寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

オタクに恋は難しいというのはオタクに恋というのが少し遠い存在として映っているから

難しいのはオタクは恋の仕方を知らないというか恋に不器用。それ故に、いざ恋をしようものなら純愛ラプソティーになる。

以下、オタクに恋は難しいという漫画について。

昔同僚の女を泊めたことある。ゲロ吐くまで酔っぱらってたからだ。そんで私は女に自分のベットを貸してやり、自分は台所で寝た。朝が明けて女を見に行くと顔が真っ赤で目が腫れぼったかった。あーあ、まだ当分酔いはさめてないなと思っていたら、「いくじなし・・・」と言われた。私は「ゴムねぇよ(笑)」とフラグをへし折ってた。その女は腐女子だった。このように私も女オタクもなんとまぁ、不器用なんだなと当時を振り返ると、ああ惜しいことしたなと今なお悔やまれる。ヤりたいんなら襲ってこいや。それができない。ああオタクとはなんてウブなのだろうか。これが「恋は難しい」という所以なのか。ちなみに今では涙目になりながら女の胸を揉んで楽しんでいる。

電車男という書籍があった。オタクが「好きになった人がいる。どうやったら恋が成長するのか?」という質問を2ちゃんに書き込み、それを読んだねらーたちがそのオタクにいろいろアドバイスしてそのオタクの努力とねらーたちのアドバイスが功を奏して最後には彼女と結ばれる、といった長期にわたるやり取りを綴ったスレを書籍化したもの。この書籍から読み取れるのはゆえに「純愛」である。最近の恋というのはすぐにSEXに結び付けたがらせる。好きになったらSEXして終わり。こんな淡白な恋はないだろ。SEXとは恥ずかしくなるような経験を十分に積んでからSEXするのであり、そのたまりに溜まったいじらしい「純愛」をSEXという形で開放するそのカルタシスたるものは、ヤりたいから付き合うという前提で彼女作る人間にはわからないだろう。何が言いたいかというと、純愛してこそ愛。SEXしてこそ愛ではない。意味不明ならそんでもいい。電車男はそのいじらしいまでの純愛、恋の歩み方がものすごく真っすぐで率直だったから、そこがヒットの要因だと思う。

このようにオタクとはいざ恋をするとヤりたくて付き合うどっかのDQNカップルとは違い、お互いの表面から内面までわかり合っていくために愛という形を用いて、建設的な付き合い方をするのだろう。それが純愛である。お互いのことをよくも知りもしないでヤるだけのサルみたいな脳みそしてないから、私はオタクの恋とは好きである。

この漫画は純愛である。小さいころからの友達である男女二人は、小さいころは意識していなくても、大人になって恋にというものを知る。その設定があるだけでストーリーの良し悪しにかかわらず純愛である。ストーリーについては好き嫌いが分かれる作品であり、好きな人もいれば嫌いな人もいる。これは読んでみたら私には当たり前すぎるのであえて作品の長短は言わないでおく。

それにしても男オタクというのはセーラー服のボタンの外しかたも知らないし、ブラウスの脱がし方もわからず、そんなことでパンツ脱がせることができるか。女は女で、いつまでも先に男からやってくる指示待ち人間で、期待させておきながら自ずと拒否して逃げ出す。ホントオタクとは不器用極まりない。不器用な恋だからこそ、それはそれで面白い。そんな不器用な恋をものの見事に描いているのが「オタクに恋は難しい」という漫画だろうと。

なかなか素晴らしい作品だった。めぞん一刻が最高教典ならばコレはタルムードあたりの立ち位置かもしれない。いじらしい恋が好きな人には是非薦めたくなる。直球は球のスピードが速くても目が慣れれば撃ちやすい。変化球は球のスピードが遅いのだが、目が慣れていても打ちにくい。オタクどもの煮えたぎらない優柔不断な愛が変化球だとしたら、その打ちにくい変化球。それをバットで白い××を場外にホームランにしたときの快感、オーガズムは計り知れないだろう。それを想像するだけで勃起モノ。フヒヒ。

ヲタクに恋は難しい (1)

ヲタクに恋は難しい (1)

この作品の一番良かったところは男の長身メガネの主人公が登場以降、終始真顔でも最後の最後で笑顔になったことろ(p122)。これにはやられれた。これくらいの美しい虚構はないと私はこんなブログにまで語るまでもなかった。