寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

平和という名の落とし穴。争いの記憶も「のど元過ぎれば熱さ忘れる」。だからアメリカは心許せないところがある

普段政治や社会の出来事に口を挟まないある方でも今日のアメリカ大統領選の結果について言及している。それだけこのニュースは話題性が高かったのか。だから私もある程度言及しておいてもいいのだろうか。私はアメリカという国があまり好きではないです。1853年の黒船来航からもわかる通り相手に対して強引にことを強要するその外交姿勢が嫌いなのです。靖国参拝中韓は口で言うだけで終わりますが、アメリカのしてきたことはほぼ外圧内政干渉ですし、今でもそうです。「外人怒らすと後が怖いよ」と無言の圧力をかけてくることが殊更私は嫌なのです。それとなんといっても広島長崎に原爆を落として東京を焼け野原にして艦載機グラマンの機銃掃射で田舎の女子供をうち殺し、地方都市までも空襲かけた。もはや戦局はミッドウェーで決着がついてあとは日本軍の拠点を落としていけばいい。つまり、戦うのは日本兵なのに、それなのに何故敵の兵士でもないただの民間人を殺してきたのか、それを考えると私は大変悔しくて悲しいです。

戦争が悲惨なのは戦争で民間人が死ぬからです。

本来民間人のような戦争に参加していない人間を殺してはいけないのです。戦争では敵の兵士を殺せばいいのです。それがアメリカはできなかった。そのできなかったアメリカが、私は嫌いなのです。あのビンラディンが「なぜ日本は原爆を落とされたのにアメリカと同盟関係でいるのか」と疑問視していましたが私もその通りだと今なお思っています。戦後日本は、もしかしたら赤化してしまい高度経済成長もままらなかったのではと思えば、アメリカと同盟したことは先見の明に察するあまりあります。しかし、それでも戦争で兵士以外の日本人を殺してきたアメリカに私は今でも嫌悪しています。日本人は昔のことは水に流すと言われる民族です。中韓のようにいつまでも戦争の根を忘れないわけではありません。だから中韓反日意識に最近の日本人は「いい加減いつまでも昔のことを」とあきれ返り、そのことに対して日本人も反発するのです。確かにいつまでも昔のことを根に持たれるとこちらとしても気分が悪いです。だったらばそれを口にしなければいいのです。つき合い上黙っていればいいのです。しかし、心に秘めた嫌悪感というものはいつまでも消えることはありません。口に出さないで、心で思っていればいいのではないでしょうか? だから私は本音と建て前を使い分けてアメリカという国を見てきました。

以上をもちましてアメリカという国が心で嫌悪しているので大統領選について考えたことはありません。結果を知ってそのことについて語るのは、今まで関心を持ってこなかった人間が今更語るとは虫が良すぎます。語るにしても最初から物事を把握していなければその語る姿勢という物自体が懐疑的であり、誠実さが欠如しています。それに正直どちらが大統領になっても私のアメリカに対する嫌悪感というのは無くならないです。

それでも日本としては外交戦略にアメリカという存在があまりにも大きすぎています。いまだに日本はアメリカに依存していかなければ国益に結びつかないのは昔からも今でも変わらないのはバカな私でも了承しています。その、本当は、そのことについてとても悔しくて日本の独立性が感じられなくて本当に辛いことなのですが、本音と建て前を使い分けるとしたら、アメリカは日本にとって必要不可欠であり頼れる同盟国として今後足並みをそろえていかなければなりません。ただ、新安保法が気になります。あの大統領は昔の馬力バカなアメリカを象徴しているかのようで他国に戦争吹っ掛ける気がしてなりません。もしそれで日本が巻き込まれるとしたら・・・。そしたら私は自衛隊に入隊して戦争で死にたいです。どうせ役立たずの人間だし、それに戦争で死ねるなんて病気で死ぬことと比べたら大変な栄誉です。何せ国に殉じることができるのですから、それこそ家系の名誉たるものです。しかし果たして私みたいな痩せこけた人間でも自衛隊に入れるかそこだけが心配ですが。

渋谷ハロウィンの馬鹿騒ぎがとてもうらやましい。

回りくどく言いたくないので。ああいう馬鹿騒ぎは社会の閉塞感からなる一種の反動だと思います。

思えば、ニュースを見て何が楽しいのでしょうか? 暗い、殺伐、世知辛い世の中は今なお変わりません。そんなんだから、若者は社会問題なんて考えるよりも、もっと楽しいことに目が行きがちになり、その目の前に現れた光明が渋谷ハロウィンだったのです。自分の頭で考えて解決策を模索するのは誰かに任せて、自分は楽しみたい。私も今の世相を論じることは大変苦手です。なぜなら、それが難しく、頭痛くなるから。現実からの逃避の結果が、あの渋谷ハロウィンだったのではないでしょうか?

今の若者は少なからずストレスを抱えている。そのはけ口があってもいいじゃないか? いつまでも解決しない社会問題に頭を悩ますなんてバカバカしいですし、生きていくことの僅かながらの苦痛を感じれば、今の若者は心が繊細です。祭は己の活力を蘇らせるモノ。それがたとえ屈折した形になってしまった西洋の風習でも、騒いでストレス発散。

「大局を見失いそして逃避する。何をそんなに馬鹿騒ぎをする。恥を知れ愚民共!」と嘆く事なかれ。だって社会がクソつまんねーんだもんな。毎日クソみたいなニュースに若者は嫌気がさしてるんだよ。何を言っても執行権がなければ変わらない政治。あれやこれやの懲りない不正「またかよ、田代」。いじめ、虐待の陰湿日本人。下らない理由で人を殺して何になると言いたくなる殺人。聞いてて情けなくなってくる交通事故。ピーピーウンコならぬTPPという名の外圧、無駄に元気な老人にあてる社会保障費を若者に捻出させ、貧乏化して結婚もままならないその若者。くだらないおやじギャグのように繰り返される豊洲盛り土土人基地問題。・・・いつまでそんな話題に付き合わせるつもりなんだろうか。そんなんだから若者にソッポむかれるんだよ。社会問題? そんなもん笑っておけ。

ハロウィーンバカ騒ぎ。それこそが、若者の総意であると感じます。帝政ローマの治世には「民衆にパンとサーカスを与えればよい」。それすなわち、国民に趣向物を与えれといて、政治の不満を逸らす意図が示されている。今の日本社会に当てはまるかもしれませんが、私は望むところです。それに仏教の戒律を取っ払う最澄がいるくらいの自由過ぎる日本の宗教感の前にハロウィンの本来の風習もクソもありません。この国は宗教的ニュアンスが少ないのです。日本のハロウィンに宗教を問うのがナンセンス。ごみなんでいくらでも散らかしても構わん。飯を食ったらうんこが出るのが当たり前のようにごみが出るのも当たり前だろうに何を嘆いているんだと。秩序無視の政治を思えば公共秩序なんて無視しても構わないのだからごみ問題で水を差すなって。

私は常々悩みを抱えている。「ああ私にはわからない」と。

そう感じたらとりあえず騒いでみるのもいいのかもしれない

ひきこもりについてだが・・・

毎日毎日くだらないと思いながら生活している。そうやってくだらないと感じてしまうのは世にはびこる不愉快なニュースを知ってしまったがためである。

大阪でひきこもりと思われる男性が刃物で人を刺した。

もういい加減これらの解決策はないのだろうか? 政府は解決しようとしない。何故なら政府とは常に強者の立場であり、強者の都合のいいように世の中を回したがるからだ。ひきこもりみたいな弱者を相手にするくらいなら、金になりそうなことに無心する。強者とは金を持つものであり、強者として存在したいがために、強者の資格である金を持つものに対してはそれなりの働きをするが、弱者と呼ばれる人たちには(その弱者とは想像に難くない)、弱者を助けようとしても金にならないから助けない。

馬鹿な!!

残念ながら日本の政治はこれなのである。私が政治に失望して遊仙詩のように振る舞いたいと願うのもこうした弱者に対してはあまりにも人非人な血の通わないその面を持つ政治家達を見てきたからである。王安石(1021~86)という中国北宋の政治家がいた。王安石は傾いた国の財政、軍事を立て直すべく「新法」という政策を打ち出した。新法とはいわば弱者を豊かにしていき、それで国力を押し上げていこうという、弱者救済の性質を持ち合わせていた。「衣食足りて栄辱を知る」とは春秋時代斉の大宰相菅仲の言葉であり、人は経済的に充足してこそ礼儀、節操を知るとされる。いくら口で綺麗ごとを放っても貧乏人の弱者とは生活に余裕がない。口で言うよりもまずは俺たち弱者を豊かにしてみろ。それで初めて国が豊かになったと決定づけられる。王安石の政治信念は正にこれである。しかし、図らずも新法は地主、大商人や特権官僚の既得利益を脅かすものであり、司馬光ら保守層の大反発を招いた。改革とは旧態依存と潰しあいであり、大変な手間と時間と争いを要するものとはいえ、一時的な損得勘定からなる反対。下の者から豊かにしていき、国力を持ちなおそうとするというのは絵空事なのであろうか。

今の政治情勢と照らし合わせると、王安石の民の目線に立ちながらの政治姿勢は今、現代の政治に求められるべくものであると断固としていえる。しかしそれがかなわない。何故なら弱者を豊かにするというのは政府の国益には結びつかない。いうなれば無駄であり、金にもならないからしないだけである。王安石の時代と今の時代は一緒なのである。金にならないことは政府は一切しないのである。だからひきこもり救済なんて口先だけで何もソレらしい活動なんてしないでNPOに丸投げしてそれを政府は「一応対策を講じている」としていて、NPOの行いを政府の行いだと国民に誤認識させようとしている。もしひきこもりが政府に大金を渡すならば政府はひきこもりを助ける。しかしひきこもりはそんなことはしない。だから助けないし、助ける価値もない。弱者は弱者らしく弱者で振る舞い、強者に頼ろうとするな。弱者を助けると強者達にそんな奴助ける必要はないと怒られるから政府は弱者を助けない。何も誇張ではない。正直に話しているだけだ。一応反論もある。安易に弱者を助けようとすると、助けてもらえるからと味を占めて自ら弱者になろうとするその社会機能の停滞を恐れて政府は弱者を救済しないのだろうと(働こうとせずに安易に生活保護に頼る生活保護不正受給等の問題)。

しかし、それはただ単に怠け者のことである。ひきこもりは単に怠け者ではない。だから、救済が必要なのである。小田晋、作田明二人の編集からなる「心の病の現代1 ニートひきこもり PTSDトーカー」という本を改めて見直してみた。二人の著者を知らないのはもったいない。小田晋氏はかつての神戸連続児童殺傷事件についてなぜその犯行に至ったのか様々な言論人はその答えを導き出せぬ中、唯一一瞬にして快楽殺人、性的サディズムと心底を見抜いた。余談だが柳美里氏は少年Aの犯行文を天才の文章と絶賛して、小田氏の快楽殺人者という主張に「人の個性を精神病などと片づけるその人間性があまりにも哀れ」と過激に言い放ったのだが(うろ覚えですが、確か批判していた)。作田明氏はメディアでも露出が高かったから言うことはない。心理学、精神医学という気難しそうな人物でなく、気さくな人柄がとても印象的だった。

この著書はPTSDとストーカーとニートひきこもりについて問う三部構成で成り立っているが、おおよそニートひきこもりに対するウエートが占められているので残り二つは言い方は悪いがおまけみたいなものである。その証拠に最初のニートひきこもりに対する見解を綴っているのが小田氏であり、著書の表紙のニートひきこもりのフォントの大きさを見れば、これがニートひきこもりの本であるという捉え方をしても構わないと思う。もうだらだらと語るのもやるせないので簡単に内容説明。

結論から言うとニートとひきこもりは精神病であり、病院にぶち込まなければ問題は解決しないとしている。小田氏はニートひきこもりを個々の個性として、新たな生活スタイルとして、またはかわいそうな弱者として社会で認めてあげなければいけないという理解を示してあげるということを極度に嫌っている。言葉を発すればいつでも「精神病なのだから治療が必要」だとする強固な信念が存在している。ことにリベラル的な考えは到底受け入れないし、かわいそうとニートひきこもりを庇う者たちを「全共闘くずれ」と称している。ニートひきこもりは社会の体制に属さないその反体制的なサマが、反社会的な思想を持つ全共闘世代がそんなニートを好意的に支持するとしたらば同じ穴の狢で社会から指摘されてしかるべきであるとしているからだ。ニートひきこもりに対して安易に同情は禁物。何故ならそんな奴らを社会は受け入れないし(ニートひきこもりの就職の難しさが主)、現実を教えず保護的な議論は偽善であるとこれしか言わない。

私の率直な感想としては半分反対で半分はおおよそ納得できている。まずその、ニートひきこもりは精神病と決めつけるのが大変感じが悪い。いくら著名な方であっても腹に据えかねる。その精神病とする根拠がこれまた見事な正論であるから余計に憤りを感じる。ニートひきこもりを冷静に多角的な側面からとらえると、父権の不在(エディプスコンプレックス)、男性特有の自己現実妄想、引きこもりの突発型犯罪の起因、人格障害(境界性人格障害自己愛性人格障害)などという文言に対してニートひきこもりの反論の余地がない。それでいて精神病で病院にぶち込むのが相応と言われれば私は正直読んでいてぐうの音も出なかった。人間とは図星を言われると怒りだすとはまさにこのことで怒りたくなる。私はニートひきこもりに対してリベラル的な感情を抱き、ニートひきこもりは悪くないという立場であり、いわば全共闘くずれだからである。この正論は鋭い。鋭いがゆえに、人の心も鋭さで傷つけてしまうのではないか? ニートひきこもりという弱者にとっての逃げ場が無くなるもので、これを当人に聞かせてしまうとしんどくなり、落ち込んでしまうだろう。

しかも、ニートひきこもりを精神病と言い放つのは人間としての尊厳を、人権を省みない無責任な発言であり、その言葉には人としての温かみがない。法とは非情なもの(貧乏で飯が買えず、腹が減って食いものを万引きしても同情されないで法で裁かれる等)であると捉えるかのようにニートひきこもりに対しても非情になれとは。法は人ではないから非情であっても構わない。しかし、ニートひきこもりは人である。もう少し優しい言葉をかけて、厳しさの中にも人としてのぬくもりを感じさせる文言があってもいいのに、この著書にはそんな批判には言い訳がましく非情を貫いているのである。ある日、元気だった少年が中学に入りいじめをうけ、ひきこもりになってしまった。これを果たして精神病だと呼べるのだろうか。後天的なもので言うにしても、こんなの人の気持ちの変化であり、精神病でないと断じていえる。いじめを受けてひきこもりになれば「お前は精神病だ」と言われれば「自分が悪いんだな」と回避性パーソナリ・・・とにかく、自罰的ストレスで余計当人を追い詰めてしまうのではないか。だから私はニートひきこもりに対して精神病なんて口が裂けても言えない。そんなのは2ちゃんのちょっと言動が人と異なっていたら「キチガイ」と無責任に書き込むソレである。第一、精神病だからと入院してもそれで治るとは限らない。有りもしない精神病と誤診されて、ベッドにベルトで縛り付けられて、むちゃくちゃな投薬されて、気が狂いだして、最後には医者に首の骨を折られて殺された。製薬会社と医師が患者の治療費を奪い取るために金づるとして犠牲になったある方をテレビで放映していたことは誰かしら知っていてほしい。はっきり言います。精神病じゃないのに、ちょっとした心の変化なのに、それを精神病と診断されて薬づけにされて余計おかしくなった人を見てきています。ガン患者にその人にとっては効きもしないのに抗がん剤売りつけて患者から死ぬまで金を巻き上げる行為が他の医療現場でも見え隠れしている気がするのです。私も精神病です。精神病であるが、やはり精神病と他人から言われるのは本当につらいのです。だから、あえてこちらから精神病と自虐的に振る舞うのですが、やはり精神病も個性として捉えて邪険に扱わないで欲しいというのが本音です。

このことが先の著書に対する半分反対の意見であり、今度は半分おおよそ納得する点を一応伝える。小田氏はニートひきこもり問題をたんなる労働力不足として把握するのではなく、職業訓練や支援は不要。そうではなくて、真に必要とするのはニートひきこもりの根底にある「心の病」への対策であると説いている。これはまさにその通りであると。私の先に示した王安石うんぬんの語りに至る弱者救済をとはこのことであると。また、ひきこもりを理解しようというのは、現代社会に適応することを否定する価値観であり、ひきこもりの人格障害を医療の対象から外し、任意でない入院を避ける考えであるとして、結果の重大事件の発端となることを許してしまうとされるという。これは全くその通りである。ひきこもりの犯罪はひきこもりというどうせクソの役にも立たない奴に医療の手を差し伸べることもないという歪んだ資本原理主義に由来する。金にならない奴は助けない。助けなかったから犯罪をする。全くバカである。ストーカー殺人とは医者に擦り付けてれば、隔離しとけば防げたかもしれない事例が多々ある、というか防げた。警察の後手とは単にメンドクサイ、金にもならないボランティアと決め込み被害者を無視する。これは物の価値は金であるという浅ましい人間の醜くて愚かな側面が警察のみならず社会に反映してるからである。金にならなければ助けない。その助けなかった先に何が待っていたか。いい加減学習してほしい。日本人は猿以下だと諸外国からバカにされてほしい。いわば、精神病と決めつけるのは心情的に許せないが、実害が出てきそうならばそうは言ってられない。オブラートに包みながらその心を尊重するにしても、ある程度の厳しさも必要になるかもしれない。綺麗ごとで片づけられないならば病院で治療してもらう。それも慈悲というか情けだろう。私も精神科に通うことはものすごく抵抗があった。しかし、これでは周りに迷惑かけてしまう。キチガイは精神病院へぶち込めというのではなく、もう少しデリカシーのあるというか、単に温かい心を考えて考えてそれを勧めていってほしい。

それと納得する点に至る特称する文言があった。「冒険教育」から「キャンプ教育」でニートひきこもりを立ち直らせるという小田氏の考え方である。冒険教育と野外活動で困難やストレスを経験させていき、そこに克服、感動という感情を呼び込ませてひきこもりの自立を促そうという治療プログラムである。それに代わるキャンプ教育とは言葉の通り、ひきひもりにキャンプを体験させるというもの。えっ、そんなことかと感じたが、効果はかなりのものがあるらしい。このようなニートひきこもりは病院へという誰でもわかりそうな回答のほかに別の対策をあげていたのはこれが著書の中ではこれだけである。これだけであるが、あるだけまし。病院へぶち込めというよりは人間的温かみがある。それにニートひきこもりに「自分から立ち上がってくれるだろうという甘い考えは捨てて欲しい。そんなのは現実逃避」として、親が何らかのアクションを示さなければ子供は絶対に変わらないと締めくっている。やはり結局は親が味方になってあげなければならない。子供を腫物のように触ろうとしないのは全くもって間違いであり、問題解決にならず現実逃避だと。親。子の悩みは親が共有してあげる。それ以外に何があるのか。私が最も言いたいことの一つとしてニートひきこもりを解決するには身近なすぐそばにいる、解決の近道は親の励ましであるという思いだ。そもそも子がこんなになるのはすべて親の責任。教育が悪いんだから、もし子がそんなになったら親は責任を取る、取らざる負えない。ニートひきこもりの事件の直接的原因は親の教育の不備である。これは私の信条とともに、様々な書籍を読んできた知識の結論からなるものである。

もう一度いう。親が何とかしろ。してみろ。そうでなければその子はいつまでもいつまでも死ぬまでそうしているのだから。

この著書でようやくまともな個所が読み取れてホッとした。正直この小田氏の綴る著書は私の中では賛同するものではありません。あまりにも正論が鋭すぎる。大人のひきこもりをどう解決するか? 著書の中では「はっきりと言おう。三十代を過ぎても「ひきこもり」がつづいた場合、入院治療、すなわち閉鎖病棟への入院を考えたほうがいい。入院して治療すれば悪化することはまずない。家族にとっても本人にとってもいいことづくめである」(82p16行から引用)と示すのだがこれは非の打ちどころがなく、妥協点がなく、研ぎ澄まされている。ゆえに手厳しいのである。確かにその通りであるし、私もそうだと感じるのではなく、そうであると納得したい。されども、厳しすぎて人のぬくもりを感じられなくて嫌なのである。これはそれぞれ個々の感性が生ずるものであり、どうしようもない。それに全共闘という政治用語を著書の中で翳すのもいただけない。政治思想と心の病とは別関係であり、自分と考えが異なる人(吉本隆明氏、芹沢俊介氏)が自分と考えが異なる思想を持っているから否定するのは物事に対して分別がついていない。小田氏はガチガチの保守論客(ネトウヨに至っては断固否定的で毛嫌いしているが)だからリベラル左翼的発想が嫌いなのはわかっているが、その左翼らの言い分に果たして間違いだと言える根拠はあるのだろうか。政治思想のみならず左翼の心理学、精神医学見地というのは否定しなければならないのだろうか。それほど左翼の考え方とは間違ったものなのだろうかと。これ以上は問い詰めても仕方がない。むしろ、それほど決して揺らがない信念をもって自分は正しいという目が醒めるような正論が私には眩しすぎたに過ぎないのだから。それに小田氏もネットで友達を作り、ひきこもりを脱却させるという手段に懐疑的ながらもある程度は理解を示している点からも頑固で融通の利かない話の通じないどこかのソレとは違うし、考え方の違いでいざこざが起こるのはくだらないので、もうそれくらいにしておこう。

さて、長々と書き綴っていた気がする。ニートひきこもりの事件に対して我々はどうしたらよいのだろうか。小田氏は早いうちにひきこもりの芽を摘み、病院に入院させる。いわば医療ケアをしてあげるとしている。私の考えはそれに折衷案を加える。医療ケアとともに本人の人権を尊重して優しく接してあげる。人に備わる優しさでニートひきこもりを正していこうと。私は人の優しさが他者を救うものだと信じている。また、ニートひきこもりを救うのは医者ではない。医者は弱者でないのだから(社会的地位があり高所得者だから)弱者の気持ちがわからないのではないか。ならば、弱者の気持ちがわかる強者を求めても、そんな奴政界にはいない。結局弱者を救うことができるのは同じ弱者だと思う。弱者の気持ちは弱者にしかわからない。でもその弱者は弱者ゆえに弱くて弱者の力にはなれない。私も精神病のくせして働いているから弱者の味方をしたくても、自分が可愛いから仕事を辞めてまで付き合うことができない、ニートひきこもりに対して。自分の人生を棒に振ってまでニートひきこもりを助けて、助けられなかったら自分も死ぬという自己犠牲の精神を持った人でないとニートひきこもりは助けられないだろう。そんな人間果たしているのか。いない。だからニートひきこもり問題が今なお続くのであろうか。病院に入れてもそんなの医療費の無駄だという薄情物が日本にいる限り、この問題も解決しないだろうし、私も薄情物で口先だけで何も行動しようとしない。ならば黙ってろというが、いつもひきこもりの事件が起こるたびに同じ言われようだから、いい加減にしてくれという気持ちでこんなこと言ってる。私も頭わるいから見当違いなこと言ってると自覚するし、そうやって予防線張るくらいの自信のなさだ。

どうすればニートひきこもり問題は解決するだろうか。

小田氏は社会病理でありもはや個人の問題ではないとしている。

社会にはびこっている狭い価値観に振り回されているだけでなく、口先だけで行動しなくてもいいから、もう少し深く考えてみてみたらどうだろうか。ニートひきこもりを無視するよりは情がある行いだと思うのだが。



カリオストロの城は私が死ぬまでいい映画と言い続けることができる

則闕 ラピュタ

一位 カリオストロの城

二位 オトナ帝国の野望(クレしん)

三位 ナウシカ

四位 鉄人兵団(ドラえもん)

五位 時をかける少女

六位 新訳紅桜篇(銀魂)

私が劇場アニメに順位をつけるとしたらこう。順位とか序列で語るのはあまり好きではないのですが、それに嘘をついてしまうほどに宮崎駿は天才であると断言する。というか確定してるのか。上に挙げた七つのうちの三つが宮崎駿の作品。俗人がおのおのの作品に順位をつけるのは不敬罪かつ身の程知らずと言われてしまってもいいが、そうでもしないとどうこの映画を伝えるのか、過去の名作と比べての相対主義を使い、それでいて絶対主義をもって素晴らしいと結論つける。これしか私はカリオストロの城になんていえばいいのかわからん。

ちなみに君の名は。を順位でつけるとしたら十何位後半でしょうか。私はあの映画の若さに一目ぼれしただけで、ストーリーというかシナリオまでは評価してません。37年に経とうとしてもラピュタは別として、いまだにカリオストロの城を超える作品に出合えていないのです。カリオストロの城は一貫してストーリーが和氏の璧なのです。どこがそんなにいいのかは、私は心打たれるものを見てしまうとアホになり(もとからアホだが)なにも言えなくなるのです。ただ一つ言えるのは言葉に言い表せないというのは素晴らしいものを見てしまったときにのみ発生すると。

わからん、なんでこのカリオストロの城はこれほどのものなのか。昔ブログでこんなことかいてた。

ルパン三世カリオストロの城」は各界(?)では不動の人気を持ちましょうか。宮崎駿監督が若かりし頃の作品ですが、ホント「なんて気持ちのいい劇場アニメ」ですね。なぜか? それはルパンが、がんばっているからです。がんばっているルパンの姿をみているから見終わった後に気持ちいいのです。あまり大作にどこが好きかと聞かれてもうまく答えない、もしくは答えるのが野暮。いい作品は単純に「いい作品」と思うのです。ただ、中にはこんな意見もあります。「あれは宮崎監督のルパンで本来のルパンとは違う。ルパンはあんな義賊風上でない」。この意見にはもっともである。ルパンはもっと悪い奴というか、ルパンの優しすぎる面が乳臭い。「俺みたいに薄汚れちゃいけないんだよ」と終盤でルパンがクラリスに語るシーン。あれはたしかにルパンらしくない。話の流れとはいえ、自分の行いをプライドとして生きているソレを、自分を否定するような自虐はハードボイルドなイメージが崩れちゃう。・・・とはいうもの、あれは宮崎監督が生み出したルパンだといえば、それはそれで面白いから私は原理主義ではない。お宝が古代ローマの遺跡なんて壮大でロマンチックであるし、いろいろな仕掛けや部屋などが西欧の城郭として注意深く見ていくと、日本にはない珍しい建築物として見られて、そこが実に面白い。西欧色がよく出て、それでいて、地下深くの骸骨いっぱいはグリム童話的で怖ろしさがありこれも西洋チックで異国情緒あふれてる(?)。そういった描写が素敵です。それよりもこの作品が面白いのはルパンががんばっているからですよ。うんうん。

大したこと言えないのは今も昔も変わらない。もう少しオタ臭くてもいいからごちゃごちゃと語れればいいんだけど、私にはそれほどの頭がない。口惜しや。

私がカリオストロの城のシーンの中で最も好きなのが、ルパンがクラリスを助けようとした際に機関銃で撃たれてとっつぁんと不二子に助けられて次元五右衛門庭師の老人に介抱されてドカ食いして気持ち悪くなって寝てたらルパンが起きだして語りだす回想。ルパンが若いときに偽金ゴート札の謎を知ろうとしてコテンパにやられて命からがら岸に上がって気絶したところを幼きクラリスに助けられるシーン。

あの時のルパンに水を飲ませるクラリス。そのシーンは確かに情緒的で切なくてメランコリックであるが、肝心なのがその次。

哀愁を放つ挿入曲「炎のたららもの」に奏でられつつ、水をルパンに飲ませるクラリスとの庭園をバックに背景色がセピア色に反転するあの瞬間。あそこが実に身に応える。何時もあそこで胸が苦しくなるというか胸の違和感を感じる。32年生きてきたけど、あのシーン以外に胸がおかしくなることは残念ながら、ない。本当にない。私がカリオストロの城を見るのはあのシーンを見たいからがおおよそだろう。

セピア色による懐古を印象づけるだけではない。あのシーンの幼い少女クラリスというのは深層心理学的には、少女の弱さが前面に出されているわけで、傷つけられたルパンを少女が守ってあげたという優しさに保護欲や庇護欲を伴った疑似恋愛的な好意や愛着、もしくは純粋な好意や愛着、フェティシズムや属性に関わる嗜好や傾倒が垣間見える。その面からのか弱い少女の少女愛の存在を享受するものであり、美的かつロマンティックな見解を示しすためにもセピア色に反転するそのシーンはあまりにも優れ過ぎている優れ過ぎてこちらがまいってしまう。少女愛を何らかの意味で肯定的にとらえようとするならば、クラリスのいと愛らしさを引き出すためにセピア色の反転を宮崎駿氏は思いついたのではと。実に主観の域から決して脱すことはないかってな見解を私は綴る。

私のこのシーンが好きなのをお前がロリコンだからじゃね?w それは否定できないし、現にそうであると認める。ただ、この場合は性的興奮のニュアンスを含むものではない。ただ、ただ、純粋に少女の優しさに胸がときめくのみである。それがロリコンなんだよという突っ込みも心が揺れ動かされるあのシーンにロリコンと茶々入れるのは、あのシーン自体がロリーターコンプレックスであるのだから当たり前なのである。

ちなみに最も名言とされるとっつぁんの「ルパンはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」っていうあれは悔しいながらガキの頃に見たとき何が何だかわからなかった。これじゃ人の心なんて分かりっこないなと。だから私は今でも人の心がわからないのかもしれない。その心配りのかけ違いでいざこざが起こる私の感想なのでどうか適当に聞き流してください。

東京記念予想(もうどうでもよくなった)

サッカーの豪州に引き分けたことなんてもうどうでもよくなった。本来ならがっかりするのに、人っていうのは思わぬ金が入るとそんなことも忘れてしまう現金な奴で私も俗人。

まずはこの馬券を見てほしい。ていうか見ろ! こじはるなめんなよ。

ワイド 2-12 1090円 10-12 12130円 2-10 2280円 的中

ワイド万馬券とは何事。こんなのどーでもいいブログでもちょっとは自慢したくなる。そりゃ3連単100万取れればそんなの足下に及ばないけど、ワイド原理主義の私にとってワイド万馬券はなかなかの事件ですので。私はワイドで10から20倍の配当を取ることを常としていました。50倍以上のワイドの馬券は正直取れないと割り切っていた。掛金もあるが、やはり1点につき1000円以上出すからにはあまり冒険はできんのです。中央はもうどうでもよくて地方の競馬はほんと気が向いたときたまーに買ったりします。おおよそ外れますし、当たってもブログで言うほどのもんでもないからとしていたわけで。だから今日の地方競馬の馬券でたまたま当たったからにしても、ワイド万馬券なんて私の昔の競馬なんたる出来事を紐解いてみても、ピンクカメオの勝ったNHKマイルのときに訳わかんねーからってワイド18頭全通りボックス箱買い(100円につき15300円)して83720円払い戻した時ぐらいしか記憶にないし、地方では1回か2回あったくらいか、馬券買い始めて13年万馬券も取れないのにワイドでそりゃないだろと。それが東京記念の前日買おうと余興で買ったらコレ。真面目に競馬なんて予想してもむだなんじゃないのか。

今日の大井最終勝った12番は新聞の調教内容を見て全頭の中で一番だと思った。一杯追って37.6なんて他馬と時計が1つ違うしこれ買わないでどうするんだと。前走先行して2着だし時計は走破平凡でも前走先行抜け出しの安定感と何より調教が気に入った。

2着の2番は、もうこれはしょうがねえ。単勝1.6は当たり前。他馬が好走惨敗繰り返してたりする中で一貫して安定した3着以内を確保してるし、先行して崩れない安定感は抜群。なんでこんなところに出てこられちゃ配当低くなるじゃねーかよと嘆くもの。だからといって人気で決まらないのが競馬の難しいところ。勝馬を見て2と12のワイドに厚く張ろうとした。結局それが正しかったのだが、もしそうしていたらいつものパターンでブログで語らなかったし、東京記念のしょうもない予想するだけにとどまっていた。

正直なんで10番を買えたのか思い出せない。3走前の勝ちタイムが優秀だった。前走と2走前は出遅れてたからノーコンテストでいいだろ。今回期待しようということで買ったんだと思う。なにせ仕事さぼって抜け出して急いでたからじっくり予想もできてない。調教タイムが良かった。見直してみたら12番に次ぐ出来だと勝馬を今見返して思った。それにしても単勝106倍はないだろ。サイトで確認しようとした時その余りの高倍率に一瞬開いたページ間違えたかと思った。いやーしかし、最後の直線に山崎が突っ込んできた時は「???!!」だったな。人気の5番13番が3着圏内だった時は「買ってねーし2-12拾えてもガミだし」とぼやいていた。12番は来てもいいけど9番と絡めばいいなとおもったら単勝106倍の馬と絡む嬉しすぎる誤算。

安っぽくて調子いいこと言うとしたら「山崎神」。

以上

あと申し訳程度にメインの馬券も買ったがこれはもうどうでもいいから誰かにくれてやりたい。

ワイド 4-8 390円 的中

4番は5番人気で8番は3番人気にしてはちょっと配当安すぎじゃねと。どうでもええ。

つづいて東京記念の予想。私は大井記念とか金盃とかそういう大井のなんとなーくしぶい(?)レースが好き。逆に東京プリンセス賞とかアフター5スター賞という洒落たレース名(?)は苦手。

本命はユーロビート。もうこのレースのためだけにこの馬のためにこのレースがするようなもんでしょ。2000ではややスピードが足りないけど和製ベルモントSでは無尽蔵のスタミナで絶対に崩れないしなんならダート3200でもいいくらい。言いたいことはこのレースの適性が抜群。それは複勝1.0がもの語っている。穴党出番なし。だったら次のケイアイレオーネでチンコレースになるだろうと。そんなのないからと思いわざわざ足運んで金出したくらいだから、一応信念はある。

ユーロビートに次ぐのはチャンピオンゴット。前走の2000を勝ったからって次もと安直に飛びつく安直さは否定できない。しかしそれまでのレース内容がすこぶるよい。真島騎手とのコンビで馬券を外したことが一度もないのは特筆する。こういうのは負けるまで買わなきゃダメではないかと。6歳にしてもそんなに使われてないし金属疲労もないだろ。勢いつけてユーロビートには及ばないとしても2着は確保するか。距離も走ってしまえばわからない。桜花賞勝馬オークスで距離が不安だからと言って評価が落ちるもんでもないのだから(レッツゴードンキのことは知らん)。

以下にスコペルタ、ストゥディウムあたり。ストゥディウムはテキが「馬にやる気がないから前走意識的に短い距離を使った。帰厩後はハードに攻めたからこれで変わってくれれば」というコメントが不気味。前走は調教がてらで出走とはスティディウム買った方に無責任なことしたと思うが、それが報われるかというのは私は報われてほしいと思う。

あとケイアイレオーネについてだけどあえて予想から外す。大井記念でブログでこの馬買わない人の意見を聞いてみたいと挑発するほどの自信で勝ち馬として推したが。なんで帝王賞に出なかったのかそこが疑問。陣営は大豊を得ようとも欲をかかず手堅く地方のレースで稼いでおこうという魂胆だったのかわからないが、前走水野亜美カップであまりにも負け過ぎている。左回りが苦手とか高低差とかコース適正で負けたのではないと思う。おそらく鬼調教で圧勝した反動で二走ボケ。だったら仕切り直しで得意の大井で巻き返しというも今回は2400。こなせなくはないと思うがどうも前走の疲労が抜け切れてない気がする。長距離を走るにあたっては調教は馬なりでもリラックスして望めればそれでよし。でも、この馬に至ってはそんな余裕というか雰囲気がソレと違う気がする。もし、この馬がパドックでアレなときは4角手前から手ごたえが怪しくなり、長い直線で交されてしまう、そんなイメージが。要は前走で大いにケチがついた。それにこの馬まで予想に絡めたら当たっても全然嬉しくないっすよ。

正直に言うとこの馬に来られてしまうとつまらない。それだけの理由で予想から外したので、ケイアイを買おうとしてる方にはどうか気になさらないで。私は偏屈だから正直ケイアイとユーロとあとの三着馬は何が来ても不思議ではないのでユーロケイアイからの総流しでよいとも思ってる。でも、それは私の予想というものを否定するので、それが正しいか正しくないかを待つ間はなかなか楽しめるひと時なので。あと多少金かかるけどマルチで買ってもいいかも。ユーロ1着ケイアイ3着ならまあトリガミにならないと。予想は誰一人として異口同音するものではない。私は同調を強いて馬券を薦めるやからではないのでご理解を。



馬券当てていい気になってる予想なので鼻につくと思う。いつもは楽しいことなんてないのでこの日くらいはホルホルさせてほしい。

俺はアホやからコミケに参加するね

アホだからコミケに参加した。

馬鹿は死ななきゃ治らないという簡素な言葉の中には真理であった。どうせ死ぬなら、アホなことに参加して死んだほうが後悔がないではないか。後悔するほどコミケに参加意義があるのかと問われると口をつぐむ。


コミケのシンボルを撮ってみた。まぁ、人は多いわな。暑いし、熱いし、厚い本ではなく目的は薄い本です。


I thank you from the bottom of my heart.


今回の、ある縁がきっかけで今後また冬コミに参加するかも。あーあ。それまでにもう少し体力というか生きていればいいけど。

精神の安息を詠う詩

京華遊俠窟 山林隱遯棲
朱門何足榮 未若託蓬萊
臨源挹清波 陵崗掇丹荑
靈谿可潛盤 安事登雲梯
漆園有傲吏 萊氏有逸妻
進則保龍見 退為觸藩羝
高蹈風塵外 長揖謝夷齊

書き下し

京華(けいか)は遊俠(ゆうきょう)の窟(すみか)、山林(さんりん)は隱遯(いんとん)の棲(すまい)
朱門(しゅもん)何(なん)ぞ栄(さか)えとるに足(た)らん、未(いま)だ蓬莱(ほうらい)に託(たく)するに若(し)かず
源(みなもと)に臨(のぞ)んで清波(せいは)を挹(く)み、崗(おか)に陵(のぼ)って丹荑(たんてい)を掇(と)らん
靈谿(れいけい)潛(ひそ)かに盤(たのし)む可(べ)し、安(いづくん)ぞ登雲(うんてい)に登(のぼ)るを梯(こと)とせん
漆園(しつえん)には傲吏(ごうり)有(あ)り、萊氏(らいし)には逸妻(いっさい)有(あ)り
進(すす)めば則(すなわ)ち龍見(りょうけん)を保(たも)てども、退(しりぞ)けば藩(まがき)に触(ふ)るるの羝(ひつじ)と為(な)らん
風塵(ふうじん)の外(ほか)に高蹈(こうとう)し、長揖(ちょうゆう)して夷齊(いせい)に謝(しゃ)せん

豪華な都には洒落た身なりの者たちが集まる場所。人里離れた山林は、隠者たちの棲み家。
朱色で塗られた門の御殿なんて誇れるものではない。仙人たちが住まう蓬莱の地には及ばないからだ。
流れの源に出向いて、清らかな川の水を汲み、丘に登って、丹芝の若芽を摘み取ろう。
靈谿の谷で、一人静かに人生を楽しむならば、わざわざ仙界に続くはしごをよじ登るまでもないだろうか。
漆園には、王からの招きを拒絶した我儘な役人がいたことや、王の招きに易々と応じた老萊氏には、愛想をつかして離縁する身勝手な妻もいた。
仙界を目指して進むのであれば、正しい徳は保てるだろうが、その仙界に背を向け、世俗に馴染んでしまえば、角が柵に絡まって身動きが取れなくなる哀れな羊になりかねない。
そうなる前に世俗を離れて、そうした行い(仙界への渇望)をよしとしよう。
ならば、世俗の節操にこだわり続けた伯夷叔斉の兄弟にも丁寧に別れを告げなければならないだろう。


この漢詩は遊仙詩とよばれ、遊仙詩とはその文面から見てわかる通り俗界を離れて仙界に遊ぶことを詠った詩である。詩の作者は郭璞であり西晋の人で占いに卓越していた。
「丹荑」は、不老不死とされる丹芝の若芽で、「靈谿」は地名であり、かつて仙人がここから天に通じるはしごを辿って天上を目指したと伝えられる。「漆園有傲吏」は道家の思想家である荘子のことである。荘子が蒙という土地の畑を管理する役人であったときに、楚国の威王から召された際には「すみやかに去れ、我を汚すな」と王の使者を追い払ったとされる。「萊氏有逸妻」は老萊氏の言うことを聞かない妻を指し、老萊氏が王から召し抱えられた事に対し、妻は乱れた世に仕官するのは自ら縛り苦しめるものと同じだと言い、手に持っていた農具を投げ捨て彼のもとを去ったと伝えられる。この両者は、世俗の名誉と利益、いわば名利を嫌うという点で隠者の心構えを代表している。一方、詩の終わりに記される「夷齊」は伯夷・叔斉兄弟のことであり、世に謳われた節義を代表する古来の偉人でもあり、儒教においては聖人と目される。名利に目がくらむ俗物も、伯夷叔斉のような名節をを大事にする忠臣も、世間からは自由ではないいう点では同じとされる。地位や名誉、富を求める者を俗物というのはわかるが、誰もがその忠節を讃えるだろう伯夷叔斉兄弟までもそれと同等に扱うことにはいささか疑問であり、偏屈に捉えかねない。しかし、遊仙詩の主題が、世俗からのしがらみから離れることにある以上、忠臣の代名詞でさえも否定の対象とされるのである。忠義を尽くす対象が所詮世俗に対してなのだから、仙界を詠う詩に世俗に拘わることはどうしても受け入れがたきことなのである。ここに、忠義さえも否定する遊仙詩の強固な信念が読み取れる。そして、仙界というものに対してこれ程に思い焦がれ、気持ちの高ぶりというものを察するには、まず、不老不死の芽を摘み取りたいという非現実的なことを最後まで望んでやまない、内なる願いというのは、常にリアリストであり続けた中国の権力者ないし民衆とは対極をなし、異色である。仙界を望むことのできる資質を持つものは皆世俗を嫌った。仙界に憧れるならば世俗を断ち切れ。さもなくば仙界を語るにあらず。いかにこの郭璞の詩が浮世離れしているのかが垣間見えるかだろう。
中国の知識人は、官僚として生きるしかなかった。彼らは官界における栄達をあくせくと求めた。しかしその一方で、忠臣としての評判を勝ち得るためには、偽善的な言動をとることも必要となった。この二面性とは、真の良心には耐えがたい苦痛であっただろう。郭璞の詩は、知識人のこうした悩み、葛藤から発せられた苦悶の文学と理解してもよいだろうか。遊仙詩といわれると、一般にはたわいもない仙界に対する憧憬を薄っぺらい言葉で綴った詩と理解されがちであり、そこには現実逃避も見え隠れする。しかし、郭璞の遊仙詩が後世において名高いのもまた事実である。言い換えれば郭璞が詠んだからこそ優れた文学として昇華したといえるだろう。「靈谿(れいけい)潛(ひそ)かに盤(たのし)む可(べ)し、安(いづくん)ぞ登雲(うんてい)に登(のぼ)るを梯(こと)とせん」とある詩句を思えば、郭璞が願うことは精神の安息であり、空想される仙界ではないのかもしれない。世俗というものに疲れてしまうことは現在でも実に容易に端を発する。今も昔も、そうしたどうしようもないことを感じれば自ずと精神を安定させたいと思いはせるだろう。郭璞の生きた西晋から五胡十六国の時代は情勢不安も甚だしかった。悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨と、その意図の韜晦に竹林の七賢は世に背を向け清談(世俗を離れた清らかな談話)を交わすことが唯一の安らぎとばかりに、貴族までも清談に明け暮れたという。そんな時代だ。郭璞のような詩を読んでしまうのも、世に対する失望からどうにか精神を安らかに満たされておきたいと切に願うことを思えば、痛切に感じ取ってしまう。


今の日本社会はこの郭璞の時代と重ね合わせてみても一脈通じるものがある。私が思うに今の世の中は生きづらいのである。社会問題は昔と比べて複雑化し、どうしようもないくらいに問題解決は困難な様を呈している。具体的な例を挙げてもきりがないし、やるせない。そうした世を憂いていても何もない。その世から離れて一人物思いにふけることも、けだるい世の中から己の精神を救う手立てを模索してみたいと思う。しかし、残念なことにそれではこの世の中において暮らしていけないのである。世に背を向け引きこもりになれば、金がなくなり死ぬしかない。生きるためには辛い世の中にあえて出向いていかなければならない。流暢に詩を詠んでいてることは刹那的ですましておかなければならず、生きるために大切なものを意図的に見落としてでもお金に無心していく世の中。お金という俗物のために生きていかなければならないそれに対する嫌悪感。されど、お金がなくては生きられないという葛藤。ああ、ならば精神の安息はいかなる場所に求められるのだろうか・・・。
郭璞のような世俗を嫌悪する風潮が蔓延したのか、西晋は世俗を投げやりに見てしまい、それで西晋は滅びてしまったともいわれている。ならば、空想を語るよりも現実を語れなければ、「逃げ」であり、それは遊仙詩にもいえる。リアリズムが欠如した国は亡びる。世を案じるならば現実的な施策の存在を見つけ出し、それを実行すればいいだけである。
だが、しかし、実はそのことさえも空想に過ぎない。そんなことは・・・「これが正しい」というリアリズムを実行することが無駄骨だとされてしまう今の日本社会において、これまた空想的なのである。さすればリアリズムの欠如からなる日本社会といわれてしまうのか。正しいことを行えばいいことを、それをあえて正そうとしない。世俗の問題を解決する気概は上に立つ人間にはないし、できもしないので、そんな世俗に対して世俗を嫌うのもまた道理である。今の日本社会はリアリズムが通じていない。通じていないなら、空想的に語ってもいいではないか。
こんな世の中見捨てても己の精神をどうにかして護りたいがために、私は世俗を嫌うのである。