寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

私が好きな野球選手

割かし野球は好きです。今年の日本シリーズも第一戦から最後まで間間ではあるが、テレビで見たりはした。日ハム多田野選手が巨人加藤選手に投げた球が危険球となり、多田野選手が退場したことは話題になったとは思うが、私は第二戦の巨人澤村投手が日ハム選手に二死球を与えサインを見落としことに対して阿部捕手が澤村の頭をひっぱたいたことのほうが印象は強い。自分で死球を与えたのになんだか不貞腐れた態度(と私には映った)に「いい加減にしろよ(笑)」と思った時に阿部が叩くカルタシス。まぁ澤村、球でぶつけたあれで委縮したりしないのはいい根性してるなと半ば感心した。ちなみに私は澤村投手が好きです。プロでやるからには勝負においては、ああいう性格が好きです。
とまあ、こんなように日本シリーズ振り返る。そういえば、巨人はガキの頃は好きだった。私が巨人が嫌いになったのはあのオーナーもあるけど原監督が嫌いだからなんだよなぁ(何故なのかは個人批判になるのでやめておく)。
今回のブログタイトルの答えは巨人横浜でプレイし、晩年はアメリカ独立リーグランカスター・バーンストーマーズでプレーした仁志敏久元選手。私がガキの頃は巨人の野球中継はよくやっていたのでテレビで見る機会が多かった。それ故、何気なく野球に見入っていたときもあった。そんな巨人しか映さないテレビで私が好きな選手は仁志でしたか。一番バッターにしてはホームランを狙える長打力が魅力に見えた。それから仁志の言動なんかを聞いているうちに凄く好きなった。仁志の著書「反骨」を読んでみると実に「らしい」考え方にそれは素晴らしいと言えてくる。
反骨は仁志の野球についてのあり方を綴ったものと言えるし、氏の主張は個性的で目を引く。中でも第一章で「子供たちに必要なこと」と題して野球で夢を目指す子供たちに語りかけているのは特筆する内容だった。野球というスポーツをしていく中で何が重要なのか、どうすれば野球を楽しくプレーできるのか。そして大きくなってプロ野球選手になる、その夢を叶えるためには…。その綴り方一つとってみてもとても優しくて暖かい。私も様々なスポーツ選手の著書を読んだ気がするが、大方その選手の自伝のような内容で、このスポーツのなんたるかは示したりしているが、そのスポーツに「子供たち」はという言葉は出てこない。ファンという言葉は出てきても子供という言葉は出てこない。スポーツ選手は子供にとって夢である。それなのに何故子供たちに向けてのメッセージがないのだろうか。スポーツとは選手にとっては人気商売でもあるだろう。その人気にあやかって財力ある大人に訴えればその努力が還元される(著書の印税とかだろう)。だが、子供たちに訴えてもあまり益がないと判断してのことか。著書を買うのは大人という前提の下、子供たちへの考えを綴っても意味はないと判断してるのか? スポーツとはまず子供が夢を持って続けていき、やがてはプロになるものであり、いわば子供はプロスポーツの担い手であるし、蔑にはできない。私は子供たちについてどう考えているのかという問いかけをさまざまなプロスポーツ選手にしてみたい。そして何も答えない、語らないのであればあまりにも自分勝手である。そのスポーツの人気を呼び込み、競技人口を増やして盛り上げていく、貢献していくにはまず、未来のある子供たちに「こうあるべき」と示し育てていくことである。それから、スポーツ選手とは子供の夢を具現化した存在というものだと肝に銘じて欲しいと私は切に思う。
仁志はとても心優しいと思う。著書の一番最初に少年野球について述べているのだが、あるチームでは大人たちが野球をする子供たちに対して怒鳴りながら野球を教えている。やはり日本的なスポ根というのか、厳しくしごいてチームを強くしていく言い分もあるだろう。しかしそれは野球を楽しむうえで子供たちには足かせになるのではと苦言を呈しているのだ。本来野球を楽しみたくてやっているのに、罵声を浴びせられて子供たちは意見も言えぬようでは本末転倒ではないかと。スポーツは勝つために、そのためには厳しさがどうしても必要になるだろう。そんな言い訳に仁志はこう述べている。
確かに子供の意見を尊重しすぎることは、子供を教育するということを踏まえれば、あまりいいことではない。だからと言って子供だって人間である。意志もあれば主張もある。(中略)情報化の進んだ現代の子供達には、ある程度の工夫は必要なことだと私は思うのです。
※11p6行目引用
今までの古い考えから新しい指導方法を見出さなければならないと私は思う。抜粋した文のなかで「情報化の進んだ」とあるように時代は変革していき、それに子供たちも適用していくものである。いつまでも従来の方法みたいなのを使うことは変化した子どもの感性に対応できずにあらぬ軋轢を生む。流れる時代を見据え、それに指導を変えていくことへの指摘は鋭いと思う。
このように仁志が子供に対して気にかけていたことにとても感動した。なにせ私の思いと見事に共感したからだ。マスコミは仁志の自己主張の強さを性格が悪いと歪曲していた気があるが、性格が悪い奴が子供をこういう風に案じたりはしないのではないか。だから私は仁志の言葉の奥を読まなければ真意が見えないと思う。上っ面だけで感じ取ってはいけない。そういえば、私は以前地元の少年野球チームの練習風景を見る機会があったが、監督と思しきおっさんが子供の練習の失敗を怒鳴り散らしていた。子供は健気に「ハイッ!」と返事していたことが、無理を強いられている気がしてならない。それが愛情表現と言えばそれもあるが、私は仁志と同じく「とても悲しく思う」(10p12行)。
子供たちの野球の熱意を削いでしまうものとは、大人達の過剰な意識が問題だとしている。そこで子供たちに対して大人は、子供が楽しくプレーできる環境を作り、気持ちを「野球が大好き」とランクアップさせることが最低限やらなければならないことだと説いている。大人達の環境づくり、なるほど。そのことに対して仁志は将来的にはそのお手伝いをしたいと語っていることに選手としても教育者としても立派であると感じた。その他の子供に対する著書からなるアドバイスも小難しいこと、薀蓄みたくは語らず、ちょっとした子供に対する気配りを重点的に説いている。それはつまり「褒める」こと。
仁志が優しい人と先に言ったのは反骨第一章の子供に対しての思いであった。その他の章では仁志のこれまでの野球人生や、野球を通しての自己啓発、球界の未来ついて、今後の自分といった内容があるが、どれもホント奥深い。それを語るのはまた長くなったので割愛します。第四章「私が思うところ」での「プロに生きる」という項目の中で仁志が「ゴマをする人間も、ゴマをすられていい気分になっている人間も大嫌いです」(155p5行)。は仁志の性格がよく表れていて読んでいて爽快だった。最後は夢というものへの問いかけで締めてありました。夢か。現実的な人生設計を語る中でも夢という空想的な憧れを抱いている。夢を見ることは人生を大きく歩ませるベクトルを持つものであるな。私は夢について無頓着だから夢を語れることが羨ましかった。
私は仁志みたいな性格が大好きです。だから今回図書館から借りて読んでみました。



反骨

反骨