寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

たまに言い出したくなる漢詩

道喪(うしな)われて千載に向(なんなん)とし

人人 其の情を惜しむ

酒あれど肯(あえ)て飲まず

但(た)だ顧みるは世間の名

我が身に貴(たっと)ぶ所以(ゆえん)は

豈一生に在らずやた

一生 復た能く幾(いく)ばくぞ

倏(たちまち)流電の驚くが如し

鼎鼎(ていてい)たり 百年の内

此れを持して何をか成さんと欲する

 

この漢詩は中国史における魏晋南北朝時代の詩人陶淵明の「飲酒二十首」という詩の中の第三首である。中国の詩人で酒と言えば李白が思い出される。「酒に対しては当に歌うべし、人生幾何ぞ」と言えば三国志ファンなら知っていてもおかしくない曹操の短歌行も傑作中の傑作である。李白の酒には豪快且つ放漫主義が見て取れる。それは酒に酔いながら夜に舟遊びをして水面に映った月を手にとろうとして溺れたことからも存分にその人柄が窺い知れる。かたや、陶淵明の酒とは李白のようなものではない。孤独で落ち着きながら一人静かに酒を飲むという独酌独飲というものであったという。そして、健康を欲し長寿を願い、生活苦で困るにしてもどうしてもやめたくてもやめられない「忘憂の物」が酒なのであるとした。陶淵明の酒に対する思いとはそんなところだ。

 遅ればせながら、先に紹介した漢詩の意味は

 

「昔の純真素朴な道が失われて千年の月日になり、今の人々は心の奥底の本当の気持ちをさらけ出したりはしない。酒があるのにそれを飲もうとはせず、ただただ、世間の評判や自分の体面ばかりを気にしている。しかし、自分のことを大切にしていこうものならば世間の評判などではなく己の命ではないか。しかしその一生も長いわけでもなく、稲妻のように駆け巡る速さではないか。そんなたちまち過ぎ去る一生に至って、世間体ばかり気にして何になるのか」

「そんな人生だからこそ酒を飲んで大いに楽しめばいいではないか」

 

※意訳してます

 

酒飲んで人生楽しめと言いたいようだが、私には自分一人孤独に酒を飲んでいる印象の陶淵明が厚かましくも他人に口出ししているかのような語り口はある種、矛盾であると感じられる。陶淵明は昔官吏をしていて政界というか世俗に嫌気がして下野し余生を静かに暮らした、いわば世俗を断った詩人とされるが、どうしても自分の考えを世俗の人間に愚痴るのであれば、まだまだ世俗に未練があるのかなと。他人にどれこれ物を言うのなんてどうでもいいだろうというのが隠者の心得の気が私はするからそう思うだけである。けど、自分の考え方を主張するのは自分というものを確立するのに、その人個性が伝わってきてとても楽しくて面白い。その意見の是非賛否はともかく、自分の気持ちを語れるのは人間として当然持ち得なければならないと思うわけで…。でないとつまらない人間として私ならシカトします。

私は漢詩が好きなんです。なんで好きなのと言われれば、漢詩の感受性が好きなのです。古今東西、詩は人の心を打つのです。その詩に至っては漢詩が私の中では特に好きです。日本の和歌も好きですが、漢詩のほうが若干好きですね。

さて、陶淵明という詩人、昔は宮勤めをしていたわけで劉裕という人物に仕えていたが、この人物の政治的野心に嫌気がして、布いては世の中そのものに嫌気がして人里離れて自然豊かな田舎で細々と暮らしていたわけだが。そんな陶淵明だからこそ、世俗を痛烈に非難する詩もある。飲酒二十首のうちの第六首の詩である。

 

行止(こうし)は千万端

誰か非(ひ)と是(ぜ)とを知らん

是非 苟(いやしく)も相形(あいあらわ)るれば

雷同して共に誉毀(よき)す

三季(さんき)より此の事多し

達士は爾(しか)らざるに似たり

咄咄(とつとつ) 俗中の愚

且(しばら)く当(まさ)に黄綺(こうき)に従うべし

 

「人間の行動というものは千差万別であって、どれが非でありどれが是であるか誰もが知るわけではない。それにも拘らず、ひとたび是非の論争があれば人々はその結論を出そうとしてそれどれの考えの者たちに俗人どもは附和雷同して誉めたり罵ったりしている。三季(夏、殷、周王朝の三代が終わった後)からこのようなことがなんと多いことだろう。しかし物事に分別がつく人物はそんなことはないだろう。俗世間の愚者どものなんとあきれ果てたことか。まずは自分としては黄綺(秦の始皇帝の暴政に憤って商山という場所に隠棲した夏黄公と綺里李)に従って隠遁生活を送ることだろうに」

 

※意訳してます

 

このような世俗のあり方に疑問を持ち、そんな世俗からは離れておきたいという内容の詩である。俗界を離れて仙人のすむような世界にあこがれを抱いて詠むような遊仙詩(郭璞のものが有名)にも全くに似通っている。要は俗っぽいものが嫌いだといいたいわけである。この詩で陶淵明が「俗中の愚」というのは、必ずしも一般人のことを意味するのではなく、おそらくだが、たぶん、政治社会のことを言っているのだろうか。当時、東晋の政治の実権は劉裕の手中にあったが、大小の政治家が附和雷同してその劉裕を賛美して追従していることが陶淵明には我慢ならなかったのであろうか。

さて、政治というものが私は嫌いだが、そうなのである。この詩を紹介してまでここで言いたかったのは陶淵明の言いたかったことと同じである。政治とは相手を言い負かさなければならないので、それが苦手でそれが嫌いなのは私の勝手であり周りに言い聞かせられることではないのだが。しかし、自分と違う意見を述べたぐらいで「でたらめな奴」とか「分からずや」とか否定しながら自分の信仰している考えを他人に押し付けてそれが受け入れられないとなればその人を憎むことが鼻持ちならないし、それ以上に悲しい。自分の意見を主張するのはいいが他人の意見を尊重できないのが主張という言葉に託されているのだろうか。そこまでして他人を排除していかなければならないほど危急存亡の秋なのだろうか。

私は何の才能がなくて自分で言うのも何だが正直馬鹿であると思っている。だからこそ、馬鹿だからこそ、多種多様な意見がある中でこれが正しいとは言えないのである。にも関わらず、多種多様な意見がある中でこれが正しいと絶対的に自信をもって言えるほどの頭の良い方が私には羨ましく思エル。そんな妬みから私は「俗人ども」と陶淵明の詩を利用してしまうのである。