寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

今年の大河ドラマで描いてほしいこと

眠い顔して帰宅してパソコン立ち上げヤフーみてたら、今年の大河ドラマ平清盛」が低視聴率だとか。なにが原因なのかは書かれてなくて、主役の松山ケンイチはみんな頑張ってこれから盛り上げていくといったことを語っていたが。とりあえず、役者さんに罪はないと思う。
うん、そんな視聴率なんて気にすることことないお( ^ω^)
あの大河ドラマはおそらく、吉川英治文庫「新・平家物語」とか読んだ我が身としては、うーん。そーいや、前に画面が汚いという批評もあったが、あれはあれで、当時の雰囲気をあえて汚してみることで出そうとしているのがよくわかる。実際、今みたいな綺麗な装いで公家、武士、庶民の存在などありえない。紫式部みたいな女官なんて風呂入らねーから(風呂は当時はないようなもの。水浴びでおしまい)くっさくて、くっさくてそれを誤魔化すために真昼間から香をガンガン焚いてたそうじゃない。だから当時の汚い描写はリアルであると。綺麗な画像を求めたくなるのは豊かさを享受して生きてきて、綺麗なものが当たり前いう感覚だろう。日本も豊かになってきても、汚いだと意味を理解してから言ってほしい。豊かでも心が貧しいじゃん、そんなの。
まぁ、こんなの最初聞いたときあきれてものが言えなかった。なんでぼっそっと言ってますが、本来は反論したくない。
うーん、なんでこの大河が視聴率悪いのかと聞かれて、やっぱり歴史でもかなり一般教養の歴史よりも敷居が高い歴史の舞台だからじゃないの? 視聴者がこの時代のことよくわかってないから、平清盛について詳しくないから見ていてもつまらないんじゃないのだろうか。いや、これはあくまでもゲスの勘ぐりですみません。ただ、一つだけ挙げておくと、この大河にこうしてほしいと思うならば・・・
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
これを大河で出せるかという点だ。これが出せないならば低視聴率もそれだと私も同調する。
釈迦が説法した祇園精舎の寺の鐘の音は諸行無常を伝える。娑羅双樹の花の色は盛者も必ず衰える道理を指す。「盛者」とは清盛のことで、平家のこと。繁栄は持続するものではない。平家物語はおごるものも強き者も滅ぶといった、平家の繁栄から没落のでのはかなさを、仏教的無常観を色濃く出して説き尽くしている。人間の運命における哀惜の情が心を打ち胸をつまらせる。
まさに恰好の人間ドラマである。だからこそ平清盛を選んだのならこの、平家物語冒頭の意味というものをしっかりと取り入れて欲しい。というか、これができないならなにを平清盛で表現するのかこちらが問い詰めたくなる。平家は清盛が死んでから没落とあるが、実は清盛が福原へ遷都した時から平家は瓦解し始めた。もっと正確に言えば、清盛の嫡男重盛の死からその予兆が出てきた。壇ノ浦で諸行無常となるのではなく、それに至る過程を、盛者必衰の理を匂わせながらストーリーを進めて欲しい。
滅びにも美学がある。消え去るのも桜が散りゆくさまを投影すればその散りゆくさまが儚いながらも美しい。いつまでも繁栄を謳歌するよりも移ろいゆく平家の激動こそ平家の繁栄よりも平家の歴史においてみるべきものなのだと私は強く思う。
どうも杜甫の春望や滝廉太郎の荒城の月の歌詞なんかが好きだと栄枯盛衰人の世という人間の儚さに感受性が反応してしまうものだと。あれほど栄華を誇る平家が、大黒柱を失った平家が、無常ゆえのはかなさが織りなす人間ドラマの予兆をうまいこと書き綴って放送してほしい。
・・・とはいえ、そんなフリークみたいな私の願いなんてたぶん叶わないだろう。ああ無情。おいっ。
本来平清盛は歴史上の人物でも不世出の偉大すぎる天才で、その才は常に有名な秀吉、家康よりもまして優れていたと考える。その才は清盛の軍事的才能(信長もこれは清盛に劣ると)。これがいかんなく発揮されたのが平治の乱(この様子の絵巻がトーハクで見れる。期間限定)であり、敵を自分の思い通りに手玉に取っているので、並みの兵家(平家とかけてる)ではない。
源義朝藤原信頼のクーデターに清盛が服従すると見せかけ、二条天皇の側近と連絡取る⇒卑してこれを驕らす(低姿勢で油断を誘う)
・二条大宮に火を放ち警備兵が救援を呼ぶため離れた隙に二条天皇中宮を脱出させる⇒その無備を攻め、その不意に出づ(敵の手薄につけこみ、敵の意表をつく)
天皇を味方にしたことで清盛軍は官軍となる。天皇を取られてはクーデターの首謀者は一転、賊軍となる⇒先ずその愛する所を奪わば、則ち聴かん(敵のもっとも重視している所を奪取すれば敵を振り回すことができる)
・平家軍の攻めては退きの繰り返しの戦法に反乱軍は痺れを切らす。ついに退却する平家軍を源軍は追撃し拠点から出てきたところを伏兵の平教盛がその隙をついて空になった拠点を奪取する⇒兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて下きに趨く(戦いは水の流れのようでなければならない。水が入れ物や環境に即して姿を変えるように臨機応変に、その都度変わる敵の弱点に対応するものだ)
・清盛は清盛拠点の六波羅で敵と戦うのがよいとして、源軍をこちらに引きつけ地の利をもって撃退⇒善く戦う者は、人を致して人に致されず(戦上手は相手の作戦に乗らず、逆に相手をこちらの作戦行動に乗せようとする)
これはあくまでも、私の主観的な見解なので突っ込みどころはありそうですが・・・。要するに平清盛はこのほか、以仁王の挙兵鎮圧は清盛の素早すぎる対応で、芽を一気に刈り取るそれは実に豪胆すぎる印象さえします。近江の源氏の反乱、寺の反乱、相次ぐ反乱を強引に力技で叩き潰していく様はすさまじい統率力を発揮して、あまりのすさまじさに南都を焼き討ちしてしまうのは、そんな身に降りかかる火の粉は完膚なきまで叩きのめす恐ろしいまでの強権さが窺えるものです。
・・・はたしてこれからそんな清盛像を大河で描いていけるだろうか。この恐ろしいまでのカリスマをやるからには・・・ホームドラマみたいな和気藹藹なつくりでは似合わない。清盛は存在が重すぎる、キャラが強烈すぎるのです。そういう点をギラつかせ、家族、一族の愛よりも清盛の歴史は政治の潰してのし上がりの政治闘争に明け暮れる殺伐の日々が似つかわしい。オバハンや主婦に受けが良い「篤姫」とは明らかに一線を画す。ロッキード事件後のドロドロした政治闘争に・・・たぶん近い?
・・・とはいえ、でもそんな感じじゃ、日曜の夜に観るのに肩が凝りそうで月曜に向けて晴れやかな気分にはなれそうにないだろうね。私はいいけど。
なんか、くっちゃべってるうちにやっぱ今の大河に不満がでてきたな。なんだそりゃ。もっと歴史を前面に押し出してよ。政争とか権謀術数も歴史好きは腹が膨れる(私ぐらいか?)。でもそうすると歴史好きしか楽しめず、歴史をあまり知らない人でも楽しめるようにホームドラマ的な風潮で、それでより歴史に親しみやすくさせるのならばそれも致し方ない。私は歴史小説でも読んでればいいか。それとふと思った、気になった。
大河は歴史を語るもの。感情表現ばかりでは歴史の面白みが欠けてくる
最後に、なにも武士に関係する人物大河にすることないよ。もっといるじゃん。野口英世とか・・・。子供でも分かりやすく、大人が見習う要素がたくさんあるとおもうのですがねぇ。

新・平家物語(一) (吉川英治歴史時代文庫)

新・平家物語(一) (吉川英治歴史時代文庫)