寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

楽しみも死んでしまえば意味なし

これからの休みの日は外に出たくない。バカに車で轢き殺されるなんて御免だ。自分の命は自分でどうにかしたいのに他人に殺されるなんて屈辱以外の何物でもない。

 外に出ると事故や事件に巻き込まれる。それを覚悟のうえで人々は出かけたりするのだろうか。もしかしから明日、バカ老害が運転するプリ○スに轢き殺されるかもしれない…そうした予期せぬトラブルも頭に入れて…それを理解したうえで外に遊びに行くという…果たしてそうした考えの人はいるのだろうか…。

私はいつもそうしている。交差点で信号待ちしている時、走る車をよく見ていてるし、あまり道路に近づいて信号待ちはしていない。どこか一歩引いた位置から信号待ちしている。ビルの工事現場では常に上を向いて歩こう。涙がこぼれないようにそうしているわけではなく、ビルからこぼれた外壁が頭に当たったりしないようにするためである。駅のホームでは精神薄弱者に「逃がさんピョン」と抱きつかれてホーム下に転倒して電車で己の身体がたたきにされないように常にホームの真ん中で電車を待つ。怪しいアサシンクリードみたいなフード付きを着ている人間とはなるべく近くですれ違わないようにしている。辻斬りされるほど私の身体は丈夫ではないからだ。あとは地球の活動に注意をしたいものだが大地の揺れだけは人間にはどうすることもできない。地震とか自然の力で殺されるのは天が決めたことであり天命であるのだから、その天命に従う。

好事魔が多し。死は望むと望まないにかかわらず突然訪れるものである。それはこの連休中かもしれない。連休中の事故、果たして自分は会わないだろうとどうして言えるのだろうか? もちろん「この遊びは死ぬこともあるだろうな」と思いながら楽しむのは興がそがれる。そこにつけ込むのが死神というもの。浮かれ気分はどこか自分の命を気にも留めなくなるその瞬間が恐いのである。私は連休で人が死ぬのがことのほか嫌なのである。だから皆に注意してほしいだけである。遊びに出かけて死ぬとなれば親は遊んで死ぬために我が子を育てたことになる。それは親不孝の十乗である。

私は連休中外に出ている人の幸せそうな顔を見るのが嫌だから籠ることにしている。その外に出ている人の幸せそうな顔がそうでなくなる事故をニュースで見るのはもっと嫌である。もう事故で死ぬなんて、もうよいではないか。そんな事故に遭うくらいなら私みたいに引きこもっていたほうが長生きしようものなのに。