寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

何をやっても楽しくねー・・・

愚痴なるが、何をやっても楽しくないです。

もともとつまらない人間だと思っていたけど、本当に何をするにも面白いとも思わないのです。どうしたことでしょうか?

これから金曜ロードショウで猫の恩返しが始まるのですが、その、見るにしてもストーリーを理解することが面倒くさくて楽しくないのです。思えばよくアニメなんて見ていたものです。あんなの、いまに思えばストーリーを理解するのにどれだけ頭使うでしょう。仕事で疲れているのにいちいち画像を目でみなければいけない、目が疲れるのです。目が疲れるくらいならばアニメなんて見ることないです。

・本を読もうとするにも字を読むのがつまらない。

・ゲームをするにも目が疲れるし、コントロールを動かすのが疲れるし、そもそもゲーム自体が面白くない。

・テレビを見ようとするにも、私はたけしの万物創世記とか知ってるつもりとか特命リサーチなんたらXみたいな番組じゃないと見ないし、ドラマもまともに見たのがマルモのおきてが最後。

高校野球は私にとっては価値観が受け入れられなくて嫌い(これについてはあまり詳しく述べない)。

・図書館に行こうとするけど最近の図書館は土日はうるさいし、あれなら垢臭い浮浪者がいたほうがマシ。本を借りようとしても返却するのがメンドクサイし。

・東方をプレしたらレミリアが倒せなくてつまんないし。

信長の野望やってみても名族阿蘇家でプレーして島津取り込んで毛利とり込んだらもうつまらなくてやめる。

・アベマTV見ても下品なCMに萎えて視聴が終わる。

・漫画を読もうとするけど目が疲れるから読まない。

・フィギュア買っても買って満足してそのあとがつまらない。

・音楽聴こうとすると騒音になって聴けない。

・楽器演奏しようとすると騒音になって・・・。

・資格の勉強してもどうせ落ちるから堕落する。

・pixivも誰からも評価されなそうとなるとやる気にもなれない。

・ソシャゲとかアホくさそうだからいまだにしたことないし。

・5ちゃんみてるとムカついてくるし。

・ニコニコはオタくさくて一般的な価値観とづレていてつまらないし。

・つべもよく見てたけどマンネリ飽きてきたし。

Wikipediaは仕事中に見てるから今更見ていてもどうしようもないし。

漢詩とかもただのオナニーだし。

・旅行行こうとしてもそれは一時期の熱狂で楽しいだけであって、帰ってきたら現実に戻るそのギャップで苦しめられるから旅行にはいかない。

地方競馬も最近ワイドがガミだらけ。

・競輪は山田のなんたらの斜行失格の落車でヨーロッパになって外して嫌気がするし(オールスター4日目12R)。

・そもそもSNSとかこのブログ自体がつまんねーし楽しくねー。ブログ書くのも楽しくない。

ほんと何やっても楽しくねー。

今度の週末はゆりかもめ乗って中国人観光客と一緒になってレインボーブリッジの景色にわいわいやりたいと思います。辛くなったら海を見に行きます。後は明治神宮でも行くか。

 

 

 

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私は石川丈山みたいに戦で手柄を立てようとしても軍法違反だとかで評価されずに何もかもが嫌になって草木や鳥たちと暮らすようになったそんな風になりたいです。もうはっきり言って今の社会で生きていくのが疲れてきました。いい加減もういいではないか。何時までこんなつまらない日常を送らないといけないのかと考えると辛いです。私はニートの気持ちがよくわかる。お金とか生活とか家族の為とかではないのです。生きていくにはもっと様々な理由があるのです。誰一人として同じ理由で生きていかなければいけないことなんてないのです。その人が面白くないと感じたら面白くないのです。そんな甘えるな、それはお前がつまらなくしているからつまらないんだという説教は御免です。人は人として生きていくのではなく、自分として生きていけばいいのです。

何をやっても楽しくねえ。コミケ終わってそれが一層感じられました。今とりあえず今度の冬コミまでは生きていかなければならないので(なんか貰えるから)、それまでは生きていく。2020年の夏になったら東京がうっとうしくなるからどこか太陽村の別荘みたいなの買ってそこで一日中ゴロゴロしていたい。仕事なんて別にいいんじゃねー。生きていくことが大切ならば仕事なんて命に劣る存在だから捨ててしまってもいい。私は家族がいないからこんな無責任なこと言える。

最近総武線が混みすぎです。イモリのように電車のドアに張り付く行為をあと何回続けなければならないのでしょうか? この奴隷船みたいなのに押し込められている、総武線車内のこの人たち、週末何するの? その娯楽って今の奴隷続けてもいいと思える価値がある娯楽なの? そんな楽しい娯楽があるのならば私に是非教えてもらいたいものです。

 

漢詩とは鬱積した心の拠り所

今更こんなこと言うのもなんだけど、このブログなんかつまらねえなあ

いや、割とマジで。

なんていうのかさあ、中身がよくわからないよね。書いてる本人は魅力のない人間だと言いふらしているようなモノ。辛うじてネットの大海原に浮かぶ小枝のような存在だから恥が微々たるもので済んでいるのだろうか。ブログ書くからには何か面白くてためになって興味深くて考えさせられて意表を突くようなことをいわないと。それは日常が変わり映えがないから。だからどうでもいいし趣味のこと書いてる。あまり人の役に立てないのはこれが私の性根だからだろうけど。そう考えるとブログなんて毎日出来るものではない。毎日できるほど充実してないから。それにこんなこと書いていったい誰の役に立つのか。アクセス少ないブログ。誰も聞いてなければ一人で壁に向かってぶつぶつつぶやいているかわいそうな人間を浮かべてしまい、それならばブログなんて毎日書こうとも思わない。やはり、誰かに必要とされてなければ。必要とされてなければ生きていてもつまらないんじゃないの?

この夏暑くて特に出歩きたいとは思いません。専ら休みは自分の部屋で。ついでに墨田区のゴキブリアパートから引っ越しました。どこに住んでいるかは墨田区。なんじゃそりゃ? なんか建て替えるとか言って追い出された。ふざけんなタコ! おかげで高い家賃を払うハメの今のとある場所に住んでいる。なんかたけーんだもん東京の賃貸。墨田区しか手頃な物件なかったんだ。ちなみに足立区とかは住みたくない。何故なのかはフフフ・・・。

漢詩を最近またやりだした。あの学校の古典の授業でやるみたいなこと今頃やってる。「んなことやってなんかの資格取れるの?」とか「そんなこと学んで何の意味があるの?」と正直思う。私は漢詩を自分で作って詠んで自己顕示欲強いからその辺の新聞に投稿している。正直漢詩なんて面白くないと思う方がいるけど私は違うんだな。ちなみに漢詩を知っていても就職で有利になるとかないよね。ここが日本社会のダメなところで教養をある程度知っていてもそんな金にもならない教養と決めつけて否定してしまうのが日本社会です。漢詩だけでなく、哲学、宗教、倫理や芸術音楽とかそんなの知っていても仕事で役に立たないと見てしまうのが日本社会です。金にならないことはとことん嫌う情緒のカケラもない。仕事なんて医者とか免許いる仕事以外は採用するにあたってバカでも誰でも変わりはないです。だったら教養ある人間採れよ会社は。私は面接で杜甫の春望を詠めたらいくらSPIの正解率が0でも面接で悪態突いても絶対にその人を採ります。江南の春を間違いなく詠めたら初任給30万出してもいいです。そんなこと今の人事部はしねーもんなバーカ。

飛 流 直 下 三 千 尺 
疑 是 銀 河 落 九 天 

この句はホント比喩表現が効きすぎてめまいがする。李白の「廬山の瀑布を望む」というまあ中学の古典でも紹介される定番だが、ようは「滝が三千尺に渡ってすごい勢いで真っすぐに落ちている。まるで銀河の天の川の底が抜けて落ちてきたかのようだ」という意味。三千尺とはメートルに換算すると909.09。世界最大の落差を誇るギアナ高地のエンジェルフォールが979メートルらしいから(wikiで見た)それよりも落差がある廬山の滝とは何だコレ。それは白髪三千丈といわれるように誇張した漢詩の表現です。李白とは大ぼら吹きな詩人なんす。こうやって誇張することでしか、それほどその時見た風景の感動がすさまじかったのでしょう。誇張するほどの価値のある滝を見て李白は感動したのです。「そんな自然見てーな」となりこの詩に惹かれてくる。そんで最後の句の「これまさに天の川が地上に向かって落ちてきているかのようだ」と、これだよ、これ。この、滝それ自体を天の川が地上に降り注いでいると比喩的表現を使うその李白の詩の壮大さ。まさに詩仙そのものだよ。日本の和歌にはこんな壮大な例え話は私の知る限りでは思いつかない、いかにも大陸国である中国らしい壮大な詩であると言える。九天とは天の一番高いところを意味しこの九天という言葉自体もかっこいい。天の川は天文学的にはお察しの通り雲上の光の帯のこと。そんな光の帯が地上から落ちて来たらどう思う? すげーそれこそ絵にも描けない美しさじゃないかな。滝を天の川に例えたこと自体が李白の凄まじい感受性と想像力と才能ではないかと思います。美しい滝の光景を己の才能で表現するにあたってこの李白の詩は本当にお気に入りです。七言絶句だの転句となる飛流直下三千尺と詩に勢いをつけてリズムをよくしてるとか詩の体形など正直どうでもいいんです。李白は滝を見たらこうやって表現しましたよ。それが天の川の底が抜けて地上へ真っ逆さまに落ちてきているというその表現自体が素晴らしすぎるのです。私は音楽でも美術でも情景を思い起こさせる作品が好きで、ことにこの李白の詩はホント好きですね。滝を見たら天から天の川が落ちてきた。こんな風に表現する人間今の時代にいるかね? そりゃ李白が天才過ぎるから、でも今の日本人にもこんな風に捉える頭の良さがある人いてもいいのではないだろうか。

私は体調不良で入院してた時、看護士の方に漢詩を詠んで聞かせてた。それが理解されなくて中には「何言ってんだこいつ」みたいな顔された。別に私が漢詩を知っている教養の高さを見せびらかしたくて看護士の方に意味不明に接したわけではない。私が詩を詠む時は心が落ち込んでいる時。其の心の落ち込みを解消することが漢詩を詠むこと。

つまり今漢詩を詠んでいるのは情緒不安定です。

もうこれ以上生きて何になる。事故で死んだり自殺している中、なんでそんな人を尻目に自分は生きてんの? なんか生きていて人の役に立つの? ただモノを消費するだけでそんな人生に何の価値があるの? だったら生きていても死んでしまっても大して変わらないでしょ? 死んでも最初は悲しむけど10年後には大して気にも止められないでしょ?  

つまり私は病気なのです。

その病気を抑えるのが漢詩です。意味不明ですが。

サッカーを特にワールドカップをだまし合いの卑怯なものと言いふらすことが悲しい

兵はきどうなり(漢字変換できない)

 

戦争は所詮騙し合い

 

孫子の兵法の中でも最も非情な正論とされている

 

サッカーで騙し合いをしているのはそれが戦争だからである

 

戦争じゃなければ騙し合いなんてしない

 

戦争と呼べるほどのプレー精神こそがサッカーワールドカップなのである

 

他のスポーツとは試合に対する価値観が、真剣さが格別に違ってくる

 

ワールドカップは戦争しているのと同意語で、国を背負うからには孫子のような非情な手段を取るしかないのである。原爆を落とすように戦争に綺麗汚いはない。美学に反すると言ってそれが出来ないなら勝手に死んでしまえと。殺すか殺されるか、それほど真剣なのである。ワールドカップとは

 

わかったか

 

そうとも知らずに、ズケズケとワザとらしく転んで痛がって延滞行為をして卑怯というのはワールドカップを知らない無教養のうわごとであり、物事を冷静に判断していない証拠であり、自分のバカさ加減を言いふらすだけなので、サッカー好きの前ではやらないのが己の名誉のためであると忠告しておく。確かに汚い卑怯な印象は持つものであり、どうしてもそこが許せないというのであれば私からは何も言うことないが。

 

だけどね、これだけは言わせてほしい。アジア勢が南米に勝つこと自体がサッカー史に残る歴史的な出来事なのに斜めに構えて素直に日本の勝利を喜ばないのはいくらサッカーが嫌いといってもそんなの全然カッコよくもなく大勢と違う意見を言えると通ぶっている偏屈な性格者の強がりにしか聞こえません。嘘でもいいから「フーンすごいね」くらいは言ってほしいです…。日本の勝利じゃないんだよ。アジア全体を含めての南米への勝利なんだよ。何十年アジアが南米に勝てなかったか、何十年悔しい思いをしてきたか。そんな背景があるのに、もしかしたらサッカーファン以外にはわかってもらえないの? 興味がないからといって、この勝利を祝福できない日本人なんて御免被る。口を慎めよ。

 

高校野球のサイン盗みとかは大いにやってほしい。ただ、故意に相手をケガさせるアメフトみたいなのが許されないのである。もし、サッカーを批判するならばああいう暴力行為を批判してほしいのですが。いくら戦争といってもワールドカップは暴力を使わない代理戦争ですから戦争本来の暴力(とはいえ戦争は承認された暴力だが)をサッカーのプレーで連想させたときは私も声を大きくして批判します。

 

しかしTwitterとかってヤだよな。簡単に自分の考えと違う人を発見できてしまい、それでイライラする。炎上はこんな自分と考えが違う人があれこれ行き交うから起こる。それなら初めから自分と考えが違う人の意見なんか見なくすればもめ事は起こらないだろうか。ネットの普及からSNSの拡大で世の中も変わり映えした。その代わり映えした中、昔みたいに人々の意見を目にすることがない時代のほうが人間の精神衛生がよかったと思える。もめ事が起こるくらいなら人々の様々な意見なんて開示されてほしくない。ネットなんて規制されてしまえばいいと思う。だから私はTwitterが嫌い。いいと思った人が自分と違うこと言っていると、一個人の意見として受け入れようにも幻滅した気分は騙せない。何だか寂しくなり、そうやってその人を嫌いになり続けてきたそんなことを私はいつも繰り返している気がする。

もうあのこ汚いオフト後楽園はない・・・

地方競馬の馬券を初めて買ったことは今でも覚えている。

一心不乱に馬が回りながら歩いている画像とたくさんの数字が出ている画像をギラついた目をして一心不乱にというか気持ち悪いくらいの雰囲気を出していた爺。この日本にはまだこんな変な生き物がいたんですといいたくなるようなオフト後楽園の客層忘れられない。中央競馬とはまた違う地方競馬の爺の恐怖を覚えながら初めて地方の馬券が当たったのは800円買って440円戻ってきたというものだった。あんなダークサイドな環境は今でも先でもオフト後楽園だけだった。私は関西方面の場外馬券場は知らないが、とりあえずウインズ浅草をも凌ぐ比類なき場外馬券場だった。ちなみにGoogleでのオフト後楽園での口コミが吹く。

そんなオフト後楽園がウインズ後楽園と吸収合併された? 詳しくは知らないけど、今までの地方競馬の場外馬券場オフト後楽園中央競馬のウインズ後楽園はその組織の違いから別の建物としてわけられていた。それが6月4日から黄色いビルことウインズ後楽園の建物内に移転された。なんでそうなったのかは知らないがやっぱ狭いし汚いし汚いし汚いとかで移転になったんじゃないのか。今度のオフト後楽園はたくさんの券売機があるので締め切り間際にクソ爺の怒号や掴みかかりの現場を見なくなりそうでよい。フロアも完全に建物内なので昔のシャッター開けっ放しのクソ寒い師走の風に悩まされずに済む。それに完全に禁煙化されているからちょっと外に出るとクソくせえマルボロふかしているクソ爺を煙たがらずに済む。今回の移転、正にいいとこだらけではないかと。でも、昔を知っている昔のオフト後楽園は私の学生時代の青春でもあった(んなもん青春にすんな)から今はシャッターが閉まっているあの建物を見たときは哀愁が漂ったよ。もうあの丸い鉄柱みたいな奥にある椅子に座って勝馬を見ながらマークシートを散らかすこともないだろうと思うと、あの、何がそんなに熱心なのか当たりそうにない〇〇競馬の新聞を見ながら火花を散らしているおっさんの隣で、これまた少し伸び気味のチャーシューメンのくせしてチャーシューが一枚しかのっていないメンマだけがやたら多いチャーシューメン(マジですw)を私が食べながら「俺の人生つまんね」と自虐と諧謔に溺れることもなくなるのか。ああ、我が青春wオフト後楽園、もうあなたはそのシャッタを開けることはないんですね…。ていうか元あったあの施設何に使うの? 競輪の車券でもあそこで発売しろよ。

ここ最近地方競馬の馬券なんて買ってなかった。買うとしてもオフト後楽園だから今日まで移転したのなんて知らんかった。ちょうど新宿の駿河屋とか寄って行った帰りに水道橋で降りたんだけど、あの長いエスカレーターに乗るのは、誰もあのエスカレーターで歩いたりしてなかった。やっぱあの長いエスカレーターが歩くのが危険だというどうも罪悪感を本能で感じるからなんだろう。だから爺どもは歩いたりしないで黙って乗っているんだろう。いやーしかし新しいオフト後楽園は広い広い。昔は警備員が「立ち止まらないでください」と困り声で叫んでいたのが嘘みたいです。でも、やっぱいるのは昔のあの頃の爺のままです。唾を床に垂らす爺を見た瞬間新しいオフト後楽園に幻滅しました。やっぱ昔と変わっていない。外見は新しくても中身はまるで昔のまま。これ物事においてもダメなパターンだよね。市役所を新しく建て替えたきれいさっぱりな空間でもそこで働く地方公務員は…ガーペッ! いかん、タンが絡まった。今の言葉忘れて。

オフト後楽園と愉快な爺たち。こんなのと仲間になりたくねぇと最初の馬券を買ったら川崎3レースハズレ。2000円パー。次に笠松11レース1500円買う。1600円戻ってきた。川崎4レースハズレ。2400円パー。もう俺帰っていいか? ていうか爺多すぎなんだよ、流石年金支給日。こいつら周りのことよりも自分のことに精いっぱいだな。競馬新聞に落書きしなくても、そう顔に書いてあるよ。以前みたくメインと最終の馬券を買ってとっととこんな爺と別れましょう。なんかこれから夜にかけて寒くなりそうだし。そんで買った馬券は3枚のうち1枚当たり。ちなみに競馬新聞は買わずサイトの馬柱を見ました。調教タイムが見れない不本意ながらもそんな520円出したくなかった。

 

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真ん中の川崎12レースの6-10が当たり。配当は…3連単を当てた人と比べたら大したことないと思う。いつも当ててるような金額だよフン。おかげで駿河屋で買ったモノ以上に金を取り返すことができた? 「何で馬単買わないの?」という突っ込みやめてください。しっかし園田は遊びにしても川崎の11レースの買い方ってジャンル何? この買い方俺らしくねえ。ワイドしか買わなくても、やっぱ最初に買った馬券外れると調子狂って買い方が乱雑になる。その分川崎12レースは落ち着きを取り戻しているが、私怨で森をあえて買わなかったので結局満足する者でもないです。でも、金が1円でも増えるといいものです。競馬をやるのはそういうのがよくてやるもんです。

オフト後楽園が移転した。それがよかったかといったらよかったかもしれない。エスカレーターが長い以外は。でも昔のあの頃の風の匂い(爺の体臭とかではない)が感じられないとなると正直寂しいです。古くて良いものはこれからも残していくべきです。オフト後楽園は古くてもこ汚かったからなくなったのでしょう。そうでなければたとえ経費が掛かろうが時代の象徴として未来に残していくべきです。結局オフト後楽園をバカにして癪に障りますが、こんなまとめ方でもこれからはたまには地方競馬の馬券もいいよと思います。もし、たまーにでいいから水道橋西口に降りたら橋を渡った左手にある爺と一緒にエスカレーターを乗ってみては。得られるものよりも失うものが多いかと思うが、こんなのも人生のうちでいいものです。私は駿河屋で面白いものが買えたし、今日馬券が当たって機嫌がいいです。あと東京ドームのコンサートに来てた女の子がみんな可愛い。昔だったらナンパして叫ばれただろうに。

精神を病んでいる人の気持ちを知ろうとするのは難しいことなのか

サッカーよりAKB総選挙のほうが関心の度合いが高い私ってもしかしてアホ? 

いやー去年は結婚するとか言われて冷や水ぶっかけられて半ギレからガチギレしてたもんな。いやーまじバカだ、そんなことで怒り出して、今はどうでもいいならその程度の怒りだったのだろう。本当の怒りというのはいつまでも根に持つもんだよ。韓信のように「恥は一瞬、罪は一生」と察したようにDQNに絡まれても刺し殺せずに股をくぐった時のように堪えていればよかった。人生において怒りというものは時が過ぎるとなんてくだらないものだったと我に返るものです。だから、怒りっぽい人はなんてくだらない人間だと思います。

でも、中には怒りでしかその自分を見出せない人もいるんだなと。

新幹線で人をナタで殺したあの人は、いつもああやって捨て鉢になっていたんだね。あれは常に業腹、切歯扼腕から終始離れられない人生だったのだろう。怒りが自分の人生だったのは、結論から言えばあれは親の教育が悪すぎる。人間生まれた時から人を殺せと本能を宿して生まれてくるのではない。作田明の本に「人は人を殺す動機を不遇な家庭環境にある」として、その犯罪者の人生の歩みに何らかの欠陥が生じたとき犯罪者が生まれるとしている(世論時報社「犯罪心理研究の独自の視点」から)。つまり、犯罪ならいざ知らず人を殺すような人間はボウフラのように湧いて出てくるのではなく、親の教育、家庭環境に責任があるとまず私は唱える。そう、育てが悪いから人を殺す人間なんて生まれてくるのである。残念ながらどの犯罪心理精神なんたらの著書にも結局は教育の不備が不幸な人間を産んでいると記されている(反論あればお答えするが…)。話を逸らすが、だから学校の教職員は勉強を教えるのではなくまずは人を育てなければけない。勉強は塾で足りる。人の精神や心を育てるのはまず親と学校の先生だとこの精神病野郎はいつまでも言い続ける。先天性のサイコパスも実は教育で矯正できると私は信じている。それなのにああいう常に苛立ち、最後にはナタで人を殺して言葉通り人生と自己の精神を「自殺」させた本当の責任はあの他人事のようにほざく親にあると・・・。

常に何かに怒り続けたあの若者、一度知能指数調べたほうがいいよ。高次自閉症の疑いがあるにせよ異常数値を出すと思う。あれじゃ誰も話が合わないわけだよ。あの年で岩波文庫なんて読むかふつう。私が最近読んだ本なんて「からかい上手の高木さん」だよ。あんな難しい本を理解したりできりゃ、周りの人間なんてバカにしか見えないもん。私が思うに知能指数が高すぎで社会生活に馴染めなかったんだと思う。だからといって人を殺すなよ。自分の考えが似ている人なんてこの世のどこかにいるかもしれない。SNSは私は嫌いだがそれで仲間を見つければよい。

この事件は親の教育、それと己の価値観が合わない世間のバカらしさに嫌気がさして人を傷つける他殺という自殺の代用としてまず自分の人生を台無しにした破滅願望。自殺は何も肉体的に自殺する者だけではない。あの場合は精神的な自殺である。もう人生に取り返しがつかない。そういう意味では自殺も殺人も結局は同じではないか。自分の人生を終わらせるためだったら自殺でも殺人でもどちらでもよかったのだろう。

以上何が言いたいかというと教育何とかしろと言いたい。それにしても人生を投げてしまう人はどうにかならないものだろうか。22の女子大学生が電車で自殺とか今日も聞いたし、人生って人によってはものすごくつまらないモノなんだなと。休日都心の中心街当たり歩くとどいつもこいつも悩みがなさそうにバカ面下げて歩いている。ああいう人と今回の殺人者は分かり合えないだろう。分かり合えないから、周囲がそういう人間を理解しないから殺人や自殺が出てくるのです。ジブンが幸せならばどうでもいい。そういう冷たい日本人が増えたと私は思います。少しでも不幸な人間の気持ちを分かりたいのならば一度図書館とかに行って精神病とかの本を読んでみてそんなかわいそうな人の気持ちも理解してあげてください。えっ!? メンドクサイとか自分の有益にならないとか思うなら、そんなんだからそうやって人が死ぬことろを見てしまうのです。頭がおかしい人とは付き合わないほうがいいのはわかりますが、少しでもかわいそうと心の中で思いなさい。私は博愛主義者だから、たとえ人を殺した人でもかわいそうだなと思いました。死んだ被害者に対しては刃物を振り回す人の気持ちがわからないから殺されたのです。あの人がどんな人かもわからない。その無知さ加減があの人を怒らせたのです。私だったら優しく犯人に語りかけて説得してみる。掴みかかろうとすることは相手に対して攻撃の意思表示になるからさらに怒り出し尚更収まりがつかなくなるから。それでもだめなら殺されてもいい、私もオリンピックまで生きていく自信がないからね。いつも怒っている人を土壇場でまた怒らせた被害者に私は同情したくない。さっさと逃げればよかったのに・・・。

正義とか言う正しい行いも、自分が正しいと思い込んでいたのに、それを人生で否定され続けた人には通用しない。どうせ分かり合えないんだからそんな奴とは関わろうとするな。今まで誰からも近寄られたことがなかったのに、ナタを振り回すこんなことしないと相手にされないほど自分の人生はくだらないモノだったのかと犯人が絶望した。だからあの人はナタを振るったのです。今まで誰からも理解されなかった悔しさをあの時晴らしたのです。

 

 

犯罪心理研究の独自の視点―「凶悪さ」と「増加」で揺れる現代の罪と罰を検証する。

犯罪心理研究の独自の視点―「凶悪さ」と「増加」で揺れる現代の罪と罰を検証する。

 

 

 

この季節は堅苦しい恰好なんてしないで

 

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No.xxx 区分 その他 情報書込日時:2018/05/xx xx:xx

場所 東京都墨田区xxx

日時 平成30年5月xx日 xx時xx分

不審者 身長165cmから170cm、30代前半の男性、ベージュのチノパン、白のポロシャツから東方projectフランドール・スカーレットの法被をまとっていた

状況 周囲に気持ち悪がられる

その他 警察には未通報。今後パトロールを強化して近隣住民と連絡を取り合う

 

私はスーツとか嫌いです。あの「私働いてます、仕事してます、社会的地位が確保されています」という自己主張の強さと服装から醸し出す気位、貴意の高さがハナにつく。要は偉そうでムカつくんだよ、スーツとか。特にネクタイなんてのは大嫌いですね。無理やり西洋人の真似しなくてもいいのにネクタイが好きなんて西洋コンプレックス丸出しとしか思えません。ネクタイは首に絡(から)めるという意味から「会社から首をつながれている鎖」というメタファーなのです。ネクタイをすることは犬に首輪をつけて飼いならされている意味。用済みになればネクタイを引っ張り首を切る(解雇)。私はクールビズ以外でもネクタイだけはしません。昔それで怒られたけど、今は諦められているせいか怒られません。

そんなにスーツネクタイがカッコよく立派に見えるから好きだというならば、大礼服でも着てろよ。

 だからこういう法被とか好きです。流石に街中でこんな格好してたら「景観を損ねる」とかで通報されるけど、この画像はいずれTwitterなるものやる時のアイコンにしたいと思う。ところで、着流し羽織はいいよね。たまに浅草とかで見るけど、明治神宮でそういうの着てた方を見たときは場所が場所だけに「ホント素敵だな」と思いました。私もそういうの着てこれから東京でも歩こうと思います。

たかが女に趣味のものを捨てられたくらいでキレる男。その男尊主義がキモい

いずれ語ろうとして忘れていたことがある。もう昔かもしれない。ある方と話したことなのだが妻に自分が集めた特撮とかロボットフィギュアを捨てられそうになり、その非常識な、人の尊厳を殺したとか私に語った。よくネットでも話題になる (最近話題になったか?) 妻や彼女に大切にしていた趣味のものを捨てられるという報告は聞かれる。自分の趣味に理解を示さないバカ女としてその後の顛末は関係は修正不可能と締めくくられる。その方は私もフィギュアとか買っていると先に話したから共感したのだろうか、そんな自分の趣味を捨てられるあまりにも理不尽な妻の行動を嘆いていた。私はその話を聞いて・・・相手に指を突きつけながらこう言った。

 

「不見識者め! 恥を知れ! 妻が何故それを捨てたのかを、その意味を考えたことがあるのか!」

 

相手を指さして意見を言うのはとても気持ちいいです。私は性格が悪いから今後付き合う予定のない人にはこうしたニュアンスの言葉をよく言う時がある。本音を語って嫌われれば当たり前。むしろそれで好かれたら私はその人を尊敬するが、大抵嫌われる。

 

夫、彼氏の趣味で集めているものを捨ててしまう女性の心理は私の自己分析によるとこうである。

 

・明らかに嫉妬深い性格。夫や彼氏が自分以外の趣味のものにうつつ抜かすのは他の女とうつつ抜かす不倫だと認識する。趣味のものを他の女性と同一視するのは女性の価値判断に対する脳みそが未熟であるから分別をつけろという男の言葉は無意味である。私以外のものに夢中になるのが許せない。だから捨てる。

 

・嫉妬深いことは独性欲が強いことも挙げられる。自分が夫に尽くすのだから夫も私に尽くすべき。それは私以外は見ないでというヤンデレ的独占的な考え方に他ならない。要するに精神病なのである。自分が一番でないと嫌だ。趣味に高じるのは私を下に見ているからだ、一番は私であり趣味ではない。そんな一番を奪う趣味のものは捨ててしまえば私が夫の中で一番になる。精神病だから、だから捨てられる。

 

・相手を自由自在に管理したがったり、思い通りにさせようとする束縛的価値観に起因する。藤原紀香がいい例だろう。風水にこだわり過ぎて元夫に愛想つかされた (詳しくはググレ) 。私の理想通りになってというのは、そんな不潔な顔してないでとかカッコよくなってという心理が働いている。彼女からしたらフィギュアやプラモや鉄道模型はカッコ悪い趣味なのである。そんな趣味を持たないで私の思い通りになって。だから捨てる。

 

 ・自分の価値観を大切にするあまり、己の理解されないものが許せないという視野の狭さ、器量のなさ。右翼が嫌い、左翼が嫌い。だからといって同じ国に住む者同士だろ。協調性とは固執した価値観が打ち砕いてしまう。価値観を分かり合い、お互いの長短を見極めてより良い未来を目指すものなのだが、日本ならずとも世界中がこんな簡単なこともわからない。国がこうならば、その国に住む人間もそうだろう。価値観が違うというだけで嫌悪する。だから捨てる。

 

 ・夫や彼氏のものは私のもの、という極めて常識とは逸脱した自己中心性。自分のものはたとえ他人のものであっても自分のものとすることは幼児期の心理特性。つまりガキ臭い性格で大人になれていない。とても恥ずかしい。夫、彼氏の趣味のものは私のものであり、それは私には必要ない。だから捨てる。ある種よくこの年まで生きていけたものだと首をかしげたくなるだろう。

 

・心理学的見地から言えば趣味のものを捨てるという女は自己愛性パーソナリティ障害と考える。そして私はそんな女の行動様式に理解を示す。何故なら自慢するわけでもないが私も精神病だから彼女たちの気持ちがよくわかる気がする。もし、趣味のものを捨てられた男たちはその辺の身の上事情もある程度知っておくべきだった。これは普段の何気ない日常でよく目にする。「あれ?」と思ったらすぐに趣味のものを隠すべきだった。それがわからなかったのならば、なんでそんな女といっしょに暮していた意味がないではないか。お互い惹かれ合って一緒に暮らす仲だろ。

 

結局女も悪いが男も悪いのである。いや、女の心理に気づかない男というのは鈍感すぎて反吐が出る。男というのは正直デリカシーがない。感受性が欠如している。女性は感情表現がたいへん旺盛。それに元来女とは建設的な意見より感情的に動くものであることは長い歴史の中でも証明済みであったはず。男がそんな女性の感情を読み取れないのはいくら偏差値がよくてもバカに他ならない。そして愛しているから趣味のものを捨てたという理由ならばそんなくだらない趣味のものなんて捨てても構わない。趣味が愛よりも優先されることは私にとっては許せない。捨てるのは彼女なりの独善的で稚拙ながらも真の愛情表現だったのです。

趣味と人の愛、どちらを選びますか?

趣味を捨てられただけで人の愛とは捨てられるものなのですが?

趣味はまた集められますが、人の愛とは集められますか?

私は、人の心も価値があり、趣味を分かり合えない人の心なんて価値がなくて捨ててしまえという唯物主義者に似た、その人の感情表現だった出来事を損得で切り捨てる男尊主義が気持ち悪いです。ものを捨てられたというのはその人の屈折した愛情表現だったはずです。屈折しているとはいえ、いじめとか困らせるために捨てるような感情ではなかったでしょう。私が「趣味のものを捨てる女は何なのか」と上で示しましたが、どうも、男の人を愛しているからそういう行動をとっているのです。喧嘩してとか、何かの腹いせで捨てているのではないのです。愛の行動様式に過ぎないのです。私は愛とは人の趣味を捨てられたら離婚できるという口先だけの法的拘束力などとはまた違う絶対不可侵的な聖域であるとみています。関係が破たんしたらそれで愛は終わるという愛は愛ではない。愛の為なら趣味を捨てても、それも人の愛であったと一定の理解を示します。ていうか理解する。

趣味のものを捨てられたぐらいで心神喪失したり離婚を突きつける男とは愛を知らない、よくそれで大人になれたなと。大黒摩季の歌にあるように「あなただけを見つめるために全てを捨て去ってあなたについていく」というあなただけを見つめているという歌。職業、財産、家柄、すべてを投げ出して駆け落ちするような愛。そこには物欲というものとは無縁。そんな真の愛というものを趣味のモノを捨ててまでしてわかってほしかった女の心底…。愛があれば趣味がなくなってもそれでいいではないか。

私は趣味どころか自分の命も愛した女性に捨てられるのであれば喜んで殺されるだろう。私の死に方で一番望むことは愛している女性から殺されること。その理解しがたい考えは私が考えた歴史小説でこの意味不明を理解してください。

茶々は小谷の城で自分の父浅井長政を殺した秀吉を憎んだ。茶々は北ノ庄の城で自分の母を殺した秀吉を憎んだ。茶々が殺してやりたいほどの秀吉は、秀吉が若き日の頃から惚れていた母のお市と自分が瓜二つだからと秀吉は茶々を側室にしようとした。茶々は側室になれば秀吉に近づけるし、それで殺せるからと側室になった。そしていざ秀吉と二人きりになった時茶々は何故側室になったのかを秀吉に話す。その話を聞いた秀吉は「お前にならば殺されてもいい」と茶々に小刀を渡した。茶々はその時、殺されてもいいくらいと思うほど自分を愛していた秀吉に激しく動揺した。「いつ殺すかは楽しみにしていな」。茶々は小刀を持ちながら秀吉の前から逃げ出した。

そんなことより、愛している人が大切にしているものを捨ててまで私に振り向いてほしいというほどの愛情表現をされる夫や彼氏が羨ましいです。そんな愛されかたに嫉妬します。私は結婚したら(できたら)まず、趣味のものを跡形もなく捨てます。お願いだから一緒に死んでと言われれば喜んでいっしょに死にます。愛とはいろいろな考え方があり、私「だけ」はそれが愛と捉えています。

大切にしている趣味のものを捨てるなんて信じられない、理解できないというのは同性の女性からも強い批判があるようです。大切なものを捨てるのは到底許せないことだと。でもそれが愛情表現だとしたら私はそれでもいいのではと、批判する人を説得します。今回はそんな意図がありこんなこと言ってます。人の大切にしているものを捨てるような理解しがたい人間を理解しようとした理解しがたいブログ主であるので理解されないことは私もよく理解しています。ただ、たかが趣味のものを捨てられたぐらいで騒ぎだすようなモノの価値しか見ようとしない、人の愛情を蔑ろにする男は私は理解せざる負えないにしても、心の中では理解したくないです。