寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

「ふがいない僕は空を見た」を読み返してみて再度思ったこと

私がこの本を手にとって読んでみてたそのきっかけは同人イベントだのコスプレだのという単語が登場してたからだというとおかしなものだろうか。私はブログとかでは控えているつもりだが、やはり自分のオタ臭さを出してしまうのは根がおたくなのだろう。
今年も12月がやってきた(といってももう中旬過ぎたか)。この月の楽しみは学生時代は冬休みだったのが、社会人になって有馬記念と冬のコミケが私の中での大きなイベントになってた。この時、有馬記念はまだしも、いい年した男がアニメやら同人誌やらに興味を持ちそんなイベントに出ていくことに「好きでやってることだからと」しながらも「いい年した男」というくだりから始まるそんなアイロニーを抱いてしまう。有馬記念を出かけるというと周りは「おっ!」と興味は必ず持ってくれるしそれを否定する人はいない。コミケとなると私はいつも「30日は用事がある」といって会社で休みを取り具体的な内容を話さず東京ビックサイトに出向く。コミケにいくと周りに話すと、バカなマスコミ(面白がってるそっちの気持ちもわかるが)が植え付けた「コミケ=おたく=きもい」という当初のメディア効果論に尻込みして、普段は自分がオタ臭い趣味も周りには黙って競馬が趣味だと通していた。自分の趣味みたいなのを人様に隠していく趣味は自分でも後ろめたくなる時がある。だけど今なお、それは続いている。去年の12/30。ビックサイトの澄んだ有明の空をふと見上げながら、そんな自分がふがいないと思い、カロリーメイトと五目飯おにぎりと食して「さてと」いう掛け声でペットボトルのお茶を飲みながら立ち上がるとまたコミケ島中に紛れていく。
ここで「自分がふがいない」というのはオタ趣味を趣味として堂々とできない自分がふがいないのか、結婚して家庭を持つべきことが将来の日本の為になることなのに、それを放棄してオタ趣味をいつまでもつづけていく自分がふがいないのか。・・・僅差で後者かもしれない。しかし、それもこの小説を読んで「うーん、まあいいか」と思えてくるようになった。
ふがいない空を僕は見たという小説は連作短篇からなり、目次にある「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」についてちょっとだけ感想を述べる。ちなみに、この小説はR-18の文学賞を取ったこともあり、それは濃厚な性の描写がこと目を引くのだがまずそれは置いといて。
※以下ネタバレしますので注意を






世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸での語り手で主人公の里美は自分のことを「ばかで、でぶで、ぶすで、不妊の変態主婦」と語る。コンプレックスを抱き学生時代はいじめられた。社会人になっても自分の容姿、性格、仕事の出来なさから周りからは疎まれていた。そんな自分はアニメの魔法少女が大好きで、その同人活動やコスプレが唯一人生の癒しとしていた。そんな彼女はひょんなことで夫になる慶一郎と結婚することになった。だが、それも双方の身体の体質なのか。二人の間に子供ができないことで慶一郎の母マチコからは里美に対する焦りと苛立ちは叱咤から恨みつらみに変わりそして彼女を罵倒した。そのことに慶一郎は里美をフォローせず無言をきめこんだ。ここにいたる里美の心の葛藤に私はどきっとした。
「私をいじめる人がたくさんいる社会には出たくない。最低限の家事をやって、あとは自分の好きなことだけして生きていたい」。(本文56P一部引用)
今まで里美のぼやきみたいなのはこのストーリーで語られていた。それは皆自己愛が強すぎるアダルトチルドレンだというような甘えた言い訳。慶一郎もその母マチコも里美にはずいぶん気を使っている。そんな自分のそばにいる人と信頼を成熟していかなければならないのに、里美は人との関係を疎ましがっているニヒリズムみたいな態度が鼻についた。この太字の文がそれだといえるし、自己中な考えだととれるのだが・・・。
だが、私は何故かこの言葉を否定的に捉えられなかった。それは間違っているかもしれない。間違っているかもしれないけど、人間の弱い気持ちを無防備のまま本音で出してしまった気持ちはなんだかものすごく同情したくなった。里美は昔もちょっと前にもいじめられてた。いじめられるのは本人が悪いのではなく、他者の存在(里美)を認めようとせず、単に異質と写るだけという認識故の狭量さを自覚できずにいた人間が悪い。里美はでぶすで同人趣味があるけれど、確かに醜く映るかもしれない。だからといってそれを寛容な態度で他人の人格ないし個性を理解できないバカが里美の周りにいたからいじめられたのであるとする。自己を理解してもらえず、他者からの人間性の否定が里美の性格に暗い影を落としていたことを考えると、なんとも可愛そうな人生だった。そんな遅い遅い反抗期だったのが「私をいじめる人がたくさんいる社会・・・」という言葉とすると、私は最初抱いていた里美の否定から態度が変わった。
私は人の容姿、性格や人の好きな趣味、趣向を否定する人間が大嫌いだった。だから不細工なおたくはきもいとか言われたら自分のことじゃなくても腹が立った。だけどそれは一個人の感情なので、それを否定するのはまたそれもその言った人の人間の否定になる。だったら言わせておけばいいし、私はもう怒ったりはしない。ただ、これだけは例外。自分が嫌悪するからといって、人格を否定し、攻撃的に人に接してくるのだけは我慢できない。人が人の個性を滅することはやめてほしいし、それが嫌ならその人にかかわらなければいい。
里美のよいところは他者をあまり意識して主張しない柔軟な気持ちを持っている点か。故に他者を否定しない。慶一郎のいいところは里美の考えや趣味にとやかく言わず、それを許容している器量の広さか。マチコも孫が欲しいだけの利己的な性格がアメリカで代理出産を里美に進めて子供が生まれたら私が面倒見るから、あんた(里美)はまたアニメでも漫画でも見て暮せばいいと寛容的になっている(でも、さすがにこれはどうかと思うが・・・)。里美と慶一郎もいじめられっこだったから、そういう自己を否定された過去を持つからこそ、自分はそんなことは相手を傷つけるからと他者を認める心を持っていたのだろうと・・・。
なんだ結局ながったるくなった。私が27になってコミケにいく様は他人がどう判断しても構わない。私も正直そういった趣味にふと疑問を抱くこともあった。でも、ふがいないとか思っちゃったらそんな卑屈になることの方がふがいないのではと思ってしまった。だから今までの考えを変えてみた。とりあえずオタくさくていいや(笑)。
なんかこの小説の性的な部分にも感想いいたかったけど、まーた話が逸れたりした。その人の個性を認めるとなんでも認めていいのかという意見があるかもしれない。それについて考えさせられるのが「セイタカアワダチソウの空」と題されたストーリーを読んで貰いたい。実はこの話が一番心に残った。それがなんだったのかはおのおの感想を抱いてもらってまずはお勧めします。語りだすとこれ以上は長くしたくない。でーも、なんだか印象深かったなぁ、この小説は。

ふがいない僕は空を見た

ふがいない僕は空を見た