寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

鬼滅の刃を支持する理由それは悪にも同情できる主人公の優しさ

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5巻 第43話182-183p 184p

 


私は鬼滅の刃の本質はここにあると思う。鬼に家族を惨殺されて妹が鬼にされた挙句大切な妹を傷つけられ奪われそうになった主人公がこうまで自分を痛めつけた鬼を庇う言葉を投げかける。ジャンプ史上多くの売り上げを誇り支持を受けたというならば私は主人公炭治郎の大いなる優しさがあったからではないかと思う、てか思いたい。この件については語りだすときりがないので手短に済ませるが、私も数多くの漫画を読んだ気がするがこれ程思いやりのある優しい主人公は鬼滅の刃以外ではあまり記憶の中にない。

善悪という二元論にも悪は絶対に悪として捉え決して許さないとする考え(絶対主義)と悪であることは認めそれを許さないとしながらもその悪になった原因に情状酌量の余地があるのではないかという考え(相対主義)がある。私は一貫して後者の側であり絶対主義は普遍的な考えではなく時として加害者をも傷つける過剰な思想だとして懐疑的である。しかし私の思いは間違いであるかのように今のネットが発達した今日、他者を思いやる優しさというのは日常生活など特にネットでは感じられないし許容の範囲があまりにもなさすぎるのだ。何か悪いことをしたら相手の反省を受け付けない過剰な絶対主義的正義が蔓延している(ラジオでの岡村の風俗発言)。許されざる問題ではあってもそれは何らかの無自覚な過失である場合がある。人を故意に傷つけようとしたわけではないのにその弁明が許されない、誤りを認めようとしない何とも共感性の乏しい社会だと感じる。悪気もなく素で間違えてしまう人を許せないとする根拠は何なのか。正義感とも違う狭量とも違う、たんに相手の落ち度を叩いてストレスを晴らしたい荒んだ性格がそうさせるのではないだろうか? あぁ話が逸脱する。

炭治郎は鬼に家族を殺されたのに何故鬼を庇うようなことをするのだろうか? その悪が必ずしも悪ではないことを知っているから。知っていてもそれで今までの罪が許される訳ではないと感情任せに押し切ったりはしない。鬼が悪になるその生い立ちに憐れんであげる、理解してあげる共感性が大いにあるからこそこ鬼は虚しい生き物悲しい生き物だとどちらの味方なのかわからないような言葉が示せるのである。炭治郎のように道を誤った人間をそうやって悪に染まった人間を何らかの諸事情があってそうなったのならば慈悲をかけてあげれる人間はいるだろうか? そんなの自己責任だ、他罰的な態度をとるな甘えるな、そんなのを許してしまえば今まで真面目にやってきた人が損をする、そんな社会は許さないと強く突き放すことのほうが今の日本社会では主流になるだろうか? 私はそんな社・会・の・ほ・う・こ・そ・許さない。

私はたとえ悪であっても悪と決めつけたりしないない主人公の宿す優しさがあるからこそこの漫画を好きだと言えるのである。慈愛と優しさに満ちた懐の大きい主人公のように私はなりたいと思うのだが、もしこの鬼滅の刃という漫画が売れたというのならば私と同じ思いであればいいなぁと思いながら一人静かに読んでみた感想です。