寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

決して言ってはいけない言葉だってある

ガンジーという映画を見た。題名の通りガンジーの生涯を描く映画なのだが、まさかガンジーについて知らない人はいないと思うが。インド独立に父にして国父と呼ばれたガンジーとは血を流さずに国の独立を勝ち取る「非暴力、非服従」の精神が大いに語られる。おおよそのストーリを説明しようかと(長くなるが…)。

当時は大英帝国と讃えられた超大国イギリスのもとにインドは属国植民地にされた。インドの民衆はそんなイギリスから独立を目指すがインドは三角貿易の重要拠点でもありエリザベス女王の頭上に輝く王冠と目されたほどイギリスにとっては大切な領土とされてた。インドの独立などイギリスにとっては言語道断とされ独立の機運はイギリスの強硬なまでの弾圧にことごとく潰されてきた。

戦ってもどうせ負ける。戦っても負けてしまうのだから独立は不可能なのか? そんなインド民衆の挫折した心を立ち直らせ新たな戦いで独立を目指す、その戦いとはイギリスに暴力は振るわなくてもイギリスに服従はしない。暴力で訴えても駄目ならば従わなければいい。そうすればイギリスのインド統治は破綻する。インドがイギリスの為に行動しなくなったらイギリスにとってインドなんて何の価値もないからだ。ガンジーはそのことに気が付き、それを実行した。

個人的なことを述べるがガンジーこそが真の独立の父として讃えてしかるべきである。幾たびの国父と呼ばれた英雄は血を代償に民衆の犠牲にして独立を果たす。ガンジーはイギリスとの戦争をなさずに、民衆に血を流させずに独立を勝ち取った。ガンジーの偉大さはここにあるのではないだろうか? そしてこの非暴力、非服従運動は大変な忍耐を伴う。何せ殴ってきたイギリス兵に対して何も手を出さず怒りの感情を懐いてはならない(これはインドではサティヤーグラハという思想といわれ黒人の公民権運動で知られるキング牧師も生涯において手本としてきた)のだから人は感情の動物といわれるのであれば耐え難いものだっただろう。それを乗り越えれたのはインドの民衆の願い「独立」を目指してガンジーに従ったに過ぎない純粋なる心があったからこそ。ガンジーは全インドの民衆を味方にした。民衆は自分の感情を殺してまでガンジーに従った。だからこそ独立を、インドは成し遂げた。

しかし、ただガンジーでさえも果たせなかったことがある。

イギリスはは第二次大戦が終わるも戦争の痛手から国力は大いに低下して冠たる大英帝国の称号も黄昏と化しつつありガンジー独立運動も衰えを見せずついにイギリスはインドを手放した。天に喝采をあげたインドの民衆。これで戦いは終わったかに見えた。しかし、インド独立のために戦ってきた同志たちはインドの独立が叶うとたちまち反目した。それはインド国内におけるヒンドゥー教徒ムスリム(イスラム教徒)の宗教対立である。今日の友は明日の敵とは人間とはなんて身勝手な動物だろうか。ガンジーはインドが独立しても同じインドに住まう民衆同士が争うことに大変心を痛めた。ガンジームスリムらに譲歩を提案する。インド国内におけるムスリムの数が多い地方の分離独立を容認しその地方が今のパキスタンガンジーとしてはとにかく争うことを嫌ったがゆえの判断だが国土は分断され民衆は同じ教徒らが住まう場所に向かうため流浪を余儀なくされた。

それでもヒンドゥー教徒ムスリムの対立は無くならなかった。独立運動から片時もそばを離れずガンジーを師と仰いでいたネルームスリムに対するガンジーの融和策は優柔不断で問題を先延ばしするだけに過ぎず、ガンジー自身はヒンドゥー教徒なのになぜ異教徒に優しくするんだと、強攻策をとってもよいのではと疑問を持つようになった。ガンジーは今一度インド全民衆の結束を促すために断食を行う。断食を行うガンジーの周りにはガンジーのいつまでもムスリムに優しくする態度に業を煮やしたヒンドゥー民衆が取り囲みガンジーに対して野次を放つ。ガンジーに寄り添っていたネルーも彼らの野蛮な態度に心を痛めるも内心彼らにも同情もした。

さて長々と語ってきた私がこの映画の中で最も心を打たれた場面がやってくる。

ガンジーは断食を批判するかのような怒号を放つ人々の中にいる。それでもガンジーはその言葉をただ聞いているだけである。その時、誰か一人が言葉を放つ。

ガンジーを殺せ!!」

その言葉をネルーが耳にしたときネルーの顔色が一瞬に変わった。血相を変えて民衆のほうへ身体を投げ出す。そしてネルーが民衆に凄まじい剣幕でこれまで口にしたことがないほどの大声で

「今ガンジーを殺せと言ったのは誰だ!! 今ガンジーを殺せと言ったのは誰だ!! いったい誰だ!! 殺すなら私を殺せ!!!」

それまでネルーが見せたことのない顔に民衆は誰も言葉を放たなくなった。ネルーがこれほど感情をあらわにしたところを見たことがなかった民衆は俯くしかできなかった。このシーンはこれ程激情に駆られたネルーの演技に心揺さぶられる。こんなシーンは他の映画では私は見たことがない。

インド独立のためにひいては民衆の為にガンジーは戦ってきた。それなのにガンジーに対して恩をあだで返した民衆にネルーは怒りの感情を懐いてはならないという非暴力の精神をもう一度呼び起こそうとそう叫んだのだろう、と私は解釈する。ネルーは史実で「人を殺して何になる。憎しみは何も解決してくれない。憎しみなど忘れるべきだ」と語っている。殺しはなにも解決しない。それなのに殺せと叫んだことにたいして怒りを露わにしたネルーだからこそのシーンが私がこの映画の好きなところです。

それと別な角度でこのシーンを考えてみる。思っていても口に出してはいけない言葉を平気で口に出すその愚かな様である。ガンジーがどれ程インド独立のために尽くしてくれたか、インドの民衆は誰もが知っていることでありそれを否定などできやしない。インド独立の父としてガンジーとは民衆にとってはガンジーに足を向けて寝られないのである。それなのにいとも簡単に殺せとガンジー自身に言い放つことは自分の都合が悪くなれば人に八つ当たりする、それが自分のなかで最も尊敬する人物にたいしても憎らしくて敵になる。これ程恩知らずで魂を失くした所業は人間の屑である。確かに偉人に対して不満を持つものは人間の千差万別の感情ゆえ仕方がない。ただ、だからといってそれを言葉に出していいものなのだろうか? 人の魂を一瞬に打ち砕く言葉がある。言葉とは時に刃に勝る凶器になる。だからこそ口を慎まなければならないのである。もしその言葉を口にしたならばただちに実行して殺害しなければならない。ガンジーを殺せと言ったのならば言葉通りに殺さなければならない。いや、別に殺すつもりではなくて脅し程度で殺せと言ったに過ぎない? そんな言い訳は通用しない。何故なら玉に付けた傷は磨けば消えるが言葉に付けた傷は決して消えないからだ。冗談交じりで放った言葉でもその言葉を受け取った側からはそう冗談に聞こえないことだってある。言葉にも責任が生ずる。それを知らずに冗談で言うくらいなら最初から決して言ってはいけないのである。言うとしたらその覚悟が十分ある時である。

その覚悟があったのだろう…。ガンジーは狂信的なヒンドゥー教徒に銃で撃たれて死ぬ。

人間とは理性ではどうにかなるものではない。怒りは理性をも凌ぐ。だから私は怒りの感情がとても恐ろしくて嫌いなのである。私が思うに決して言ってはいけない言葉はそんな怒りから生ずる。そんな怒りに対しても、だからといって殺す覚悟もない癖に殺すという言葉は絶対に私の中では許せない。大切な人が誰かに殺せと言われたら私はネルーのように私を殺せと絶対に言う。

今のネット社会もひどい言葉が溢れている。それを見てしまうと気持ちが落ち込む。ただ、どうしても、確かにその通りだとは思っていても言葉に出してほしくない言葉がある。何なのかは具体的に言いたくないが特定の人たちを言葉で傷つけている愚かな人間がネットに多い。軽々しく冗談では済まされない。人の心を傷つけておいてそしらぬ顔をしている人間がいたとする。そんな人間に対して私からお願いしたい。

どうかその言葉を発する前にもう一度言葉の重みと責任を考えて欲しい。その言葉で人を傷つけるかもしれない。決して言ってはいけない言葉ぐらいわかるはずである。それをあえて無視するようであればどうか人間を止めて頂きたい。

最後にガンジーという映画は私が第一に挙げたくなる映画です。何か怒りを感じた時に私はこの映画を見ることにしています。映画を見終わったときに当初抱いていた怒りは何故かなくなっている時が多いです。怒りなんて人間の一時期の熱狂。もしかしたら映画でも見ていれば怒りも自然と消えてしまうだけかもしれません。

 

 

ガンジー (字幕版)

ガンジー (字幕版)