寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

サラリーマンつまんね【愚痴注意】

さて、仕事とは何でしょうか?
生きるために必要なものです。
では、なぜか?
人間が生きていくためにはお金が必要です。お金は仕事で得られる。だから「仕事=お金=生きること」だと。もちろん例外もあるが、一種の定説だろう。
しかし、そのお金を得るにしても、仕事をしていく中で「なんだかなぁ・・・」となることがある。要するに日本の労働概念を通しての日本的労働方針なるものに疑問の念を抱くことが多々ある。以下、私の仕事という価値観を見てきた中で疑問が生じたことを書き下してみた。
残業やめろ
従来、仕事を働く最大の動機とは金を得るためであるとは先に述べた。「金が欲しいから仕事すんだよ、会社のためじゃねーよ」。しかし、会社の為に残業。「だから会社の為に残業なんてしたくねーよ。残業代? 残業代欲しがるほど金にがめつくねーよ」。どうしても既定の時間内で仕事は終わらない。会社から強いられているわけではないのだが、残業をしないとどうしても帰れない仕事内容だ。そんなのバックレてやるという考えも、途中で投げ出したら積木が崩れるように最初の努力が台無しになってしまうし、当然上司に怒られます(笑)。だったら、同僚にその終わらない仕事を丸投げもとい手伝って・・・は誰もそんなの受け付けないし、第一、人の仕事手伝うほどむこうも暇ではない。だったらこの仕事は8時間労働じゃないですね。最初から10時間労働だと求人票に書いとけボケ。あー時間外のところね。20時間とかあったね。だけど、残業なんてしたくねーんだ。残業したくねーからとっとと仕事終わらせて時間内に帰ろうとしたら、「おっ○○(私の苗字)、仕事終わったならこっち手伝ってくれないか?」。だから残業したくねーんだよ。貴方も早く仕事終わらせてとっとと息苦しい職場から出て行ってください。
残業を毎日しないと務まらない会社は私から言わせると変です。残業とは普段起こらないようなイレギュラーなときに対応して行うものです。平常通り8時間労働で運行するものです。残業しないと終わらないなら人を雇いましょう。意味不明なやらなくてもいい仕事は省きましょう。合理的かつ効率よく。それと、たくさん仕事した方が会社が利益出せるという考えで残業はさせないでください。ゼニゲバ思想はむしろ私みたいなやる気ない社員の意欲を奪います。儒教思想で金儲けは汚い。うん、まったくだ。一日のほとんどを仕事なんて味気ないだろ。趣味の時間を平日でも持たせろよ。
仕事でいちいち怒るな
私は仕事で失敗した人は絶対に怒りません。まず、声を大きくして感情的にはならない。なんていうか、失敗はわざとじゃないだろ。私が仕事で怒るとしたら意地悪でわざと失敗して相手を困らせてやろうという時だけですね。しかし、仕事で怒りだすことは器量が狭い。余計な体力使っているようで疲れないのかね。職場の雰囲気が殺伐とするその空気が私は大嫌いだ。怒るとしたら声を荒げるようでは人間の成熟がなされていない野蛮行為。「君とは仕事ができない」とか嫌味言うのはヨシとするが。つうかうるせーんだよ。なにも命にかかわる問題じゃないだろ。ガタガタするな。この余裕なしめ。
年末年始休ませろ
ゴールデンウィークのカレンダー通りの休みはいい。夏季休暇がアレなのはいい。ただ、年末はなにもやることなさそーだし、三が日休ませろ。ゆっくりとくつろぎたいという私のDNAは三が日休日を望んでいる。
以上です。えっ? そうです、今の職場で不満なのがコレです。大したことないとお思いでしょうが、私にとっては「サラリーマンつまんね」な要因。職場のゴタゴタとか派閥なんたらとかどうでもいいわぁ。
今日、ブラック企業と言われるような職場環境として、仕事こそが人生で凝り固まる職場概念がイヤ。
仕事とは本来は誰もが好き好んでやっているかどうかははなはだ疑問です。仕事が好きな人もいれば嫌いな人もいる。それは個々の性格や信条ですので。だから仕事が嫌いな人を否定するのはその人の性格の否定になります。しゃーなく嫌々働いている人の気持ちも受け入れ・・・残念ながら今の日本の労働環境ではそういうのは許されない。仕事とはどうであれ徹底していかなければならないものであり、それについていけない人の風当たりは大変強いものがあります。「仕事とはこういうもの。お金を稼ぐのはそれなりに大変なんだ」。おっしゃることはわかります。でも俺ヤダよそんな情緒も見当たらない人生を歩むのなんて。だったらそんな仕事をいかに快適にしていくか改善するって頭はないんですか、放棄しているんですか? 仕事だけにウエートを占めることに疑問を持つことを許さない圧力的風潮。それに反抗すると怠け者の烙印を押されかねない。これこそが日本人特有の風土病、「同調社会の形成化」である。他人と違うことを認めない。仕事がブラックでもそれに異を唱えることが会社の和を、秩序を乱す行為。「俺も辛いんだからお前らも我慢しろよ」。
ちょっと待ってほしい。自分の価値観を大切にするのならば他者の価値観も認める。それこそが共存社会として機能し、今の多種多様な多角的社会形成において重要になってくる。一つの意見がまかり通る前世期ではなく、高度に複雑化している社会だからこそ単純に捉えないで欲しい。昔はあれだった。昔を遡り高度経済成長の活気ある日本人像。ああやって成人国民全員がビシバシ働いた光景、昭和30、40年に豊かになるという目標を掲げて邁進した日本人は特筆すべき努力家で、そこには一つの価値観「豊かになる」ことが仕事への意欲として皆一丸となって同調社会のなか受け入れられるものだった。それが今の日本の労働概念「仕事こそが第一」と位置付けれた一連の流れは実は昔にあったのではないかと。
しかし、現在はそんな一つの価値観を下に同調的圧力で人を靡かせることもできないでしょう。物質的に豊かになれば、精神的にも豊かでありたいと視野の転換が窺える今の日本社会にはそういった風潮が大切になってきているのではと。仕事以外に自分の時間を大切にしたい、仕事だけが人生ではない。仕事とは単に生きるための手段にすぎず、仕事の為に生きるのではない。豊かな日本ならではの発想であり、否定されることではないでしょう。
ちょっとだけ考えてみたのだが、やはり昔の高度経済成長期に仕事に躍起になっていた幻影こそが正しいくも理想的な仕事に対する姿として、今の労働概念に取り入れている気がする。そんな「今昔、日本人の勤勉さ」が今、ブラック企業の下で歪曲されていいように美談化されて使用されている気がしてならない。これが労働基準法で定めてある時間通りに真面目に働けばそれは日本人の勤勉さです。ブラック企業の「勤勉さ」は時として「過労死」を生み出すことになります。
サービス残業、休日返上、有給消化ゼロ、パワハラなんぞに耐えることは日本人の勤勉さといわずして、バカM(マゾ)社畜である。しかし、この同調社会が一種のスタンダードになってしまっている。みんな頑張って豊かになった昭和時代の努力をはき違え、捻じ曲げたブラック会社。そして、そんなブラックな社風がいつしかそれが当たり前となり同調せざる空気となったのは何があったのでしょうか? なぜこうまでも資本家に労働者はなめられてしまっているのでしょうか。
おそらくバブル崩壊とアメリカ型市場原理主義導入だと思います。前者は厳しい雇用条件の中むやみやたらに労働者は辞められない。だから多少経営者が無茶を言っても社員はそれに我慢してついてきた。それがエスカレートしていった。後者は、ただの金儲けの為に倫理観ゼロの会社が「金こそが命」として社員の職場環境を蔑にしてまで利益追従を進めた。「慈善事業で人雇ってんじゃねーんだ」。こんな奴が経営者だから。
これは私の推測だから当てにならない嘘っぱちもある。それにしても今の日本社会いまだに競争社会でそれに対する否定的考察の例を。
私なんかは運動会の時に100メートル走で「みんななんでこんなにムキに走るんだ?」 としながら、自分はバカバカしくて他者の邪魔にならないようにアウトのほうから走って3位だった。競争という他人と争うことが嫌いだった。何故なら他人と争うことは自身にとってストレスとなり、むしろこんなことに本気になるのがツマラナイ。
今度は真面目に走った。見事私は一着になった。そしたら二着だった同級生が「なんで○○ちゃんはそんなに速く走るんだよ・・・」とべそかかれてしまった。それが私に勝者の側にいても敗者のことを思うと素直に喜べない。「別に一着になりたくなかった。べそかかれるくらいならこの同級生の為に負けてあげてもよかった・・・」。競争社会のそんな嫌な部分が子供の頃に感じてしまった。
人と競争して傷つくのがイヤ
これがあると今の日本では務まらないだろう。私は今では昔と性格は変わったけど・・・心があの時の子供のままだったら今の自分はいなかったと思う。つまんねー仕事。それを我慢して極力競走しないようにしている。他人を蹴落として自分の地位を保つのは人としての倫理としてどうなんだろう。ああ、こういうのも日本の労働環境なんだよな。世知辛い・・・。
結局、仕事は人生の足かせだと開き直っている。本当にやりたい仕事について「天職」とはオカルト。みんな仕事に関してぶっちゃけどうなの? 「つまんねー」といってくれたならば、私は「なんだ俺と一緒じゃないか」と張り合いが出てきて、仕事概念が肯定された爽快な気分の下、職場に気持ち良く出向ける。だから仕事の休憩中はコンビニでうんこ座りしている「たりー、うぜー」という若者のように振る舞って頂きたい。
以上