寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

人を殺す人間とは

女王の教室 エピソード2〜悪魔降臨〜 というドラマスペシャルを見たことがあった。天海祐希演じる主人公の教師がいじめを行っているクラスの問題を解決していくくだりである。その物語の流れでクラスのいじめをしていたリーダーが主人公に「なぜ、人を殺しちゃいけないんですか?」と問いかけた。主人公はその言葉に
「死ぬときは痛く苦しく死にたくないと叫びたくなるから。人は死んだら家族にも友達にも会えず、その人の大切な夢、希望を消してしまう。人の未来を奪う権利なんて誰にもない。だから人を殺しちゃいけない」。
天海祐希はこの物語の山場でどう答えるのか興味津々に見ていた記憶がある。その言葉は大変説得力あるものだと思うし、普通に考えればその言葉通りなのだ。しかし、この言葉は論理的ではない。何故なら、「そんな人の苦しみは自分には苦痛に感じない。他人の未来なんて俺には関係ない」と反論もできてしまうからだ。
以下、今日の出来事。光市母子殺害事件最高裁が死刑判決を下したことについて。
事件の概要はいまさら振り返らない。弁護士団の懲戒請求なども言及しない。私はどの殺人事件にも第一に考えるのだが、「なぜ人は人を殺したのか」を追及したくなる。人を殺さねばいけない状況などことに平和を謳っている日本では一般社会を営む上では無縁である。そこで「殺人をするなんて、なんてひどいんだ」と感情的になる前に一歩そこから引いたものの捉え方を私はするのだが。人が人を殺す問いかけに精神医学者の福島章氏は自身の新書の中でこう答えた。
1 脳に微細な変異を持って生まれた 2 少年期に虐待等を受けた 3 人とは偏った性格を持ち、低水準の自我的防衛機能を働かせる 4 多彩な精神状況を抱えている 5 自殺願望 6 自らの死を果たす代わりに人を死に至らしめる
※ 犯罪精神医学入門 福島章 中央公論社
殺人を精神医学的見地から捉え導き出された答えには説得力があると感じる。しかし、必ずしも殺人者がこの答えに当てはまる訳ではないと思う。何故なら社会的に見ても重大な殺人を犯したとして本書で語られているからだ(池田小の事件等)。それほどの大事件を起こす犯人なら人格的に歪んでいるとこちらとしても勘ぐってしまうのであり、ごく一般の人がささいな口論の末に人を殺したという、割かし簡略的な殺人者には当てはまらない気がするものだ。
ゴーマニズム宣言で有名な小林よしのり氏は若者の凶悪殺人は「国という公という立場に帰属しない殺伐とした個人主義が社会に対する意欲、希望を持てずに、そのはけ口として殺人に走る」とした。主に公共心の欠如がエゴ的な個人主義を育て、その国なんてどうでもよいという戦後民主主義教育こそが弊害であるとした。なんとも氏らしい意見だが、それも抽象的であり個人の主観の域をでない気がするものの、わかる気がする。
光市母子殺害事件の被告はなぜ人を殺したのか。この犯罪は性犯罪である。ならば性犯罪について記された著書を読み返してみた。作田明氏の著書「犯罪心理研究の独自の視点」にそれらしい動機となる答えが書いてあった。それがなぜなのかはあえて詳しくは記さないが「突発型」「いきなり型」の犯行だと(ここで文章にするのはデリカシーに欠けると思うから)。
私はこの事件で最も許せないのが母子ともども殺害した中で、子を殺したことである。この点についての動機は少年犯罪に関する著書を読んだりしたものの、それと照らし合わせて、いまだその被告の動機には腑に落ちない。「泣き止まないから殺した」。この公徳心欠如の背景はなんなんだと。腐ってもせめて一言半句心の中に社会的規範の意識、道徳心があればたとえわずらわしい子供の泣き声にも子の殺害には至らない気がしてならない。殺害しては気が動転していたにせよ床に叩きつけて殺すようなことは「命」を軽く見すぎだ。こうなった経緯には法的な制裁についての知識の欠如と道徳意識の低下だと。人を殺してはいけないという教育。基本的な社会規範意識を子供のうちに身につけさせれば、日本的道徳の機械的回復ことが、その後の人生で犯罪を抑止する力が生まれてくると常日頃思っているのだが・・・。
先に女王の教室のくだりで言った「なせ人を殺しちゃいけないのか?」という問いかけに天海祐希の迫真の答えは情緒的であり論理的には裏打ちされていない。犯人にとっては「そんなの自分には関係ない」と一蹴されては無意味であり、問題はここである。そうやって人の気持ちを考えないで犯罪を犯す人間がいる限り殺人は絶対に無くならないと思うと空しくなる。とはいえ、殺人は「駄目だからダメ」と大人が教えれば殺人なんて生涯のうちに行ったりはしないのが普通である。それから逸脱した少年は明らかに普通ではないのではないだろうか。こう述べることは人権的に偏見を持つもかもしれないが、明らかにイレギュラー的存在なのである。だからこそ、このような人格を事前に矯正できる制度が整備されていればと考えるも、事前にそれが分かる手立てはないから、事後的に起こったことに対して後から裁いて、その人の人格が他とは違うとわかっても矯正などとは手遅れであり、だから死刑。少年の特殊な人格を社会は押さえつけられず、犯罪という悲劇が未然に防げないやりきれなさが・・・嫌気がするほどに少年犯罪には「これ」がつきまとっている。
罪を裁くことよりも、犯罪を起こさない人格を形成させる努力こそが最重要課題ではないだろうか。
それにしても被告は社会をなめすぎた。それにいつまでもガキのままに心身ともに成熟を成さなかった。ことに本人の社会的自意識向上のなさが激しく批判される。自分の行いを悔い改めない友人にあてた手紙や幼稚な供述をして、いざ死刑となると怯えるようでは見てる方からすると滑稽であり、なおさら憎悪が増してくる。私個人として死刑は行き過ぎと感じたが、ここまで来たら清く国家の裁きを受けること。死刑になって初めて心境が変わればそれは大いに結構なことだ。
それ同時に思う術がある。社会的には決して認められない犯罪という個性。しかしそれも一個人の持ち得ていた負の個性とするならば、死刑で滅してしまうことは、その人間の否定とならないだろうか。確かに残虐すぎる犯行は時として死で償うべきである。だが、自分が望んではいない生まれ持った特殊な資質が犯罪を偶発的に起こしてしまったと考えるとほんのわずかながら「損な人生だったな」と同情してしまうのは大甘だろうか・・・。
まぁ、少しでも人が人を殺すのは何故かとか知っておいてもいいのでは。なんでも感情的にならず、一歩そこから引いてみて物事を判断してみては。このブログ書いてて途中読んでた本を紹介します。「独自の視点」とタイトルにあるように著者の推測の域ではという箇所があった気がしましたが、それでも少年法についての著者の見解は鋭いと感じました。目にする機会がありましたらどうか手を取ってみては。

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