寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

日本の力は地震あるも断たれず

私はこの災害で人のためになることなんて語れない。当然ながらなんというか映像を見たらどうかもうこれ以上はとしか願うことしかできない。災害に感情をぶつけるのはもの凄いナンセンスだとは思う。だけどどうしても正直な気持ちを言ってしまうならこの東北地方太平洋沖地震にすごい怒りと悲しみなんでこんなことするんだと。もっと大げさに言葉で表したい・・・これは私には悲劇だったしあまりにも辛い。地震大国としてその国民ならばそれを受け入れて生きていかなければならない。言葉では分かっていても感情がそれを許さない。自然の力に人間は無力だった。それさえも認めたくないガキみたいな私。
茨城県南部。私は地震が起きたときは実家にいた。母はテレビを見る、昼のワイドショーを。私は3月13日にビックサイトのイベントで使う予算を小銭にばらしに銀行へ行って帰ってきてちょっと過ぎた頃だった。地震というのに慣れていたのか最初に地震が起きたときは「なんだまたかよ」というのがその時の気持ち。それが馬鹿なことだったと気づいたときには自分の馬鹿さにがっくりしたことだ。地震の揺れが大きい、なかなか収まらない。私はフィギュアが倒れないようにと手を伸ばしたときこの揺れは違うと。その時母が外に逃げろと叫んだ。私はそれでもフィギュアが倒れて壊れるほうを心配してた。バカ。「大丈夫(とんでもない大嘘)、そのうち収まる」。だけど収まらない。その時、「家が壊れる」と思い出したときにはフィギュアを投げ出し外へ逃げた。空間が揺れてるとは電線の揺れ方で地震の揺れの怖さを味わう。水草のようににふらふらして放心してた私。母はしっかりと姿勢を低くして頭を手で守ってる。古い家にいた祖母が飛び出してきた。揺れが止まったときに私はこわばる声で「震源は何処だ?」と母に言ったら「震源はここだろ!?」と母。祖母は顔がおびえていて何も話さない。しばしの沈黙。古い家のガラスがほぼ割れた(私の古い家は以前やってた商売の名残から店舗造りで玄関にはガラスが多い)。その他なんか崩れてた。
ただ事ではない地震。これではインフラは最悪全滅だと思うも家に戻りテレビを付けたくなる。テレビはやっぱりつかない。くそーと思ったらテレビがついた。震源は・・・東北宮城?あんな大きな地震がここから遠い東北地方だと? マグニチュードを知って愕然した(その後さらに愕然するが)。母の家に戻るなという叫びを無視して家に戻ると食器棚が酷い。それ以外はそれほどでもない。私の部屋はと見てみたら洋服ダンスが倒れて衣類が散乱してた。そのタンスの上に置いてあった雑誌や大学の頃に使った参考書がぶちまけられてた。フィギュアはすべて壊れていないのに不気味。あれほどの揺れでケースから大体は定位置にある。定位置にないのは私がぶん投げてったフィギュア。ぶん投げたのに全く壊れてない。本棚もたくさん本が入ってるからその重さで安定してたのか倒れなかった。CDやDVDケースも無事。なんと私が大切にしておきたいすべてのモノが無事だったのになんだか感動した。インターネットは回線切れただろうと思ったら使える。電気ガス水道インフラは無事。余震におびえつつテレビやネットで地震を知り始めると青ざめた。そして母が言うように半狂乱状態だった。仕事から父が帰ったのは20時過ぎてから。携帯で連絡が取れなかったから気分が悪いままだった。家族か無事ならあとはどうだっていいよ。
以上が私の東北地方太平洋沖地震の体験である。なんてこんな体験をさせるんだ。台所の時計は2時53分あたりで止まっていたが・・・母は直さなくてもいいのに・・・
今日は仕事だったがとても仕事するようなこと私はやりたくない。だから帰った。許可はもらったが心証悪いとか自分の心はもう地震で気持ち悪くなるほどいっぱいいっぱい。後の顛末はここで多くを語る必要はないだろうしこれ以上長文にすることない。
私は、日本はこの地震にハングリーというのか。そんな風に立ち向かっていってほしい。私にはただ祈ることと義援金ならば。それとなんと月並みな言葉だろうとも、この地震の被害に見舞われたすべての方々に深い哀悼の意を示したい。