寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

好かれないから殺すのか・・・

人間が人間を殺すのは人間ではなく元が動物だからだ。動物に理性を求めてどうするつもりだ。人間とは虚構に過ぎない。

どこか間の抜けた言葉を瞬時に考え放ってみたが、これまた意味が伝わりにくいと。意思がはっきりした人間なら尚更人を殺してはいけないと理解してもいいはず。それじゃなかったら、人とは呼べず、動物なのだろうか?

東京都小金井市のイベント会場にて、若い女性がそのファン「だった」男に刃物で全身20か所刺される事件。いい加減この20か所も刃物で刺す、その根性は何なのか? そこまでしなければ魂が救済されないのか?
この刺した男なんて犯罪心理学、精神医学の本を読んでれば、妄想性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害であることがニュースを読んで3秒以内で理解できる。それにもまして複合的に諸所の精神疾患を患っているだろうか。こんな人間いないほうが当たり前でありたいのが社会の都合のいい仕分けなのだが、残念ながらこういう人間はいる。問題は人に危害を加える人間と加えない人間がいて、そのボーダーラインは、それをどう超えれば、人を殺すに至るのか。けだし、精神病でも殺す人間と殺さない人間がいる。今回なぜ人を殺そうとした? 同じ精神病の私でさえ、考えがまとまらない。

人を殺すのは実利行為、利潤目的が古来からの習わしだった。賊がその確固たるもの。それが、文明を発達させるにあたって、金品目的、自分が出世するために、邪魔ものだからといったヤクザ目的な殺害以外の殺人を防げないのは、人間の愚かさゆえである。自分が何も得にならない殺人をするようになった今の人間とは昔の人間よりも、むしろ退化している。何故、人は人を殺すことかできるのか。何で殺したりするのと疑問に思うのは愚問であるのか。何故殺したと思うのは己の価値観からしか判断していないから。正常な人間が判断するから疑問に思うわけで、人殺しの心理は非正常な判断の着想を得なければならない。それを理解しても今回の逆恨みとも思える動機の所在は、通常の人間ならば「頭がおかしい」という判断を下し、懲役15年相当と感じてしまう。そうではなく、なぜ、そこまでして女性を刺したのか、その過程を紐解いていくのに心理学、精神医学に今回も私は頼ってみたが、人格の決めつけは余りよろしくないのだが、精神病だからだろう。けど、やはり私はこの男の動機がいまいちわからないし、切問近思。殺そうというまでいかないだろう普通はと思う。もし考えるとするならば・・・。

桜田淳子の歌には「しあわせ芝居」というのがある。その歌詞が私は好きで、メロディアスな旋律は哀切で痛切で切切たるものである。

しあわせ芝居というのはある女性がある男性に恋心を抱き、女性はその男性に好かれたいがために、いろいろ絡んでくる。男性もそんな女性の心情を理解してあげて、ともに付き合ってあげる。女性が泣いて電話を男性にかけたら、男性は慰めてくれる。女性が眠りたくない気分には男性は物語を聞かせてくれる。わがままな女性に男性は優しくて、そんな女性のほうは「この男性が私の彼氏」と紙に書いていいくらいの間柄・・・だと思ったがそうではない。女性は男性を好きであったが、男性は女性を好きではなかった。残念ながら片思いなのに、どうして恋人と言えるだろうか。そんな幸せな芝居を演じさせられていた。男性は女性を弄んでいただけで、ほかに好きな他の女性がいた。それを女性が知ってしまった。その証拠に男性から女性へアプローチはない。男性のそんな受け身のだけの態度に女性が冷めていく愛の儚さを歌った歌詞は、今なお時代が過ぎていこうとも私の記憶のうちにさまよい続けるだろう。

さて、突飛な物言いかもしれないが、この事件はこの歌詞を照らし合わせて、重ね合わせてみると、余りにも悲劇過ぎで、決して許されない同情を発してしまうことに許しを。

ようは刺した男が、好意をもった女性にうわべだけで付き合わせれてた、自分の愛を受け入れてもらえなかった点がしあわせ芝居という歌と同じだったか。こっちが好きなのに向こうは好きではなかった。その裏切りが許せるならば歌を歌って悲しむだけだが、裏切りは大変な憎悪を招き、そして殺す気になってしまう。いや違う、女性は男からの贈り物に嬉しがる素振りも見せず、男のTwitterのリプも無視しているから、うわべでも接していない。嫌われているのだ。しあわせ芝居の男性みたいな態度を取れていないなら、男は尚更女性に嫌われていると自覚して、それならば身を引くべきなのだ。嫌われているのに、いつまでもグチグチ恨み言を放つ蛆虫みたいな性格のこの男が私は嫌いだ。嫌われる勇気がない、その甘えた性根許さない。それなのに、そういったことがわからないから事件が起こったに過ぎない。

私も人から好かれたい。才能とか実績とかでなく、真に性格、人格とかで好かれたい。だけど、本や時計を送って好かれようとするのは相手を考えていない。相手から自己に好意が訪ねて来た時こそ、「己は好かれている」と自覚する。相手が好いて寄ってきてこない限り、こちらから相手に寄っていくのは相手を傷つけるだけ。それをすると、だから私は孤独なのだろう。人が寄ってこないのは相手が私のことが嫌いだから。本や時計をあげても無駄なのは刺した男が嫌われているからだ。精神病の私でもわかるのに、なぜ刺した男は嫌われているということを自覚できないのか?

それでも、それでも、いつまでも「しあわせ芝居」を演じ続けるその男の胸の内は、しあわせ芝居の現実を受け入れたくない本当の愛を探し続けようとしたのだろう。本当に愛していなければ殺してまでその女性に関わろうとはしない。愛が冷めて悲しむことが正解であるのに、殺してまでも執着した愛が不正解。愛の奥深さが不正解だったのは、愛をあきらめるしかないのか。愛の何たるかを知らぬがために起きた悲劇的装いに対して、私が思うに加害者の男の愛は確かに存在した。ただ、その方法、手段を間違えたに過ぎない。だったら法で裁かれてしまえ、と。

そんな刺した男の愛だけは私は否定しないでおこうと、心に思ったことである。そもそも、愛とは善悪で判断できてしまうほど単純なものではない。私は愛が関わってくる犯罪に対して、この上なく甘く被害者を省みれないと見て取れる。犯罪者に同情することもなかれ。ならば、私から問う。

なせ人は人を殺すのか?

この答えにできるだけ多く答えてほしいものであるが。私の考えには及ばないその答えが聞きたいものである。