寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

加害者を追い込む過剰な正義

朱門には酒肉きに
路には凍死の骨有

杜甫


今の日本ではないかと。富を持つものは生臭く生を貪り、貧乏人は道端で凍死しても同情されない。地獄の沙汰も金次第とは何時からこんな日本は薄情な国になったのだろうか。私が生きていたほんの数年前からこの変わりようはおかしい。おかしいのはてめえの頭だと言ってしまっても構わない。人柄を才能で潰すことでこの国は成長したのではないと。日本が諸外国から評価されてきたのはその「人柄」である。「人命は地球よりも重い」とハイジャック犯の要求を鵜呑みにした日本政府はまだ弱者に対する抱擁があり、「それ」だけは国外からも評価されていたという。それが今では自己責任と言う薄情な言葉で切り捨てそれを国民が理解してしまう。だから、この国は弱者に薄情になったのだ。国が変われば民も変わるものか。私はこの国の人間ではないのだろう。

弱者を助けようとせず、さらに弱者となる人を追い込んで弱者に仕立てようとする。

どこかの鉄道かは東急田園都市線で痴漢を疑われた男性が女性と他の男性客によって電車からおろされたあとに線路に逃走して轢かれて死んだ。痴漢冤罪なのか痴漢と言う卑劣な行為の報いだというのは個々の判断でよいのだが、私が許せないのは女性ならともかく、関係のない他の男が正義ずらして男性を苦しめたことである。どこの誰だからわからないが第三者の私人逮捕は大変腹が立つ。これは私は過剰な承認欲求からくる正義としている。痴漢を捕らえて女性に感謝されたいというのではない。痴漢という低俗な人間を合法的にいたぶり蔑みいじめて気分を爽快にしたいだけである。痴漢男は悪。悪だから大衆にその醜悪なサマを見せつけるためにも俺がこの行動を起こさねば(痴漢男を捕まえなければ)。まさにいじめである。この国は弱者となったものをいたぶって快感を得る得体のしれない人間がいるのである。溺れた犬を棒で叩くどこかの国のメンタルを見習っているのである。痴漢は最も醜い犯罪であり衆目に触れることで社会的信用を失墜させる。だから、せめてもの情けとして痴漢者に大立ち回りをして捕らえるようなことは差し控えてもらいたいのである。痴漢者がつけ上がるからとかそういうのよりも、痴漢者と周りのトラブルを私はあまりにも汚い世界なので見てるだけでも吐いてしまうのである(実際吐いた)。そんな芝居を終わらせて欲しくてそこら辺の男数人で取り押さえるような大げさな真似はやめていただきたい。痴漢者とその被害者と周りの協力者のやり取りはこの世のものとは思えないほど悍ましい。私が痴漢者を取り押さえる男を嫌うのはこんな心からの嫌悪感である。しかし、罪は罪。罰しておかなければとおもうところだが・・・。

昔の日本は「武士の情け」と言うものがあった。人の弱みは見て見ぬふりをしてあえて周りに風潮させたりしない。何故ならそれはその弱みを持った人をさらに傷つけ自尊心を内心までも傷つけては余りにも不憫である。それがたとえ犯罪であってもだ。悪人であっても恥をさらさせたりはしない。それは日本固有の日本人の持つ優しさでもあった。

古代中国において春秋時代の楚の荘王は臣下にむけて酒宴を開いた。その時ふとしたことからろうそくの明かりが消えた。暗闇の中である臣下が荘王の妃に悪戯をした。妃は荘王に「私に無礼を働いた者がいてその者の冠の紐を切りました。明かりをつければ冠の紐が切れた者がいます。その者が私に無礼を働いた者です」と語った。荘王は臣下全員に「明かりがつく前に冠の紐を切れ」と命令した。明かりをつけたら皆の冠の紐は切れていたので誰が妃に無礼を働いたのかわからずその場は収まった。確かに悪いことをしたならば咎められねばならない。しかし、大勢の前で辱めを受けさせるのは悪戯とはいえ耐えがたい屈辱であり他の臣下からは蔑まされ今後の人生に暗い影を落とすことになるかもしれない。ちょっとした悪戯ぐらいでそれでは可哀想であるとしたのは荘王の優しさでもあった。その後は続きがあり荘王は戦いで死にそうになった。その死にそうになった荘王を命を捨てて救い出したのが妃に悪戯をした臣下だった。見事に荘王の優しさにその臣下は応えたのである。女性の言葉と臣下の今後の人生を天秤にかけて判断した荘王が戦国の覇者となれた所以の一つであろう。

故事を持ち出して私が言いたいことはいかに犯罪者でも人としての尊厳はある。身体は痛めつけてもいいが心まで痛めつけるのは余りにも不憫でならないと私は思う。ことに痴漢と言う人前で恥ずかしいことはその当事者間で誰からも知られずに厳罰を受ければよい。そういう犯罪は他人に言いふらすのは下品で無教養。ことにそんな痴漢と言う過去の後ろめたさを弱みとして握り、それで陰口を叩くような卑怯な輩は殺されても構わないと思っている。過去は過去。受けた罪を罰で全うしたらいくら気になっていても決してそれをその人にむけて言い放ってはいけない。

さて、痴漢を取り押さえた男どもにそんな相手に対して気遣いはあったのだろうか? 断言する。ない! そんなことだから痴漢者を余計に怖がらせて線路に追いやり殺してしまうのである。線路で死んだのは冤罪云々とかではなく馬鹿な男の過剰な正義のせいであると言いたい。悪者は悪いから銃で撃ち殺しても構わないというダーティハリー症候群に武士の情けとか、情けをかけてあげられる寛容な精神を持つことなど二度とできない。その人の人生なんて知ったことではない。悪者は悪者なので人ではないのである。捕らえた男の言い分はこうだろう(死ぬ前までは)。これは今の日本社会にに相通じる。低所得者は努力不足、甘えだから助けてやる必要ない。おそらく痴漢を捕まえた男は社会的に合格したリーマンあたりだろう。何を偉そうにネクタイ絞めて首から社員証をぶら下げ勝ち誇った態度でいるのだろうか。そんなんだから弱者に対して過剰な正義を振りかざすのである。自分自身を善人だと思っている人間の傲慢さに自分のなかにある悪に対する自覚に関する問題を解いてほしいと常日頃であるのだが。

さて、無教養なエリートリーマンがこの過疎ブログを見ていることを祈りながらもう一つ・・・。

レ・ミゼラブルジャンバルジャン。彼はくだらない金額のパンを盗んだ罪で十年余も時計吊るしの刑を受け刑が終わると無一文で刑務所から追い出される。食べるあてもなく死にそうなジャンを教会の神父が助けてあげる。神父はパンを盗んだだけでそれだけの刑を受けるのかと驚きジャンが余りにもかわいそうすぎると涙を流す。神父はジャンを教会で働かせジャンもそんな神父の優しさに感動して真面目に一生懸命働いた。神父はそんなジャンの献身的な態度に心を打たれる。ある日神父が教会を留守にしたとき一人残ったジャンは魔がさしたのか教会の銀の蝋燭立てを盗んで教会を出て行っしまう。帰ってきた神父はジャンがいないのと蝋燭立てがなくなっていることに気がつく。後日ジャンは逮捕された。手には盗んだ蝋燭立て。ジャンは己の悪事を認め観念して警察とともに神父のもとに。ジャンを捕らえた警察は神父に伝える。

「奴が盗んでいった蝋燭立ては無事戻りました」と。

その時神父は怒りながら警察にこう放った。

「あなた方、なんてことをしてくれたのですか! その蝋燭立てを彼が盗んだ!? とんでもない!! 何を勘違いなさるのか。その蝋燭立ては彼に差し上げたのです。それなのに何故彼を捕まえたのですか。あなた方はまたしても罪をかぶせて彼を痛めつけようとするのですか!?」

その後のジャンは完全に改心してパリ市長になる。そんなことよりも恩をあだで返したジャンを神父が、このような言葉を放ったわけとは何だろうか。

親鸞歎異抄にもある「悪人正機」。悪人こそが救われなければならない。悪人は善行を成しえないのだから救ってあげて善人にさせなければならない。常人は常人ゆえ、悪ではないから救うこともない。まことに救うべくは煩悩具足に苦しめられている悪人。どんな修行しても地力救済を成しえない。だから阿弥陀仏は救ってあげねばならない。ジャンが悪事を働いたのに嘘をついてまでジャンを庇う神父。悪人こそが救わねばまた悪人になるだけ。ならばまたジャンを救わねば。実に単純である。罪の重さよりも人間としての良心がジャンにはあり、神父はそちらを選んだに過ぎない。本当に悪人ならば教会で真面目に働くわけがない。ただ、その時は手が出てしまったけど彼にまた辛い思いをさせたくない。銀の蝋燭立て一つでまた彼の人生に影を落とすくらいならそんなものあげてしまっても構わない。

キリスト教はこんな博愛精神がある。右の頬を殴られたら左の頬を差し出す。悪人には悪人をも改心させるほどの慈愛の精神が、その慈悲深さ優しさこそがキリスト教の「愛」となり最大の特徴なのである。

犯罪者を擁護するのは私ぐらいである。しかし今日において僅かばかりでもいいから犯罪を減らしたいと思うならば、罪を重くしたり見せしめとしてさらし者にするのでは世が殺伐とするだけな気がして全く効果がないと考える。私の足りない頭で犯罪関連の本を読んだがどうも罪を減らすのは博愛主義だと信じている。

それにしても、だ。悪人なら悪人を善人にさせることの手間を惜しみ悪人のまま悪人で終わらせ後世に悪名を綴る。貧乏人は努力不足と言い自己責任と言う薄情で無慈悲な言葉で後世に綴る。お人好しと呼ばれた日本人も変わられたものだなと実にため息が出てしまう。

変な旧譜頒布するかもよーヽ( ̄▽ ̄)ノ

私が作ったしょうもないものを



    ヾミ || || || || || || || ,l,,l,,l 川〃彡|
     V~~''-山┴''''""~   ヾニニ彡|       出す・・・・・・!
     / 二ー―''二      ヾニニ┤       出すが・・・
    <'-.,   ̄ ̄     _,,,..-‐、 〉ニニ|       今回 まだ その時と場所の
   /"''-ニ,‐l   l`__ニ-‐'''""` /ニ二|       指定まではしていない
   | ===、!  `=====、  l =lべ=|
.   | `ー゚‐'/   `ー‐゚―'   l.=lへ|~|       そのことを
    |`ー‐/    `ー――  H<,〉|=|       どうか諸君らも
    |  /    、          l|__ノー|       思い出していただきたい
.   | /`ー ~ ′   \   .|ヾ.ニ|ヽ
    |l 下王l王l王l王lヲ|   | ヾ_,| \     つまり・・・・
.     |    ≡         |   `l   \__   私がその気になれば
    !、           _,,..-'′ /l     | ~'''  頒布は
‐''" ̄| `iー-..,,,_,,,,,....-‐'''"    /  |      |    10年後 20年後ということも
 -―|  |\          /    |      |   可能だろう・・・・・・・・・・ということ・・・・!





AAズレんなよ(ブラウザはIE推奨)。でコレ欲しい奴いんの? 俺だったら100円でもいらねえよ。100円くれておまけについてきてもいらねえと思う。



クソジャケから漂う地雷臭。中身は冷戦時代のソ連風東方原曲pianoアレンジ。いちおう今年の例大祭なんだけど…。例大祭って何? どこの神社? そして東方とは? 東方って何? 詳しくは「東方 例大祭」と検索してください。
そもそも興味あんのか東方とやらには? おめーサークル活動もう二度としないとか言ってたじゃねーかよ。そうですだからわしは当日行きません。ちなみにタダです(マジです笑)。


※追記

やっぱわし当日行きません。めんご

交流するためにあるのに交流できない? SNSというのが正直苦手

※この文章は所詮エビリファイを飲んでる奴が考えたものなのでご理解を。

長い前置きになるが、ネットをしていて一番後悔するときというのが2ちゃん見てる時だったりする。

相田みつをさんの書を綴る書籍「生きててよかった」(角川文庫)の中に

「ひとの批判はかんたんなんだがなあ」

というページがある(p40)

その意味とはSNSで誰でも気軽に意見を発信出来る現象「一億総批評家」とはそれ自体は間違いということはないにしろ、批判するだけなら楽なんですねとチクりと述べられている。人の批判をするとき自分はいつも傍観者。具体的には動かない。自分は手を汚すことは何一つしない。要するに自分のことは棚上げなんですねと続き、自己が具体的にどう動くか傍観者になってはいけないと締めくくる。

正論かもしれない。だから今まで口先だけで行動しようとしない右翼と俺たちは違うんだという思想の元、行動する右翼として在特会が誕生した。その後の流れは私にはどうでもいいこと。好きにしてほしい。言葉が逸れたが、ネットで勇ましく言うわりには案外だったりするのは、それは別に口に出したことを行動しなくてもその言葉を出すこと自体が気持ちいいからそういう「傍観者」になるのである。私はそれが大変気持ち悪いからブログで批判したものだが。後で知った。ネットで現実では言えないことを言うのは大変面白くてやはり気持ちがいいのである。ちなみに、もし自分の思っていることを誰にもわかるように身分を明かしてあえて口にすると大変な目に遭うのは長谷川何とかという元アナが証明してくれた。みんな大人だから気づいてるけどあえて言わないことが世の中にはたくさんある。それを何の配慮もなく無神経に発言しておいて「他人が気づかない、言えないことをズバリ言った俺は偉いみたいに勘違いしてない?」なんてね、と。けれども誰とは名乗らない「匿名」であるならば長谷川何とかみたいな酷いことも言えるだろう。匿名で言うのでは問題とされないくせに実名で言うと叩かれる。このダブルスタンダードは何なんだ。私は「自分」という正体を明かして正直な気持ちを発信した長谷川何とかという元アナは、少なくとも自分の「正体」を明かさないでコソコソ陰湿に人を中傷する2ちゃんモンなんかよりもよっぽど清々して潔い、そして嫌い。殺せという言葉も私ならば首を切り落としたいと言い換えるだろうからその殺せという言葉の倫理観を説いても無駄なのであしからず。この、なんていうか、正体を明かさずに自分は安全な場所から人を批判してその人を傷つけても当の本人は傷つかないのであればそれは批判ではなく誹謗中傷でフェアではなく意見としてまかり通らないと思う(これは私にも言えることでまったくの矛盾だが…)。

誰かというのがバレなければ悪口みたいなことを言っても平気。現実社会でそれを出さなければいい。もしそれが分別のある行為とするならば理屈ではわかっていてもその二重人格がとても恐ろしい。それにも関わらず私は2ちゃんを見てしまう。前置き長く2ちゃんに文句の後は2ちゃんねらー発言ですか。ふーんご立派ですね。その理由としてひどいと思う反面、鋭い意見が2ちゃんにはあり驚かされた次第。その匿名で偉そうなことを言っているのを差し引いても鋭いレスを見てもいいかなという思いで嫌々2ちゃんを見てしまう。鋭い意見よりもひどい意見のほうが多かったりもするから悩みどころだが。それと2ちゃんみてるのは性格悪く思われるからそれを隠しているという方がいたら、まぁ嫌う人もいるから口に出さないほうが賢いと思う。けど私はそれは偏見だとして自分を正直に伝えるためにたとえクソねらーと呼ばれても絶対に気分を悪くしない。

2ちゃんみてたら小金井で女子大生アイドル(アイドルと言うのは判断に迷うと思うが)刺傷の判決にいろいろスレがあった。その中である人が被害者をファンの男とうまく交流できなかったのが今回の事件につながったというそのスレのタイトルは「○○(被害者)さんにも落ち度がある。Twitterで無闇にブロックするのはどうかと思う」。要は被害者とファンだった男のやり取りには被害者の性格の悪さがあり気位が高いからあんな結果になったと半ば人格否定を含んでいるものでそれが被害者の落ち度としている。あーそれ言っちゃうのかー。やっぱそう思っている方がいるもんなー。いざ口に出されるとそういうのって凹むものです。「屍に鞭打つ」という伍子胥みたいな性格が好きでもこれはあんまりである。まず落ち度という言葉の使い方が間違い。冷静になれよと。何故そんなことを言ってしまうのか。包み隠さない本音のを語れるというSNSの長所のような短所の部分だ。こう言ったほうが注目を浴びるからだ。言った本人は注目を浴びたいのだろうし、現に2ちゃんが取り上げた(2ちゃんで取り上げられたからって注目されるものでもないが)。こういう過激なことを見てしまうとひどいと思う。これは鋭い意見でもなんでもない。鋭い意見には「落ち度」という言葉は存在しないし、その使うべき本当の意味を知らない無教養さに腹が立つ。まぁ個人的な意見として見るならば感情的に排するものではないので発言自体は撤回するものではないが。

しかし私もうすうす感じてたよ。事件が起こった当初から。それは思っていても言わないことだったけど、なんで以前書いたブログの文をまたここで書き直してまで言うのだろうか。それにはSNSというものが無常に思えてくるから。今回事件の判決と2ちゃん見て改めて思ったこと。それは・・・ここからが本題。

まず例を挙げる。あるシンガーソングライターがそのファンに刺された事件があっただろう。ファンはSNSでシンガーソングライターの女性にプレゼントを贈り、そのプレゼントをSNSにアップしてほしいと頼む。それに女性は無視。別のファンからもらった品をSNSにアップする。なんで自分の贈り物はアップしてくれないんだとムカつき、いらないんなら返してくれと言ったら本当に返してきた。その瞬間自分はこんなに応援して感謝の気持ちを出しているのに何で分かってもらえないのだろうと酷く傷ついたのだろうか。自分だけがその女性と形だけでもいい、仲良くできないのはそれほどまで自分が嫌いなのか、じゃあ今まで好きで応援していたのは何なんだという葛藤が嫌悪殺意に変わったのだろう。

私の、この事件の嫌なところはSNSで自分の気持ちが相手に伝わらないどころか、嫌っていないのに嫌われるというやるせなさである。たとえどんなに気持ち悪い顔をしていようが、一人のファンとして見ることはできなかったのか。正直私は被害者の女性に同情しないし、刺したファンは自分が好きだったのにそんなことするからそれに輪をかけて同情しない。つまり、その差に開きはあるもののどちらも悪いと思う。こうなった元凶はSNSというそんなSNSが嫌いだったりする。

誰と交流するかなんて人の勝手だし、干渉する物言いだから嫌われて当然。刺したファンも私も一緒。だけど・・・SNSで相手にされずに嫌われると察してしまうのは結構落ち込むものなのです。それこそ、顔が良くて才能があって素敵な性格でないとSNSで交流できないとあれば、そうやって人を差別するSNSが嫌いなのである。同じ趣味を持っていても必ずしもつながれないのがたいへん悔しくて堪えるのです。私は趣味を通じてSNSで交流して実際に出会って夜は焼き肉食ってその写真をアップしているTwitterをみると羨ましくて妬ましいです。「なんでこんなに仲良くできたのだろうか。私は出来ないのに」。

私がSNSで後悔することの最大の理由とはコミュ障は現実でもSNSでも孤独なんだなと。SNSで人と交流できるなんて大間違い。できるためには本人の器量がものをいう。これではその器量がない人間がSNSをやるのは自分で自分の首を絞めるようなもの。現実でも嫌われているからせめてネットの中だけでも好かれたいと思っていたのに何でネットでも嫌われなきゃいけないのだと。そうなると自分はなんてくだらない人間なのだと自己嫌悪に陥る。「交流したいと思う方から相手にされないというのが辛い。それで自分がいかに魅力のないくだらない人間なのかと感じてしまい自尊心が傷つく」という理由はSNSが嫌いな理由としてどのサイトでも紹介されてなかった。私だけなのだろうか、こんな理由でSNSが嫌いなんて・・・。

私は被害者と加害者がSNSに性格をモロ反映させてしまったことが事件に至る進行を加速させたのだと。両者ともSNSのデメリットを考えないで、相手の気持ちを考えられないで自分の赴くままSNSを使っていたのが事件の本質だと感じるのである。私は事件当初に加害者に一語半句でも同情するならば、それは被害者に一語半句でもいいから自分のファンだった男に同情してほしいことは、相手にされないと感じたときの失望感を、それを察して欲しかった。嫌いな相手には嫌いだという姿勢は相手を傷つけるということに思慮を深く持ってほしかった。だが後から思い直した。そんなのは相手がごく普通のファンの時であり、今回の加害者には通用しない綺麗ごとである(犯行が余りにも逸脱している故)。じゃあどうすれば刺されなくてすんだのだろうか? どうしても嫌いならば以下の方法をとればよかったのではないか。

・相手を見極める。所有欲、過剰反応、病的嫉妬、極端な献身と拒絶など情緒不安定がないか、あるいはどの程度か

・相手が危ないと思ったら遠ざかる。付き合いをやめる、相手の体面を傷つけず、かつ理性的に率直にきっぱりと告げる

・個人情報を守る。自宅住所、電話メールアドレス、SNSなどは公開しない

そんなことをするのは相手に屈したという屈辱を味わうので、嫌な思いに負けずに自分を貫く活動をしたとあればそれは間違いだったのだろう。こんな奴に活動を妨害されたくない、危害を加えられそうだからといって活動をとめるようなことは私のプライドが許さない。そんな気の強さがいけなかったのだろうか。時には相手から逃げなければならない時だってあるのではないだろうか。

この事件。被害者の気の強さでも加害者の異常な気質でもそれが引き金だとしても、そうさせたであろう、そうやって性格を歪ませたSNSが悪いのです。だから私はSNSが嫌いなのです。

俺は約束したからコミケに参加するね

今年の夏コミ(C90)で私に差し上げると約束していただいたお品を頂きに今年の冬コミ(C91)に一般参加しました。



手前に写るお菓子とカイロはもらったものだよ


「クリフさん(私のPN)よろしければお描きしますよ」とは、私は嬉しいというよりも正直恐縮でした。夏コミの時にお約束頂いたお品確かに受け取りました。本当にありがとうございます。

好き嫌いで語れば感情。その感情を否定する感情と否定するも理解しようとする感情。常に後者を選んできたが…

むかーし職場で女性にある相談を受けたことがあった。くだらない職場のごたごたであったが、相談した同僚の女性はお局というか年上の女性の上司から嫌われていたというのだ。それで私にどうすればよいのか。職場の人間関係でよくある話だ。私はこうやって答えた覚えがある。

「それは君が可愛いから単に嫉妬しているだけですよ」

棒読みよりも真顔で冷静に答えた。それで問題が解決したかというと、逆に面倒になった。私が、だ。

もし、女性に好かれたいというのであれば、何かしら悩みが吹き飛ぶくらいの相手が喜びそうな言葉をかけてあげることだと思う。回りくどく言うのではなく思ったことを直球で言い放てばいいだけであるので何ら難しい言葉とかそんなものは必要でないと今でも「この経験」から思う。ましてや自分がどれだけの人間か知らないのに、他人に偉そうに説教垂れることなんて節度のないというべきだろう。私はたいそ知ったかぶってその己の頭の良さを自慢するかのように言い放つ人間があまり好きではないというか嫌いだ。

私は人から相談を受けるような人間とは思えない。ロールシャッハテストを受けるような人間だからだ。それなのに何かしら話しかけられたりする。それに対して私は「私にはわかりかねます」。相手をからかっているとよく言われる。からかっているように聞こえるが本当に私にはわからないのだ。物事を最後の最後まで疑い、疑いが存在すること自体が正しくないのならば結局本当の答えは見つからない。言葉で示せば方法的懐疑(こういう単語を言い出す自分がハナにつく)というのか、結局は人間は感情で物事を語るのだからその感情が私は嫌いだったりする。何自分が正しいかその自信の根拠は自分が正しいと思う感情に過ぎない。感情は正しいも正しくないもすべて受け入れる。だから正しいのかどうかなど分かりっこない。私は死刑廃止におおむね賛成であり、死刑存続に懐疑的だ。その理由としては人を屠殺するように軽々しく「シネ」と言い放つ感情である。どこに死刑になるために生まれてきて気味の悪いロープに首を括られて首の骨を折って死ぬために子供を育てるそんな親がいるわけないだろに。人とは生まれてきたということは、その世に必要だから生まれてきたという。誰かに必要とされたから生まれてきた。それなのにそんな人間にいくら人を大量に殺しても死ねと言えるのは神以外になしえない。お前はそいつが生まれたときから人を殺すから死刑にしろとあらかじめ言い続けてきたのか。そうでないのであれば結果を知ったくらいでシネとは何事。それならば最初から人を殺す前にそいつに言え。人を殺すのも感情でそれは悪い感情。そしてシネというのも悪い感情。せめて軽々しく悪い感情を人前で口にしないでほしい。そんなこと言わなくてもシネと私も思う。ただ、どうか他人の命を軽々しく語らないでほしい。そういう発言を嫌う私の感情は正しくないだろうけど、私は正しいと思っている。死刑に賛成する感情も正しいということも受け入れている。では結局死刑制度の是非とは何なのか。結局感情である。感情は正しいか正しくないか絶対にわかれてしまう。感情で語れば絶対はない。なのに・・・

感情で正しいことであると決めつける人間がちらほら目に付く。私が嫌うこと。それは本当に正しいのかどうか、様々な意見があるにもかかわらず、それにもかかわらず正しいと言ってしまうその頭の良さである。そしてその頭の良さを誇りたいがために感情で人を傷つけたりする。そうとも知らず自分は頭良い人間だとして相手の気持ちを考えたりしない。頭が良ければ頭が悪い人間が本当に間違っているのか? いや、それが確かだと感じてるかのようなその驕り高ぶりというのが私が見てきた「頭いいと言われる人間」である。嫌いである。放つ言葉の中に頭の良さを周囲にわからせようとするならば虫唾が走る。もし、周囲に納得してもらいたければ、己の心の鍛錬を成すがされよ。

欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている

この言葉通りの人間であればいい。理路整然とされた論理的思考よりも相手に伝わる言葉とは人の心の良さが現れた言葉であるのではと。心が良ければ頭がよかろうが悪かろうが相手に伝えられる。その心の良さを手に入れる方法は他者の気持ちも考えることだと私は思う。私が言いたいことは優しくなれということである。自分が正しいと思っていても相手に伝わらなければお前の気持ちが優しくないからである。優しさがあれば厳しい言葉に対して相手は受け入れてくれる。表面的な言葉ではない。その言葉を発するときにどんな目を顔つきを相手の目を真剣に見つめ言葉に魂を宿せばどんな相手にも伝えられるだろうと信じている。それなのに、こんな相手の顔も見れないネットなんて本心がわからないのだからいい加減である。相手の顔を見なければどんなひどいことも正しいかのように言うことができる人間がいるネットが嫌い。そんな人間は優しくないし、優しいふりをしているのかもしれない。実際人と出会ってネットの言葉を言い放つことができるかはたかが知れている。だから私はネットの論調とかが大嫌いである。面と向かって話さなければ伝わらないからである。

私はネットでのやり取りが苦手なのである。もちろんコレも絶対正しいことを言っていないと断言する。何故ならコレは感情で語っているから。じゃあ何で正しいと思えないことをグチグチと言い続けようとするのか。早くこんなこと言わなくてもいいような心を持ちたいものだけど、なかなか治りそうにない。ブログをやめてしまえる方々が羨ましい。私の自己愛性人格障害(「その」医者からの診断済み)がこのブログの存在を示している。

成宮寛貴さんの引退についてネットの意見を聞いてみた。正しいと思う意見もそれと違う意見も私は理解しようと。ただ、どうしても、どうしてもひどいと思う言葉を目にしたとき、その時がネットをやっていて一番後悔するときである。私の考えが甘すぎるのだろうか? それとも社会全体に厳しい言動を求められる今の時代なのだろうか? ああわたしにはわから
ない。

優秀な部下の不手際は寛容な上司や周りがそれを補う

私はサッカーが好きです。野球も好きですがサッカーのほうが好きです。何故ならサッカーのほうがスピード感があるから。まあ、音楽もテンポが速いものを好むし。サッカーの笛で試合の流れが止まるのはスタッカートとしてみている。そもそもサッカーには流れがあり、それが楽曲在るにさも似たり。

2016年のJリーグは鹿島が優勝した。この優勝の経緯とかシステムとかはあらかた知られているとするのであえて語らず。この鹿島の優勝に金崎選手がまず語られると思う。私は金崎選手が好きです。そうですね。今年のある出来事がありましたね。ある試合で金崎選手が石井監督に交代を告げられた時に怒りをあらわにして監督に反抗しましたね。それをハリルホジッチ日本代表監督の心証を悪くした。アレ、私はむしろ金崎選手の怒りを評価してました。監督の言うことを聞かない問題児。先生の言うことを聞かない問題児とは違いますよ。何故ならあれって要はサッカーの情熱、勝つんだ、活躍するんだという気持ちの裏返しがあの監督への反発ですからです。自分が活躍したいんだという気持ちを折られる交代というのであれば私は金崎選手の怒りは察しがたくはない。ああいう激しいような気性の選手ってなんだか惹かれるんですね。

元野球選手の仁志が著書でこんなこと言ってたな。

「確かに自分の成績がふがいなかったとしても、その結果だけしか見ないで相手にどうしていいかをアドバイスもなしに捨てるように扱うのは、納得できないという気持ちがわいてきてしまう。まず、自分が何故ダメなのかということを具体的に話してほしい。そのうえで自分の意見を言える立場を作り自分を納得させたうえで、判断を下してほしい」(意訳込み)

仁志は原監督に干されてたもんな。これはもしかしたら原監督に対しての意見状だろうか。私はこの二人の性格が合わなかったこが残念でならない。けれども…。仁志は長嶋監督の時代に自身が不振の時には長嶋監督から「仁志最近元気ないな。仁志が打たないとジャイアンツが元気なくなっちゃうよ」と励まされ、その言葉で救われたとどっかのコラムかなんかで読んだ気がする。単に結果だけで判断する監督とこうやって励ます監督、どちらに人がついていくかは一目瞭然ではないだろうか。勝つための厳しさというものをはき違えているその非情さが果たして勝つために必要とされることなのかという疑問を私はよく抱く。何もワザと手抜きをしていない、努力しているつもりでも結果が出てこない。結果が出てないけど努力はしている。その努力だけでも評価してもよいはずなのに、その努力さえも結果の前ではなかったことにしてしまうのは相手のプライドを傷つけるもので勝つためのあえて厳しさとは別なものだと思います。

私が仁志の話を持ち出して何を言いたかったのかわかっていただければ幸いです。選手がプレー以外の場所で問題を起こすのであれば厳しく叱られてそれで反抗するようでは強い態度が必要になってきます。しかし、懸命にプレーしているその「時」に監督に反抗するのはお互いの気持ちのかけ違いから生じるものであり、もう一度お互い話し合って解決すればいいだけであり、周りが非難するものではないし、非難ではなく相手の気持ちを分かってあげていただきたいと常に思うことです。金崎選手は自分がふがいないから今に、今そのふがいなさを次のプレーで返上してやるという熱く強い気持ちがあったとする。その気持ちを達成する間もなく交代という冷や水を浴びせられて面目を潰された。自分の気持ちに反する態度を取られたことに対しての怒り。もちろん監督の指示に従うのも立派な選手に求められることで、感情をコントロールできなければ小物としてバカにされてしかるべきである。サッカーは戦いである。戦いで軍法を破れば存分に報いを受け、厳しい軍法こそが軍を強くする。監督の指示は軍法である。それを破る行為とあってはチームの統率が乱れる。そう考えたら金崎選手の態度は打ち首ものだろうか。しかし私はこう考えている。

人には心がある。無情ではいられないと

私は職場で人に対して甘いと言われるのはこういう気持ちがあるからだろう。でも、私はそれが正しいんだと。その後金崎選手はどうだろうか。監督に謝罪して浦和との戦いで2ゴールを挙げて大会MVPになった。あの態度が悪い選手が何でMVPになれたのか。石井監督の、その人格が立派だったからの一言に尽きる。これでわかっただろう。今回のブログタイトルの意味が。

暗算ぐらいしか取りえのない優秀なのかもわからない私は職場では問題となった金崎選手のような振る舞いをして周りを困らせてきた。私なりに仕事で努力しているつもりでも、相手の意見を待たずに独断で裁量を行使することへの周りの反対に激怒したことがある。だったら辞めてやるよと幾度と脅してきた私を救ったのが上司、上司と同僚だった。なんでも「俺は病気だから」と開き直る私に上司や周りは理解を示してくれる。何で扱いずらい私をクビにしないのかと尋ねたら「君がいてくれないと困る」と上司に言われた。「その困るというのは会社にとってか?」と私が返したら「仲間がいなくなると寂しい。だから困る」と言われたときは涙がこぼれた(仕事のキツさに文句はあるけどね♪)。

どうやって人と人とを結び付けて成功に導くか。私はこの浦和レッズ鹿島アントラーズの試合を見て改めて考えてみた次第です。

とらドラ!の最終回はどのアニメの最終回よりも好き

ここのところ昔の漫画やアニメを見てばかりいる。
何故だか知らないが、12月に近づくにつれて何故だかとらドラ!を見たくなった。

紅葉に 照らされ秋の 成熟も 終わりをつげるか 雪化粧

淡白で月並下手なうたかもしれないが、数日前に11月としては何十年かぶりに東京に雪が降った。その雪を見て昔のことを思い出したのだが、それがとらドラ!だったのはそれほど私の見てきたアニメの中で印象深いものなのだろうか。アニメとらドラ!の雪がふるシーン、雪が降るというのは寒さの象徴であるが、とらドラ!に至っては孤愁、哀感に置き換わり、愛というものの美しさを伝えているかのようであり…。このアニメがどんなのか説明するのもだるいのだがラブコメアニメの中でも「ラブコメ五常、白眉もっとも良し」というように私の「なか」では大変評価が高いです。この手のアニメは学園日常モノアニメを含めて、ただたんに登場人物が可愛ければストーリーなんてどうでもいいというのが大方で数あるアニメのジャンルの中でもストーリーに関して言えば評価が低いほうですが(ひだまりスケッチに始まり最近(?)はきんモザごちうさとかはキャラが可愛いから好きで内容までは好きになれない)、私のチンケな感想としてはキャラよりもストーリーを重視してる数少ないアニメです。

私がこのとらドラを評価する訳は最終回にある。くどく言うつもりはない(どうせ後からくどくなるけど)。この最終回が

駆け落ちだからだ。

正直舞姫と同等のレベルとガチで私は見ている。あの名作と比べるのはたぶん私ぐらいだろう。昔の純愛文学小説の影響も大概だが、私は駆け落ちというものに も の す ご い あ こ が れ を い だ い て い る 。私が求める恋愛観を形成するプラトニックな恋愛概念の根底とは駆け落ちであると説き、それまでの恋愛を支えてきたであろう社会通念からの解脱する其の様が究極の愛である。意味不明だがなるべくこの説明で察してほしい。あまり言葉を並べるのもこれ以上アホ晒したくないので。駆け落ちは二人の愛が確かなものでないと務まらず、家族、友人をも見捨てて二人だけの世界に浸るその世界観がどれほど私の羨望の的か。私は、私は、この、このような恋愛が、恋愛がしたかった。今死んで生まれ変われるものならば絶対に今度こそ駆け落ちしてみる。ああこの人頭おかしいんだな。キモいのはしょうがない。

とらドラ!の主人公とヒロインが最初は仲があんまよくなくてもふとしたきっかけで距離が縮まり、ある時本当の気持ちになるというストーリーとはラブコメの王道でしょうか。それに目新しさは感じられないが、形式美でもある。終盤の回りくどい感情表現がまどろっこしいと感じるものだが、結局は駆け落ちで終わるのが私が今でも思い出す所以なのでしょう。

余談として私はアニメというものが儚いものであると感じてしまうことがある。あれほど人気だったアニメも時とともにいつかは忘れていってしまう。ハルヒらきすた京アニを筆頭に今でもその威光が過去のものとして語られるとしたならば儚いものです。世代を通じて語り継がれるアニメとそうでないアニメとの差は何なのでしょうか? ドラやクレしん、まるこ、サザエ。このアニメと先にあげたアニメとの違いが何なのかは私でもうっすらわかっているが。それでもとらドラ!なんかは単発的に終わってしまえども「昔の威光今いずこ」として語らずに昔話にできるとしたら、私はその昔話とやらが好きだからこうして語ることで思いを馳せることができて、それはそれで小さな幸せかもしれない。あと説教するが、昔好きだったアニメがあっても今はそのアニメを忘れてしまうようでは寂しすぎるんじゃないかな? 嫌いになったなら別として何で好きだったアニメを今は別なアニメが好きになりどうでもよくなってしまうのであれば、本当にそのアニメが好きだったと言えるのかな、とか。

小説でもドラマでもないアニメごときが私の心を。それも私の憧れの恋愛観というものをとらドラ!は、あの若さで駆け落ちとは。私は心底参りました!!