満足しています。私のレビューは回りくどいのはごめんね。

あと、後から気づいたことですが13380円を出すのは正直辛いです。そのくらいの金をかけるほどにフィギュアという趣味は金がかかるものだとつくづく思います。働いている独身の私がいうのもアレですが、もう少し値段が何とかならないのでしょうか?

さてさて…東方のフィギュアはプライズがにぎわっているかと思います。Twitterとかでもヤフオクでも東方のフィギュアと検索すればプライズフィギュアがよく目につきます。やはり安さのせいかもしれません。安いからよく目につくのです。はっきり言って1万以上のフィギュアを東方の若いファンは買えるかというと「あ、その値段ならいいです」となる気がします。今の10代の東方ファンはフィギュアというガラではなく専らvocalアレンジとか音系を好みます。フィギュアなんてのは私みたいな古いタイプの趣味なのでしょう。それでもある秋葉原のフィギュアショップの店員に尋ねたところまだまだ東方フィギュアは根強い人気で中古フィギュアの中でも回転がいいと言っていました(ちなみに一番フィギュアの売れ行きがいいのがデレマスらしい)。でも・・・私にはもう東方のフィギュアなんて売れないと作るだけ無駄なのではと。でなければ東方新作の東方天空璋キャラのフィギュアの発表があってもいはずですから。東方でフィギュア会社が出した(ガレキとか個人制作のは除く)一番新しいキャラのスケールフィギュアが今から7年前の東方神霊廟の豊聡耳神子なのですからいかに東方のフィギュアが売れないのか。。。売れるとしても紅魔郷とか妖々夢あたりの初期のキャラのフィギュアとか、それほどまでに東方新作のキャラはフィギュアにするほどの魅力的な価値もないのだろうか? 作らないというのは東方のマーケティングにフィギュアという言葉は不要ということをメーカーは薄々感じているのでしょう。これは東方ファンがフィギュアを不要としているからにすぎません。うん?

東方とは様々な解釈があり、キャラの設定に至っても十人十色です。それを「これが東方のフィギュア」といわれて発表しても「これは東方のキャラじゃない。私の解釈と違う」となります。個々に東方キャラの描き方にそれぞれ固定的ファンが点在するので、普遍的なキャラだと言って固定概念としてしまうのは土台無理な話です。フィギュアは誰もが受け入れるキャラでないと売れません。東方は二次創作があったおかげででかくなったのです。様々な二次創作はそれぞれ個性を持ち個々に受け入れられています。そんな二次創作と一緒なのが東方フィギュアなのです。そのフィギュアという二次創作が好きな東方ファンもいれば嫌いな東方ファンもいるのです。簡単な話です。東方が好きでも東方のフィギュアも好きではない、東方のゲーム性が好き、世界観や物語性が好き、楽曲が好き、キャラが好き、エロが好き。人の好きは何も画一的ではないのです。東方とはジャンルが幅広い。「この東方が好き」という人が「この東方も好きだろう」というのは人の趣向を干渉するおせっかい。私は東方ファンに「私がフィギュア好きなんだからお前ら何でフィギュア買わないの?」とは言いません。むしろ東方にフィギュアが不要だと大多数の声があればそれに従うほどです。

あと要するに東方のフィギュアが高すぎるから売れないのだよ。クオリティさげてもいいからガチャポンレベルのフィギュアでもいいからとにかく安くすれば東方フィギュアも目を向けてるれると思いますが。

休日の東京は疲れる…その1

ゴールデンウィークの真っただ中

5月2日はスペシャルウィーク

 

これは1999年の春の天皇賞にて競走馬スペシャルウィークが勝った時のスーパー競馬で放送された日の実況。レースに勝利したスペシャルウィーク春の天皇賞ゴールデンウィークに開催されていたので、その時期と馬名を掛け合わせた「スペシャルウィークゴールデンウィーク」の語呂はたいへん心地よい文句として秀逸ではないか。今年の天皇賞春は? 私はあいにく中央競馬が嫌いなので何が勝ったかなど、あの強い古馬に混じって札幌記念3着のレインボーラインぐらいしか 知らない。

この時期というのはゴールデンウィークであるが、この時期外に出ると今の社会にまんざらでもなく、何の不満もない、そんな世相の空気を感じさせる。今の政治がゴタゴタしていても当の国民はどこ吹く風。そんな風潮みたいなものがよく伝わってくるのがゴールデンウィークのような気がするのです。結局政治なんてのは報道してもどう関心を持っていいのかわからないし、そんな面倒なことよりも明日の仕事のこと、家庭のこと、趣味のことに生きていけば十分なのである。政治という関心事に取り込まれることなどある訳ではなく、そういう政治とは個人の範疇において蚊帳の外であり、だから政治報道など無駄なのである。何が官僚がセクハラだよ! 知るかそんなの!! である。私の場合はね。

日時は定かではないが友人と東京に出かけた。出かけた先は↓

 

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私は東京国立博物館のほうだが、友人がどうしてもこちらがいいということでこっちにした。友人はこのパンフレットの右下にちっこく記されている忠犬ハチ犬や南極のタロ犬のはく製とかが見たいとかで。正直私は「そんなもん別にどうだってよくね?」です。特別展の人体の神秘とか何とかというのも見たいと言いましたが、あんな列に並ぶのは私嫌ですと泣いたので通常館だけ見るだけになりました。私は人体とか子供の頃の人体模型がトラウマなんですよ。グロくて。そのくせグロ絵見るんだから意味不明ですが。館内はやはり家族連れが多い。 何も東京でいい年した男二人が手をつないではいないけど一緒になってあれやこれや見ているのは…正直まあこんなのもたまにはいいかな。でも、私は元来博物館とかは一人で見るほうが性に合っています。友人の話に合わせるのが面倒で「あーソレよくわかんねーわw」と適当でそのうち一人で迷子になります。最後のほうは「もう帰っぺよ~(語尾が上がる茨城弁)」と言って若干キレられます。で、ここに来た感想はまぁ、「よく知らない学問の展示物を見るのも悪くはないな」くらいで…いやホント展示物とかよくわからんかった。辛うじて鉱物とかは多少は興味あった。友人は化石や鉱物、動物が好きです。私は宗教哲学とか西洋占星術に興味があります(気取るな)。今度はトーハクで山水画を見たいですね。上野の杜は人いすぎ。東京の一極集中化が甚だしい。当たり前だ。東京に住んでみて思うのは、東京はとてつもないブランド。その東京にいるだけで心が楽しくなる。だから人が集まる。都市社会学とかよくわからんが私の結論。

帰りに秋葉原でオタくさい店を見て回った。私の欲しかったフィギュアがなかったからなんも買わんかったけど、友人は秋葉原に来たからには手ぶらでは帰らないとかのたまう通りやっぱなんか買った。ワシは萌え(死語か?)グッズぐらいしか買わんから友人のかったものが意味不明だった(昔のキャラ? ジャンル何? )。「いやーどうなんでしょう?」というしかリアクションなかった。私ってなんかつまらない人間だと思う。秋葉原人混みすぎ。歩行者天国にしろよ昔みたいに。あの広い道路を歩くのが気持ちいいのに何で廃止にしてるんだよ。あとウケたのがある店で中国人が「中国人多すぎだろー」と中国語で文句言ってた。ジョンゴンレン・・・なんたらなんたらとか私の中国語の理解力でもよくわかるくらい文句言ってた。ウケた。そうなんだよ。何で中国人ってああいう場所で声がデカいの? 

飯食った帰り際に友人に私が渡したのがこれ↓

 

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サランラップに綺麗にまいておいて飾ってくれるって。よかったね。

こんな個人的なことがブログであると思う。私は他の方の役に立つようなことは書けないからこういうことぐらいにしか記事にできない。まぁ、一人よりも誰かと出かけたほうが楽しいよね。いい学校に行く、いい仕事に就く、それよりもいい友人を持つことのほうが私は大切だと思います。一人は、一人はやっぱり何だかんだで寂しいですからね。

あとやっぱり疲れた。