寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

最近人身事故が多い

これも時代の影響なのか、はたまた人が病む理由を見渡してみれば誰が悪いのだろうか?

人身事故のほぼ何が事故であるのかは自殺と言えるだろう。この電車に轢かれて死ぬ方法は自殺者にとっては首吊りよりも練炭よりも事を運びやすいと思う。それというのも首吊りは死ぬ場所を見つけてもいざ首に縄を括る際にイモを引いてそのまま泣き崩れて未遂に終わる率が割と高いとある精神科医師か誰か知らないが聞いたことがある。首吊りは意外と勇気と度胸が必要であり、そして死ぬまでの時間が10分も要する時がある。その一瞬にして死にたいという願いとは裏腹に死ぬまでに地獄に行く前から地獄の苦しみを味わう。練炭はこれまた辛い。溺死する以上に(溺死は息が出来なくても水を大量に飲んでしまえば失神し意識が飛ぶが練炭は息が出来なくても失神がない)、その息が出来ないで死ぬまでの時間があまりにも長い。目は不気味なほどに充血してこんなバカな真似はやめようとしても体は動かず外に出ることはできない。自分が死ぬのを改めようとしてもそれが出来ずに赤い目から涙を流しながら大変後悔し苦しみぬいた末に死ぬ。それすなわち首吊りの比ではないというではないか。ひと昔前に流行った硫化水素自殺も切腹よりも苦痛を生む(たぶん誇張であるが)というしその身体はカエルのように緑色になる。その死体の色まではどうでもいいが人間ラクには死ねないのである。飛び降りは一瞬で苦しみなく死ねるがそこまでに至る経緯で警察に説得されて未遂に終わることを考えたら手軽ではない。拳銃自殺が一番楽だと思う。しかし田宮二郎みたいな猟銃も警察の38口径も持てない人間にとってそれは高根の花。だとしたら何がいいのか? 私は結局鉄道が楽なのではないかと思う。

電車へ飛び込みは意外と勇気がいらない。何故か何かに吸い寄せられるように体が勝手に動いてくれるのだという。そのへんの心理的カニズムを残念ながら私は知らない。ただ、よく聞かれるのが別に今日死のうと思わなかったのに死にたいと思い続けていたら何やらノリで死んでしまうことができるのが人身事故もとい列車飛び込み自殺でありそこには勇気も何もいらないらしい。「死にたいかもなー」と思うだけで電車に吸い寄せられるのである。私はこれを死神が呼んでいるのではと思うほどあっさり死んでしまうことに一抹の無常を覚える。飛び込みで死ななくても四肢切断して命を拾った人間が電車が来たからとにかく飛び込まなきゃという義務にかられたと聞く。今自分の命を終わらすのに電車のホームに入ってくるあのスピードが飛び込む合図を強く自分に送っているから躊躇なく飛び込めたと言ったらしい。それはあたかも機械的に自分を殺してくれる人道的な安楽死みたいなものが電車から感じられたと。自殺で好まれるのが苦痛もなく一瞬にして死ねる、そんな都合のいい自殺方法がコレなのではないか? 自殺を思いとどまらせるのは死への恐怖である。その恐怖を電車に飛び込む人間が抱かずむしろ死ぬことに駆り立てられてしまうのがこの自殺方法の悩ましさではないだろうか? 鉄道で死ぬことの恐怖をどうにか自殺志願者に伝えることができればこの自殺は防げる…? そんな心理的課題を問うよりも物理的な解決策が手っ取り早い。ホームドアの設置である。つくばエクスプレスは2005年開業だが今に至るまで私の知る限り人身事故で死んだのは一件しか記憶にない。鉄道の利用客数とかこの際関係なくてつくばエクスプレスで自殺がないのはホームドアの存在があるからだと結論付けたい。だからどうにかして東京の全駅にホームドア設置を大変強く願うしそれで都税が上がってもいい。だが設置しないわけは「面倒だ、金がかかる、それに人が死んでもこちらの責任でもないし自殺するほうが悪い」という理由があるのだろう。こういう態度は今の日本社会、いまだに変えことができていないのは自殺者がクズ扱いされているからである。こんな態度だからホームドア設置がままならないのである。人間が人間を見下すのは文明社会の弊害だろうが自殺者には人としての尊厳はないと言いたいのだろうか? ダイヤを乱した迷惑な存在でしかないのか? 迷惑ならばその迷惑な人間を出さないように極力努力でもすればいいではないか?

3月30日午前11時51分新宿駅8番線中央御茶ノ水東京方面にて人身事故が発生した時私はそこにいた。東京で暮らしていて最も後悔する時間。もう東京で暮らしていればこれだけは馴れないし、むしろ馴れてはいけないのだと思う。死んでしまったものはそれも仕方がないと他人事でいられない、何か同情してあげないとダメなのではないだろうかと。死んでしまうことに対して同情してあげられるのは人としての優しさだと思う。いや思うのではなくそうであると。血は水より濃しというように所詮他人のことなどどうでもいいと思うのではない。その後池袋で降りたら今度は京急で人身事故。そうやって続けて人が死んだかは知らないが死を連想するような事故が起こるたびに私の気持ちは沈む。それなのに街の様子は人々の笑顔で歩いている新年度に向けての何か明るい楽しい出来事があるのだろう。そういう人は人が死んだ姿を知っているだろうか?

人身事故で死んだ人間を見たことある。見たくなくても見てしまう時がある。人の形ではないただの血まみれの肉を見た。けたたましい警笛に電車にぶつかる鈍い音の後周りは大声で叫び狂うのだが私は叫ぶことは出来ない。その肉を見ては膝から崩れ落ち茫然としてた。いつの間にか駅員室につれていかれいろいろ聞かされたりしていた。けど答えるのは人が飛び込んで死んだという事実だけしか答えられない。その日は仕事を投げ出しタクシーで帰り飯も風呂もなしに寝る。寝ることで忘れればどんなにいいことか。1週間は、酷ければ1か月は尾を引くしその間ネットも何も見ることはない。人の死を生で見るというのは人身事故だけしかない。書いていてしんどい。人身事故で電車が遅れて迷惑だとかTwitterで愚痴るのはまだいい。許せないのがそういう事故をあえて無視してなんか今日は楽しかったなどとTwitterなどでその出来事に対して無関心な態度をとる輩。同情も非難もしない自分のことだけしか興味ない連中。血は水より濃し。私はこの言葉が嫌いだ。人を殺すのは加害者だがそれ以上に無関心な人間が人を殺している時もある。助けてやればいいのに無関心でいるからその人は助けを求められず死んでしまうのである。私はそんな無関心な人間どもを鬱病にして殺してやりたい。もう二度とTwitterでヘラヘラ笑いながらの投稿を出来ないようにしてやりたい。