寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

同じ趣味を持つ者同士は仲良くなれない。何故なら二人の性格が違うからだ・・・?

「どうすれば人から好かれるのか」という、いわば対人魅力と好意的人間関係について周囲とよい人間関係を持つにはどうしたらよいかという答えは社会心理学においては次に示される。

外見的魅力
容姿のいい男女は多くの人から好まれる。美しい人に魅力を感じるのは心理的要因はそれ自体が魅力的であり人に快感を与えるから。いうなれば、イケメン無罪。

接近性と接触性
人と人との出会いは物理的に近いことにより始まる。最初の出会いがなければ始まらない。ネットで交流するよりも実際に人と人とが会って接触することによって、単に顔を何回か合わせただけで、見たこともない人よりも好意を持つようになる。これを単純接触の効果という。ならば、オフ会とは交流の重要項目であろう。

自己開示とコミュニケーション
出会った二人が互いに好意を持ち、関係を親密化させるのは相互のコミュニケーションであり、言語的と表情仕草の非言語的コミュニケーションがある。話すことで自己開示につながり、好意が生じる。自己開示とは自分に心を開くこと。自分をさらけ出して自己をアピールさせるのが、こと関係を深めるとする実験結果もある。

好意の互恵性と自尊心の確認
どうしたら人に好かれるのか。社会心理学の答えは相手の人を好きになるようにすること。理由は好き嫌いの感情は強い互恵性があるから。もし相手が自分に好意を持っていることがわかれば、自分も相手に好意を持つ傾向がある。好意は好意で帰ってくる(好意の返報性)。好意を示す方法は相手の自尊心を高める、いわば称賛すること。「ほめられると好きになる」はアロンソンとリンダーという学者の実験結果からも明白である。

類似性と相補性
初めてあった二人が好意を持つには両者が親しみを共有できる話題が重要になる。いわば、趣味の合う仲間だなということを示せばよい。同じ趣味、好きなスポーツが同じだと、人は、相手と自分の類似性や共通性を見だした瞬間、安心し、好意が生まれる。ハイダーの認知バランス理論とは趣味が同じ人に好意を持つが、趣味が異なったり、意見が対立していると相手の人を嫌いになる。初対面など初期のつき合いにおいて人から好かれようとするなら、できるだけ同一趣味や同一関心事と共通のものについて話し、対立する話題を避けること。また社会的交換理論では、類似している人は心理的報酬をもたらすとしている。いわば、「類は友を呼ぶ」である。

不協和心理の解消
困ったときに助けてもらい、窮地を脱することができたら感謝の気持ちで一杯になることは自明の理か。助けてくれた人に好意を持つこと以外にも、実は心理学において助けた人も、また助けてあげた人に好意を持つことが実験で明らかにされたという。エルトゥールル号遭難事件は日本とトルコの友好性を顕著に示すものであり、この考察は納得するものである。また、人は通常好きな人を助け、嫌いな人に対してはそのようなことはしないと考えられている。ところが、好きでもない人を助けてしまったとするならば、心の中で「自分は好きでない人を助けてしまった嫌いな人を助けるはずがない。けれどもしかしたら自分はこの人に好意を持っていたのだ」と心理的に解釈し、行動と考えのつじつまを合わせるために、行動に合わせて考えを変えて協和状態にする。これ言うならば、そう、ツンデレだ。二人が不調和でも、行動を変える、考えを変える、新しい考え方をするという三項目により、不調和は解消される(好意形成の認知的不調和理論)。

興奮の帰属錯誤
恋心は特別である。一目惚れは生理的興奮が伴う。人が情緒を感じるのは、生理的興奮と状況的判断の二つの要因によって決まるという(吊り橋実験)。人は情緒を感じると生理的興奮を伴い、その興奮は何によるものかと判断し情緒が決まる。このため、もし状況が曖昧で人が自分に感じている生理的興奮が何によるのかよくわからないときは、間違った原因帰属がなされ、間違った情緒を感じることが往々してある。異性に対して生理的興奮を覚えたら、それは一目惚れしてしまったのだと。別に気の迷いなんかではない、何となくではない、と瞬時に判断、そして恋心に。好意と恋愛の違いは情熱ないし、感情的興奮であり、人に興奮してしまえばそれは紛れもない恋。誰彼構わず惚れちまったら負けなんだよ。


以下に物申す。残念ながらこの社会心理学的見地は間違いであると私見である。それは結局裏に潜む性格が合う合わないで仲良くなれるか否かが決まるといえるからだ。たとえ外見が良くても性格が悪ければ仲良くなれない。結局先に挙げた項目も、性格の不一致でもろくも崩れ去る。何故なら人間とは感情の動物で、感情とは自然科学のように絶対ではない。社会心理学の杓子定規の捉え方はまるで自然科学。自然科学に普遍性は存在しても、人の感情性格は普遍性は見当たらない。それが一人一人の個性を持った人間だから。だから、合う合わないは個性がある限り存在する。好意を生じる主な対人的要因の七項目、これを遵守なんてうわべだけにすぎず、無駄ではないか。社会心理学とはなんて役立たずの学問なんだと霹靂する。

何故、こんなこというのかというと、人の好き嫌いは小手先だけの詐術で解決できない、その難解さに深いため息が出てしまったからだ。特に類似性と相補性という「趣味が同じならば仲良くになれるという」のにちょっと裏切られてしまったことが痛切だった。やはり趣味なんかよりも自身の人望、仁徳を磨かねば。しかし、これは天性のもの。口惜しや、私にそれがない。ああ、真に人から好かれるには天性の才を持ち合わせてなければならぬ、そのことへの、それに対する、それがない人間は好かれないとするならば、やはり私は嫌われていく覚悟が必要であった。ここ最近のゴールデンウィークはまるでいいことがない・・・。

人は自分と似ている人が好きだと思う。私は自分と似ている人がいないのだろう。だから私は好かれない。私が変わり者だから、私みたいなのはいない。私と似ている人がいない。だから私は好かれない。

理由は単純にそこだろうか?