寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

理由もない殺人者に対してはこうなっては厳罰が望まれる

※屁理屈は嫌いなので感情で書き込みました

人は人を殺す。その人殺しが捕まりそうだと。茨城県境町一家殺害事件は捜査の続報もなく迷宮入りに差し掛かろうとした矢先、茨城県警の有能さを讃えるべきだろう。犯人らしき男が捕まった。捕まった。それだけですめばいが、果たしして男は何の目的で人を殺したのかその理由が知りたいところ。人を殺した過去は戻せないのだからもういい。その理由だけ教えてくれればそれでいいが…。

 

そもそも人はなぜ人を殺すのか報道されるような殺人の理由は

 

・憤怒、怨恨などはよくある理由だろう。人を憎くて仕方がないというそういうたぐいは理解できる

・最近はよく親が子を殺すその理由は子育て育児の悩み子供の煩わしいさなど。あと介護疲れによる殺人。身勝手だが心情的には理解できる

・生活的貧困などは何時の時代にもつきまとう。貧すれば鈍するという言葉は今後時代と共に解決策はないものだろうか? 職を失い食うことに困って人を襲って金を奪う。許しがたいことだがその経緯に至る点は現代社会の病床として我々も解決の糸口を探るべし。

・痴情のもつれは人間の感情があるが故だろう。愛の形は人それぞれでその形が異物であったに過ぎない。感情の高まりで人を殺すことはじつに人間らしい。性的欲求は人間の欲の権化でもある。そう言った殺人理由をなくしたければまず人の感情をなくさなければいけないがそんなものは無理である。業が深い人間には私からはむしろ憐れみさえ感じる。

精神障害等という心の制御不能からなる精神的側面。いわゆる「気が触れた」というものは津川事件など重大事件に多くみられる。池田小の事件や秋葉原の通り魔という社会的な怨恨が理由でもその本来の成り立ちは人の精神が壊れた様子が鮮明である。

 

果たして今回の事件のその人を殺したという殺害理由は上記に当てはまるか? おそらく最後の項目精神なんたらだと思われるが精神に異常をきたして犯行に及んだのだろうか? なにかとてつもない心的外傷ストレスがあったのだろうか? どうもそんな感じではない。勿論デマも含まれるくだらない5chの書き込みを読ませてもらったがこの事件背景をあぶり出し殺害理由はおそらく

人を殺したいから殺したただそれだけの理由で人を殺したのだろうと。

たぶんだが殺人の理由はこれだろうか? 数時間前に犯罪心理に関する著書を読んで調べてみたがこの事件の殺人理由は本読んでもわからんかった、バカだから。そして結局これは快楽殺人だったんだなと。人を殺すのが楽しいから人を殺す。ただそれだけの理由で。にわかには信じがたい。人を殺すにしても何か目的か理由があるだろ。殺したくて殺す人間がいるのか。いるんだな。昔は「人を殺してみたかった」というふざけた理由で人を殺したガキがいたんだから(キレる17歳)。今回もソレ系だろう。こうした人間の心理については神戸児童連続殺傷事件についての著書に詳しいのでそちらをどうぞ。もうすでに長いが語ると長くなるからね。

精神が病んしまったがゆえ人を殺したのではなく人を殺す因子があってつまり人を殺すことを約束して生まれてきた人間が人を殺したに過ぎない。人権なんて気にせず言わせてもらうがこれは人のエラー商品であり病院で廃棄しなければいけなかった。不良製品を世に出してしまうことの迷惑さはリコールや自主回収の報道から見てもわかるだろう。残念ながら人間にも当てはまる。猫を虐待して瓶詰して見せつけるその時点でもう一生精神病棟なのである。そんなことするの酷いとか感情を抜きにしてそうでもしないとこれは性格が治るものではない。せめて強烈な向精神薬で攻撃的な人格をズタボロにして廃人にしなければいけないものである。これは人の人権どうのこうのではなくそれが本人の為になるのである。池田小事件の犯人も少年の頃に猫をストーブに入れて燃やしたりしていた。動物虐待は殺人者のよい指標になるのだから早期に防がなかった周りの人間に責任ある。その周りの人間は名士だか何だか知らないがボンボンとして甘やかされてしつけもされずに野放しにした親。これ以上言うと言葉が汚くなるのでやめとくが。小田晋氏はこのような少年手が付けられず更生は不可能。だから精神病院で生涯を終わらせるほかないとある著書で記しているがまったくその通り。

だがそんなことは親は甘やかして育てた子の縁なんて切れないからこうなるまでなあなあだったんだろうな。ヤダな名士とか金持ちの家系って。金があるからとか偉いからとかで罪を見逃れるという概念が未だにこの日本社会に蔓延っているんだんな。むしろ金持ちとか名士ならば周りの手本になるために罪を犯したら真っ先に裁かれるべきだろ。ホント平等に裁けよ法治国家じゃねぇのかよ日本は。そしてね、この事件の言いたいことは…私は菊田幸一氏みたいなバリバリの死刑廃止論者であったし瀬戸内寂聴が死刑賛成派に言い放った「殺したがりのバカども」にも共感した。けれど年を取ってなのかしらんが死刑に対する価値観が変わりつつある。特に人を殺すことが好きで殺したというふざけた理由にはだったら私もその犯人殺してやりたい。

 

人を殺すにしても何かしら理由があれば救いはあるが

目的もなく殺したいから殺すために生まれてきた

そんな人間に人としての尊厳があるとは到底思えない

性根が腐りきるまで甘えて育ててきた親が許せない

首をつらせなければ天下に示しがつかない

もし罪を裁くとしたならば人の心があるならば首をつらせなければ

人間としてこれ程の屈辱はない

人を殺すことの愚かさを死んでわからせるしか、それ以外に道はない

生まれてきた自分を恨みながらしんでいけばいいではないか

 

※追記

人を殺すような人間にするかしないかは親の育て方次第である、そんな気がする。生まれてきた時に精神的障害があるにしても親の育て方工夫一つで殺人者になることを防げるはずである。殺人のいきさつは裁判でいつも家庭環境と親の教育が焦点になっていてこうした背景を鑑みて罪を決めているそんな節が私には窺える。だからこそ親の子に対する教育は重大な使命であると。放っておけば子供は勝手に育つそんなのは戦前とか昔の出来事であって今の人間はそれだけ複雑化されてきているのだろう。それは社会が複雑化したから人間も複雑化していく所以ではないか。結局は人の人生はその親が作り出す。自分の人生は自分だけではない、親も関わってくる。これは私の私見であるがどうなのか? だとしたら教育は時として人を悪魔にを変えてしまう何とも残酷なものだなと。

何も生み出さないオタクは悪? はいそうです少なくとも同人界隈では

くその5CHからの出典で恐縮だが何も生み出さないオタクは悪なのか? というタイトルのweb記事を見た。

 

myjitsu.jp

 

この記事の内容をおおよそ要約するとアニメ漫画に代表されるような「いわゆるオタクコンテンツ」と呼ばれるそうした作品をただ消費するだけでの要するに買うだけ買って自分からは作品は作れないオタク層「通称無産オタク」は創作を手掛けるクリエイター側からしてみたらうざいこの上ない存在だという。何故なのかは無産オタクは自分では何も生み出せない癖に人様の作品をああだこうだと論評してやたら偉そうでうざいとのこと。そうした無産オタクたたきの背景はクリエイターの才能を誉めそやす空気が蔓延してそのクリエイター信者が甘やかすからクリエイターは天狗になって自分は優れた存在として自負して、だから自分では何も生み出せない能力ない人間は無産オタクと蔑む存在であると結論づけてしまうことが考えられるという。しかしクリエイターの向上には無産オタクの声も必要なのだから何事も客観的に物事を捉えておく必要があり、無産オタクだからといってその行動を否定されるものではないと締めくくる。

これに対して私の答えはそんなこと言っても無産オタクは大変嫌われます。別に対立煽りするわけではなく客観的に私もオタクの端くれとしてそれは常々そういうものなのですオタクノセカイとは。特に顕著なのが同人界隈の絵師たちでありこれがBL界隈はもうそりゃ無産オタクなんてムシケラゴミと捉えている絵師もいます。だから対立煽ってる訳じゃなくそれがあるからこういう記事が出てくるんだろ。わかる。何故嫌われるのかは記事にもある通り自ら何らかの作品を生み出せないその才能の無さを軽蔑しているだけである。以下それについて語ってみるが。ちなみに記事であるクリエイターとは何を指すかといえばおそらくやっぱり絵師(イラストレーター)のことであり同人界隈を指していると考えられる。

じゃあどんな才能ならば無産オタクと呼ばれないのかとは何も絵が凄く上手く商業デビューするとかそういう大そうな才能ではなく絵でいうならば同人誌が出せるとかpixivで割かし評価を受けるとかTwitterである程度いいねがもらえるとか。具体的などれくらいの評価があればいいのかは主観によるがpixivでは絵にブクマ100(人気版権含む)あれば無産オタクなどとは言われない。早い話要するにその作品が好きならば二次創作かなにかできれば無産オタクとは言われない。無産オタクと言われたくなければ何か同人活動してろ。もしくは別に同人誌を出すほどの力量はなくてもpixivとかでイラスト小説をあげていれば最悪無産オタクとは呼ばれない。呼ばれるのはpixivで作品0のいわゆるROM専といわれる層でこれが純粋な無産オタクといえる。

 

 

 

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こんなくっそしょうもない小学生レベルの絵でさえ描けないのであれば無産オタクらしい。

 

こんなことを絵師(クリエイター)は言うのである。ホント「テメェ何様じゃ」である。しかしオタクが何か生み出すと言ったらその作品の絵を描く二次創作がオタク界では大変な幅を利かせ、絵が描けるオタクとはヒエラルキーがたいへん高く実に位が高い。その頂点が絵師(イラストレーター)でありコイツラは上手い絵を描いていればもうそれで王様でいられる。それ程オタク界では絵の上手さというのは崇高なものである。それはコミケに参加してみたらわかるだろう(最近やってないね)。大手サークルみんな絵がうまいからあんなてんやわんやな騒ぎになりあれじゃ絵師は祭られて然るべきだと誰もが思う。だから「テメェ何様じゃ」という態度が通じるのである。

私は昔東方が好きでそのコンテンツを楽しんでいた。東方とは二次創作で発展したようなもので、だからなのか知らないが東方を好きになったら自分も二次創作しておくものであるという空気が昔はあった。それはつまり東方が好きになったら何か一つくらいキャラの絵を描くことが東方を好きであるという証明になりそれをすることが礼儀とされた。東方の絵が描けなければまがい物の東方ファンだと言われていた時代があった。東方の輪に入るには最低限キャラの絵が描けないといけない。それが出来ないと東方の絵師とは決して仲よくなれなかった(ソースは私や昔の同人仲間。だから何とか絵を努力して絵師と相互になったりした)。別に仲が良くならなくてもpixivとかにコメントを送っても返事はないなどコミュニティからは外される。東方という二次創作で培われた作品ならば自分も造り手にならなければそのジャンルにいる資格はない。これは昔の東方界隈にあった。私が東方を好きでいた2005-2010あたりでは。そんな空気がなくなったのはおそらく震災後で今はそんな空気全くないだろう。

こんな昔の気風を今でも心の中で抱いている人間がいる。だから無産オタクといって差別して蔑むのである。それは「その作品を二次創作で盛り上げることができない、ただ金だけ出して終わるなんてなんて才能がない人間なんだと。こんな人間この界隈に不要だ」差別意識の裏には二次創作で同志となれないそんな人がいても仕方がないという創作熱の温度差からくる感情だったのである。別に自分が絵がうまいことを鼻にかけての発言ではないと思うのだ(まぁ絵の上手さで偉そうな絵師はいるが)。作品を批評するよりも求められるのがその作品の絵が描けるかどうかであって大して絵も描けないで批評するオタクは絵師とって評判がすこぶる悪い。だから無産オタクといって蔑んでしまう。そういや以前し○びという大変有名なイラストレーター(個人的には絵師百人展十傑に数えてもいいような?)がTwitterで絵の描き方を指摘してくれた一般人に「受け売りの知識だけで偉そうに」とよくも指図してくれたなと横柄な態度(問題になってのちに和解)で信者がファンネルしたり適切なアドバイスも相手と同等かそれ上でないとしてはいけないしむしろ無礼この上ないというその程度なのです。「絵を批判するなら俺以上の絵を描いて評価されてからにしろ」。コレ暗黙の了解で当たり前。

まー確かに絵師というものは性格悪い。これはガチ。ネットでも「絵師 性格悪い 偉そう」とサジェスト汚染だ。私も同人したことあるが、なんていうか絵師と呼ばれる奴ってサラリーマン的常識が欠如しているの。無礼だったり尊大だったりくだらない一言ですぐ機嫌悪くなったり褒めているのにいちいちコメントしてくんなとか終いには同人誌買うにあたって買い専(同人誌を創る側ではない要するに創作側から見たら購買者)お断りなんて言い出す始末。口の利き方が出来ない奴が多々いた。孔子五常なんてからっきし持ち合わせていないこれで絵がうまくなければおまんまの食い上げというほどのバカが多かった。芸術的才能がある奴は人間性までも芸術的でないのは昔の偉人でもそうだが(ワーグナー等)性根がダメなんだよね。その点の性格から無産オタクと言ってしまう面もあるかも。ただ…

絵師の性格の悪さは否定しても作品の素晴らしさまでは否定することではない。残念ながらいくら優れた批評やたくさんの購買力よりも絵の上手さのほうがこのオタク界隈にとってとても重要で正義なのである。優れた作品に人の人格など考慮しなくていいしそれでも人はついてくる天狗になるのはお目こぼしすべき。著作権接触した二次創作なんて誉められたものではない? いいえ、クズでも優れた作品をつくれればそれでいい。これが私の無産オタク云々に対してのアンサーである。無産オタクと言われたくなければ何かキャラの絵を描いてみればいい。絵の上手さは問われるかもしれないが金だけ出して自分では何も生み出せない人間にとやかく言われるのは確かにうざいことだとは思うその気持ちは確かにわかる。私もウマ娘のイラストをTwitterリツイートするだけで自分では絵が描けないくせしてそれで盛り上げているつもりなのかと訝し気に思う時がある。消費者という立場をとることなく皆でその作品を盛り上げていくというのがオタクたちのコンセプトだったし(昔はだが)、だからこそコミケが発展した。それなのに二次創作で盛り上げることなくお金でオタクの地位でいることに対する態度というのは本来のオタクとはかけ離れている。岡田斗司夫は国内のSF作品を全てを読破理解しこれで自分もまともなSFオタクと名乗れるだろうと先輩に言い放ったが「国内のSF羅列したぐらいでお前は世界のSF作品を何もわかっていない」と看破された。それから世界の様々なSF小説を翻訳して理解してやっと認められたという経緯を氏の著書で読んだことがある(新潮新書「オタクはすでに死んでいる」)。そう、オタクというのはそのジャンルの知識書と言われてから名乗るものである。そのジャンル造詣の深さがあればあるほどオタクと認められるのである。今ではアニメ見てグッズ買って屁理屈述べて終わる、それでは薄っぺらいのである。絵が描ける描けないで差別するその背景にはこうした概念を漂わせるものがある。その人の性格の悪さはひとまず置いといてオタク言うならば何かその才能を活用してそのジャンルに踏みとどまるそのくらいの気風は持ち合わせろ。そんなことを言いたくて無産オタクと言ってしまうのだろう。

五等分の花嫁とは最も純粋な恋愛を描いている

大阪で1000人になりました。もうこれわかっててなったことだろ? こうなったら家から出ないでその、家にいても何するかわからないから外に出るのならばアニメでも漫画でも読めばいいいじゃん。ということでそんな外に出ないで楽しめるとしたらそうしたタグイである。

アニメ漫画の感想とかその辺のサイトに書き込むからブログでは意外とそうしたこと書いてない。ていうか書いてもどうせアクセス数ないから、そういうのが上がればどんどん書きたいことだが…。五等分の花嫁は、そもそも私自身がそういった恋愛ラブコメ系のジャンルが大好きだから。にしてもこれは私の青春バイブル「とらドラ」に比肩するかそれ以上のものだと思う。サンシャインシティの五等分の花嫁展をそんなもん普通行かないのに若い子たちに混じって行ったくらい。今アベマで五等分の花嫁見た後に急きょ語りたくなったのだが…。

この作品どのような内容なのかは今更語ろうとしてもこのブログの存在のように意味がない。というか私の文章に意味がない。ただこのシーンだけは言わせてほしい。五等分の花嫁でここが私の好きなシーンだということを。下手に文章で説明するよりも絵で見せたほうが伝わりやすいと思う。現に私は文字より絵面のほうがその何かがよくわかる気がする。

 

 

 

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アニメにおける二乃。このシーンのこの顔が何なのかはこれが初見でもわからないのであれば恋愛する資格ないと思う。この表情は最強の照れ隠しで鈍感でフラグの何かもわかっていない主人公に告白するシーンは自分のそれまでのプライドをかなぐり捨てる大胆すぎるものだった。このようなツンデレ(死語か?)の愛情表現はよく目にしてきたのだが、なんていうか、二乃のこの表情、凄すぎるヤバすぎる。ギャップがあり過ぎるだろ。作画のをガラリと変えるほどの告白した際の表情はこのシーンを見てしまえばそれまでのアニメ告白シーンが霞むマジで。このシーンでそれまでいまいちに見ていた五等分の花嫁の価値観が大きく変わっただけでなく数ある告白シーンの中でもこれは語りたいと思ったほどのシーン。この表情こそが「恋は最も純なり」であり終生忘れずにいたいほど。

 

 

 

 

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漫画における三久。これは何も言うことない。私は漫画の告白シーンの最高傑作はスラムダンク山王戦での花道の晴子への告白のあのシーンだと今まで言い続けたが、それに終止符が打たれた。何も言うことない。このシーンが数ある漫画での告白シーンの中で最も美しく、そして一番カッコいい。何故一番なのかは私だけ知っていればいい。

文章の感想よりもシーンを紹介したほうが伝わる気がするから。それに私の感想は回りくどくて面倒でわかりずらいし。単刀直入に言うと五等分の花嫁はこの生きていた中で一番の恋愛ラブコメだと。今後そのような漫画以上の作品が私の生きていけるうちに見ることができれば自殺しないで生きていきたい。私はこうやって命を救われてきた。ふざけていっているのではなくガチで。こんな変な大したことないブログでも一人だけでも微量ながら理解して下さる方がいれば無理して書いた甲斐があるのだが。

ちなみに五等分の花嫁で誰が好きかというと五月です。

ついでにアニメですが私が他にも好きな告白シーンがあるのでこのリンクからそれがどれか当ててみてください(うぜぇ)。

 

anime.dmkt-sp.jp

2021年中央競馬桜花賞を予想する

先週大阪杯の馬券を払い戻しに行った。この状況では来週あたりにはマンボウ措置により各所ウインズが閉まって払い戻しができなくなると思ったから。それにしても玉川が蔓延防止措置を略して「マン防」というと海にプカプカ漂っているマンボウを連想して間抜けで危機感を感じさせないからその略し方ヤメロと言っていたが、実に私もそう思う。マンボウなんてマ○コを連想して実に卑猥でけしからん!

せっかくなので今週の桜花賞を予想して外れたら当分こんなことしない。桜花賞はじつに苦手。この時期の牝馬というのはゴルシじゃないが気分次第で走るか走らないかが出てきてしまう。そういうのはパドックと返し馬を見て判断するのであって前日予想では期待を裏切られる、と思う。あと種付けシーズンなのか色気づいて発情している牝馬もいるからこれをウマむす・・・なんでもない。とりあえず阪神競馬の適性と1600メートル以上で連対していることが重要だと思う単純だが。血統とかクラシックで走る配合の馬とかはあるけどそういうのはみんなもう忘れた。ディープインパクトの仔がいいんだったと思う。あと絶対関西馬で関東の牝馬はまだ輸送に馴れてないから当日調子悪い。枠は7枠と5枠と8枠がいいと思う。内枠だとごちゃついて前が詰まるからだろうか? たまに内をついて穴開ける馬いるから一様には言えない。あと騎手はここでは人気馬ではない福永が好騎乗する。中穴の福永は押さえておく。あと池添、川田、外人騎手とまぁ当たり前が。活躍しているうまい騎手でアンチャン騎手は割引必要。

以上がざっくりと桜花賞の予想ファクターとする。これからは注目馬を挙げてく。

 

ソダシ

この馬名の適当さは私のウイポプレイに通じる。レイパパレもそうだが無敗馬は負けるまで買う。特に最近この時期の無敗馬はそのまま無敗で名牝になっていく流れでいる(アーモンドアイとかラッキーライラックとかデアリングダクトとか)。だから普通に無敗なんだから強いから買えるという理由それだけ。昔は桜花賞でステップレース使わねーのはダメと言われてた気がするけど(スティンガー)もうそういう固定概念は崩れてきてる。素直に鉄砲でも問題ない。札幌、東京、阪神と異なる競馬場で勝っているのは特筆。それは能力の高さがないと出来ない。これが来なければ大阪杯コントレイルと同じと思えばいいし、負けることが不思議と。

ストゥーティ

こういう馬に福永乗ると面白いんだが岩田でもいい。なんか今年の桜花賞ブルーバードを除いて前走3着以内の馬券になっている馬しかいない。前走着順がいいのに人気薄であれば狙っていくとそうやって私は馬券買ってきた。現時点単勝80倍でも複勝8倍からは3着以内ならアリと思っての数字で3連系の馬券買うとなれば加えてもおかしくない。キャロットの馬って最初の時期のクラシックレースで印象に残るからここでも来ると思うが。

メイケイエール

横山ノリって桜花賞勝てば八大競争制覇だっけ? それで買うわけではないが血統が何となく桜花賞向き知らんけど。たぶん先行決着になると思っているから前で競馬した前走みたいになれば今日のニュージーランドT横山父のあの乗り方ならば2着はいけると思う。まあよく言われるノリポツンというのはアレの意図は定かではないが…。

ヨカヨカ

これ馬主もう名前考えるのめんどくさくて適当につけただろ? 私のウイポプレイじゃん。いいよいいよの九州訛りを馬につけんな。やっぱ前走の着順がいいのと前で競馬してる点かな買う要素は。絶対前残りの競馬になると思うんだけどなぁ??? 距離がどうだかなぁ? 来ても3着まで。

エリザベスタワー

騎手で買うだけ。前々走ブホウもとい武豊が乗って9着で前走川田が乗り替わって1着。こんなん買うしかないやん。日本人で一番うまい騎手が川田。ここまで挙げた馬みんな栗東馬。

シゲルピンクルビー

いかにもな名前からまた大穴開けそうこのシゲル馬。ストゥーティでもそうだけど父モーリスってのがこの力のいる阪神馬場が絶好な印象。この馬先行よりも中団で競馬して最後の直線でと、たぶん後ろから伸びてくるとしたらこの馬だろうと。

サトノレイナス

大外枠じゃなかったら固い予想になっていた。ルメールは大外でもなんでも的確に位置をとりペースを読み絶好のタイミングで仕掛ける。こんな馬券買っている側からしたら至極当たり前のことを日本人騎手はできていない。このルメールしかできてないんだからマジで意味不明。出来ないことをできてしまうルメールが天才なのだろう。とは言え大外では外に回されて不利になるからスタート直後に内に切り込んで好位を取れればもうルメールでおしまい。もしかしたら休み明けがちょっと心配。調教はまずまずだがそれも気休め程度でどこか不安。

これらから今回は3連単も買ってみると

3連単マルチ二頭軸30点

④=⑱=⑥⑧⑫⑬⑮

馬単一頭軸12点

④=⑥⑧⑫⑬⑮⑱(⑧⑱だけ厚めで⑬やや厚め)

ワイド二頭軸10点(基本メイン)

④⑱=⑥⑧⑫⑬⑮(⑧⑬厚め)

 

点数が多いが桜花賞は少ない点数で大きく張ると泣きます。1万以内で遊ぶ買い方です。そもそもギャンブルとは遊ぶものなので人生賭ける大金張りはバカだと思ってます。それでもそんなバカなことするならば④の単勝だけでいいのでは? これでも真面目に予想したつもりですが昔から大して当たっていないので鵜呑みにしないで。これ外れたら詫びの一言でも言います。

久しぶりに馬券買って当てた

(☝ ՞ਊ ՞)☝ウェーイ

 

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これならば7-8一点だった。けど久しぶりの馬券だから遊んだ。ワグネリアンブラヴァスを買うのは遊びであり、そもそもサリオス、グランアレグリアが3着以内にこないという結論ならばその2、3着馬を探した結果。前日ブログで予想を挙げたがアクセス数が低くて恥ずかしくなって消した。サリオス、グランアレグリア買う人は後悔するとか大変失礼なこと書いたから消したのもある。 

儲けるつもりはなかったが当てたかった。久しぶりに馬券買ったからには当てたかった。これで外れれば後悔なしというところまで読んでウインズ浅草で爺の行列に混じり買った馬券は見事に当てられた。それだけで十分。そもそもレイパパレを頭で予想しモズベッロなんて私の頭では処理できん。それが3連単の払い戻しに示されているかのよう。大きく勝ちはしないが負けなければいいとそんな予想スタイルがワイド一択の馬券を買わせるのであるナイスネイチャ

レースを振り返る。

スタートでコントレイルはまずまずのスタート。だがずぐ福永が馬を下げた。またかよ…。ハッピーグリンが逃げると思ったがレイパパレが逃げるのは、強いあの3頭の差脚とか気にしてないのか。川田の思い切った騎乗だと。ワグネリアンが好位外目につけて私の思っていた位置取りとってくれて嬉しかった。サリオスもっと中団だと思ったが前で競馬するとは、この馬場では伸びないから先行粘り込みの戦法か。1000メートル通過59.8はこの馬場にしては速い。けどテレビで見た競馬場は雨がザーザーでこんな雨降った馬場では後ろからの馬は伸びんだろ、買っていたブラヴァス絶対3着なし諦め。だからって今まで中団にいたコントレイルを無理やり動かして好位追いかけるなんて、だったらスタート直後に好位に張り付けよだからお前はコネ永なんだよダービー取っても5chでバカにされんだよ。これがコントレイルが直線芝生の状況がいい外を走っても伸びなかった原因だと思う。馬のアクセル踏むのは最後の直線で3コーナー手前じゃねえガス欠やん。モズのキモぞ…池添を見て見ろよ、中団コントレイルの直後にいたけどコントレイルと一緒に上がらずにコーナー曲がり終えるまでじっとしてただろう。だから直線伸びたんだよ。まぁ、あれで勝ちにいったんだっていうならそれもアリだが結果論にしてもなんかあわてん坊だよなと。

直線はレイパパレであっ、これグランアレグリアに捕まるなと。グランアレグリアなんてこねーなんていった私がバカ認定される瞬間か。でもグランアレグリア伸びがいまいちで内のサリオスもなんとか先頭追ってるが…確かに無敗馬は負けるまで買えと言うから買ったけど1着になりそうとは。ややササるような走りでヨレてたが手前を代えた200メートル過ぎからハミをとりのびるのびる。なんだこの馬つえーな。最後のゴールまでは私の注目は3着争い。なんとかグランアレグリアを交わわせたのは三冠馬の意地。だけど三冠馬にしては惨敗。馬場を考慮してもなんか伸びなすぎじゃね? 馬体重が16キロ増は絞れてなかったのかなぁ? 新聞なんて買わねーから調教とかわからんかったし今思えば買っておけばよかった。いろいろ敗因言われてるみたいだけど結局俺もよくわかんね。

グランアレグリアは私の予想以上に強かった。あれなら高松宮楽勝してただろうにダービー取った余裕からいろいろ試したかったんだよねカズヲは。でもこんどからせめて本番と同じ距離のステップレース使ってね。サリオスは特に悪くない騎乗だと思うけどもう少し脚をためる中団がよかったか? でもこの馬場では伸びなそうだから着拾うにしても前め前めで競馬したくなったか。でも最後ゴール手前でタレすぎ。そんな距離持たないような馬じゃないのに馬場の荒れた内側通ったせいか? ワグネリアンは最初いい位置つけたなと思ったけど最後は消えてたw やっぱこの馬稀代の詐欺馬だよ。母父キンカメだから重馬場走ると思ったんだが父が道悪苦手のディープだから父系の影響があるのか、それとも単に賞味期限切れか? ブラヴァスはこの舞台が不似合いだったか。だから単勝100倍なんだと。単勝100倍の馬3着に入るなんて虫がいい話だった。2着のモズロッペ。これよく見てなかったけど去年宝塚で大穴開けてんじゃん。その時と同じ騎手ゾエ。騎手で買うべきだったにしても予想の外だった。後ろで競馬しては届かんゾって。勝ったレイパパレまた牝馬かよと思いながらこれからのローテが楽しみだろう。まず宝塚に出るならこの馬っぽいしもう今日の走り見たら道悪味方につけただけじゃ語れなそう。

人気馬2頭切ったのになんだか満たされないのはワイドだから。だからって大金張る程まだ競馬には不信感。今日はウマ娘に感化されて遊びで買っただけ。でも欲を言うともう少し金が欲しかった。ちなみに7-8 300円買い足したのは余計な金があったから。その余計な金が300円とは…それだけ金ないんだよ無理して買ったんだよ。来週の桜花賞はそれこそウマ娘ファンなら買うべきレースだけどその予定はまだ未定。それと来週土日あたりに払い戻ししようとしてるがまたコロナで閉まったりしねぇよなウインズ。

最近人身事故が多い

これも時代の影響なのか、はたまた人が病む理由を見渡してみれば誰が悪いのだろうか?

人身事故のほぼ何が事故であるのかは自殺と言えるだろう。この電車に轢かれて死ぬ方法は自殺者にとっては首吊りよりも練炭よりも事を運びやすいと思う。それというのも首吊りは死ぬ場所を見つけてもいざ首に縄を括る際にイモを引いてそのまま泣き崩れて未遂に終わる率が割と高いとある精神科医師か誰か知らないが聞いたことがある。首吊りは意外と勇気と度胸が必要であり、そして死ぬまでの時間が10分も要する時がある。その一瞬にして死にたいという願いとは裏腹に死ぬまでに地獄に行く前から地獄の苦しみを味わう。練炭はこれまた辛い。溺死する以上に(溺死は息が出来なくても水を大量に飲んでしまえば失神し意識が飛ぶが練炭は息が出来なくても失神がない)、その息が出来ないで死ぬまでの時間があまりにも長い。目は不気味なほどに充血してこんなバカな真似はやめようとしても体は動かず外に出ることはできない。自分が死ぬのを改めようとしてもそれが出来ずに赤い目から涙を流しながら大変後悔し苦しみぬいた末に死ぬ。それすなわち首吊りの比ではないというではないか。ひと昔前に流行った硫化水素自殺も切腹よりも苦痛を生む(たぶん誇張であるが)というしその身体はカエルのように緑色になる。その死体の色まではどうでもいいが人間ラクには死ねないのである。飛び降りは一瞬で苦しみなく死ねるがそこまでに至る経緯で警察に説得されて未遂に終わることを考えたら手軽ではない。拳銃自殺が一番楽だと思う。しかし田宮二郎みたいな猟銃も警察の38口径も持てない人間にとってそれは高根の花。だとしたら何がいいのか? 私は結局鉄道が楽なのではないかと思う。

電車へ飛び込みは意外と勇気がいらない。何故か何かに吸い寄せられるように体が勝手に動いてくれるのだという。そのへんの心理的カニズムを残念ながら私は知らない。ただ、よく聞かれるのが別に今日死のうと思わなかったのに死にたいと思い続けていたら何やらノリで死んでしまうことができるのが人身事故もとい列車飛び込み自殺でありそこには勇気も何もいらないらしい。「死にたいかもなー」と思うだけで電車に吸い寄せられるのである。私はこれを死神が呼んでいるのではと思うほどあっさり死んでしまうことに一抹の無常を覚える。飛び込みで死ななくても四肢切断して命を拾った人間が電車が来たからとにかく飛び込まなきゃという義務にかられたと聞く。今自分の命を終わらすのに電車のホームに入ってくるあのスピードが飛び込む合図を強く自分に送っているから躊躇なく飛び込めたと言ったらしい。それはあたかも機械的に自分を殺してくれる人道的な安楽死みたいなものが電車から感じられたと。自殺で好まれるのが苦痛もなく一瞬にして死ねる、そんな都合のいい自殺方法がコレなのではないか? 自殺を思いとどまらせるのは死への恐怖である。その恐怖を電車に飛び込む人間が抱かずむしろ死ぬことに駆り立てられてしまうのがこの自殺方法の悩ましさではないだろうか? 鉄道で死ぬことの恐怖をどうにか自殺志願者に伝えることができればこの自殺は防げる…? そんな心理的課題を問うよりも物理的な解決策が手っ取り早い。ホームドアの設置である。つくばエクスプレスは2005年開業だが今に至るまで私の知る限り人身事故で死んだのは一件しか記憶にない。鉄道の利用客数とかこの際関係なくてつくばエクスプレスで自殺がないのはホームドアの存在があるからだと結論付けたい。だからどうにかして東京の全駅にホームドア設置を大変強く願うしそれで都税が上がってもいい。だが設置しないわけは「面倒だ、金がかかる、それに人が死んでもこちらの責任でもないし自殺するほうが悪い」という理由があるのだろう。こういう態度は今の日本社会、いまだに変えことができていないのは自殺者がクズ扱いされているからである。こんな態度だからホームドア設置がままならないのである。人間が人間を見下すのは文明社会の弊害だろうが自殺者には人としての尊厳はないと言いたいのだろうか? ダイヤを乱した迷惑な存在でしかないのか? 迷惑ならばその迷惑な人間を出さないように極力努力でもすればいいではないか?

3月30日午前11時51分新宿駅8番線中央御茶ノ水東京方面にて人身事故が発生した時私はそこにいた。東京で暮らしていて最も後悔する時間。もう東京で暮らしていればこれだけは馴れないし、むしろ馴れてはいけないのだと思う。死んでしまったものはそれも仕方がないと他人事でいられない、何か同情してあげないとダメなのではないだろうかと。死んでしまうことに対して同情してあげられるのは人としての優しさだと思う。いや思うのではなくそうであると。血は水より濃しというように所詮他人のことなどどうでもいいと思うのではない。その後池袋で降りたら今度は京急で人身事故。そうやって続けて人が死んだかは知らないが死を連想するような事故が起こるたびに私の気持ちは沈む。それなのに街の様子は人々の笑顔で歩いている新年度に向けての何か明るい楽しい出来事があるのだろう。そういう人は人が死んだ姿を知っているだろうか?

人身事故で死んだ人間を見たことある。見たくなくても見てしまう時がある。人の形ではないただの血まみれの肉を見た。けたたましい警笛に電車にぶつかる鈍い音の後周りは大声で叫び狂うのだが私は叫ぶことは出来ない。その肉を見ては膝から崩れ落ち茫然としてた。いつの間にか駅員室につれていかれいろいろ聞かされたりしていた。けど答えるのは人が飛び込んで死んだという事実だけしか答えられない。その日は仕事を投げ出しタクシーで帰り飯も風呂もなしに寝る。寝ることで忘れればどんなにいいことか。1週間は、酷ければ1か月は尾を引くしその間ネットも何も見ることはない。人の死を生で見るというのは人身事故だけしかない。書いていてしんどい。人身事故で電車が遅れて迷惑だとかTwitterで愚痴るのはまだいい。許せないのがそういう事故をあえて無視してなんか今日は楽しかったなどとTwitterなどでその出来事に対して無関心な態度をとる輩。同情も非難もしない自分のことだけしか興味ない連中。血は水より濃し。私はこの言葉が嫌いだ。人を殺すのは加害者だがそれ以上に無関心な人間が人を殺している時もある。助けてやればいいのに無関心でいるからその人は助けを求められず死んでしまうのである。私はそんな無関心な人間どもを鬱病にして殺してやりたい。もう二度とTwitterでヘラヘラ笑いながらの投稿を出来ないようにしてやりたい。

競馬雑誌「サラブレ」の投読者投稿コーナーますざぶのおもひで

このブログの本来の成り立ちは競馬に関する事柄だったはずだ。

それがいつしか意味不明な五目飯みたいな内容に何の一貫性もなく最近はドール関連が続いている。あの頃の競馬好きが今では信じられないくらい競馬に対して無関心よりも嫌いになった。その経緯は語るにも落ちたものだが昔は今では信じられないくらい競馬が好きでその競馬趣味の中でサラブレという競馬雑誌は私の競馬趣味になくてはならない存在だった。

私が競馬に興味を抱いたのは中学1年頃にスーファミダービースタリオンであった。当時は競馬なんてギャンブルで金に卑しい汚い大人がするもんだと軽蔑していた(まぁ子供の頃の感性なんで…)。友達が一風変わったゲームをしていたのを見て興味を持った。それがダビスタ。ああ前置きの語りが長くなる、要するに競馬は中一の時に始まった。

そのダビスタのゲームとしての攻略本的な書かれ方をしていたサラブレに興味を持った。当時ガキが競馬雑誌買うのが訝しげられたので父親に頼まれて買うようなそぶりで買っていた。その過程で目に付いたのが読者投稿コーナーのますざぶ。これは今でいう大喜利みたいなもので、お題に沿って投稿者が面白おかしくネタを投稿して、まあジャンプ放送局みたいなものだと言えば通じるか。その投稿コーナーがくっそ面白くて普段ギャグで笑おうとしないつまらない感性の私が呼吸困難になるほど笑ったほど。本屋で立ち読みしてはますざぶみると笑いだすその姿は他の客にとっては不気味で仕方がなかったであろう。ただ私はますざぶというものに投稿してみたいとは思わなかった。あまりにもレベルが高すぎて私では難しいと感じたからだ。そうしているうちに高校の頃不良化した(マジです…ガチの黒歴史)ことで競馬もますざぶのことも一度忘れていた。

再びますざぶに興味を抱いたのは大学生の時。2003年10月についに私はますざぶに初めて投稿して見事ネタが載った。そのネタが競馬用語のウソ知識というコーナーでこれは競馬におけるあらゆる専門用語の意味を別の意味に捉えてボケてみるという趣旨。

エリカ賞JRA理事長の孫娘にちなんだレース名

競馬を知らない方には意味不明。中央競馬のレース名にエリカ賞というものがありレース名の由来は植物の「エリカ」からとったもの。競馬のレース名にはこうした花とか植物が由来となっているレースが多々存在しエリカ賞もその一つ(ちなみにエリカ賞は後に有名な馬が勝っているレースとして知名度は高い、よな?)。そんな本来は植物からの由来であるエリカ賞というレースの意味は実は理事長の孫娘の名前なんだよとウソついている。これが競馬用語のウソ知識の意味と成す。私はエリカ賞と聞いたら「エリカなんて人の名前じゃん」と思い、エリカといういかにもお嬢さまの可愛い女の子を想像したから、そしてJRAのレース名ならばその長のJRA理事長の孫娘の名前から想像できるんじゃないかと考え投稿した次第。これが私のますざぶデビューの最初のネタだ。ちなみに獲得ポイントは1P。己のネタがたくさん載るとポイントがたくさんもらえ、そのポイントを競って最終的に誰がたくさんのポイントを獲得したかを競うポイント制をとっていた。

それからますざぶの投稿にハマった。はがきにネタを送っては一か月後のサラブレの発売が楽しみで仕方がなかった。ネタが紙面に載るということはこれ程にまで嬉しいものなのかと感動さえもした。SPAのバカサイにも投稿したことも新聞、雑誌の和歌コーナーに投稿し採用されたこともあったがますざぶにネタが載ったことのほうがそれらと比べ物にならないくらい別格で嬉しかった。何故それほどまで嬉しかったのかはよく覚えていない。競馬が好きだったからそのネタが載ったから嬉しいんじゃない。ますざぶは自己顕示欲を最高に満たせる優れた投稿コーナーだったということか。

ますざぶでの私の実績は中堅ジョッキーくらい。一流の投稿者でもないのは謙遜ではなく本当。半年の期間中にポイントの合計を競うのだが私の最高は60ポイント台。もっと上は100ポイントが当たり前で200ポイントに迫る程。そこで私の投稿能力の限界を身に染みて覚えられさせた。どんなに自分は面白いネタを考えても絶望的な才能の差に打ちひしがれた。たしかそこから最後の頃はますざぶ投稿が面倒くさくなったんだと思う。嫉妬で自滅は私のお家芸。そんな私でもますざぶに自分のネタからコーナーかされたことが2回あった。たぶんこれは私だけだと思う1回はあっても2回はなかったと思う(ホント曖昧な記憶で間違いかもしれない)。1回はサッカーのフォーメーションの図式を競馬に関係するものに置き換える「戦えJRAイレブン」(どんなコーナかは割愛)でもう一つは、これはウマ娘よりもはるかに私のほうが先に考えてたであろう競走馬を擬人化したイラストコーナー「教えて!イメージホース擬人化」で競走馬の名前から連想した馬の擬人化したイラストを描いて送るコーナー。これが私のネタから作られたのが今でも誇りだと自負する。

 

 

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ハンドルネームは今ではKurihu だが この当時は大円舞(曲種の円舞曲が由来)という大そうな厨二ネームである。

 

今大人気のウマ娘みたいなことをそれ以前から私は構想していたこの先見性、まじで優れてね(アホ)。この馬を擬人化したイラストとはなんとなく馬名からの言葉の響きから連想されることが多かったと思う。このモンジューという馬は欧州の名馬であるが、私はこのモンジューが欧州の馬でビックタイトルを手にしているからだから外国人の紳士的で名声高い風貌をしている感じで擬人化してみた。あいにく今も昔も絵には自信はないが頑張って考えて描いた絵が採用を飛び越えて編集の方が同調してくれてコーナー化して頂けたことはとてもじゃないが嬉しくて今思い出しても嬉しい。自分のネタが載るのでなく自分のネタがコーナー化して他の投稿者が投稿してくれるこれは投稿者冥利に尽きると。ちなみにこの擬人化は美少女化と決まっているわけではなく別におっさん化したってかまわない。

こうした経緯もあってなおもますざぶ投稿を続けたがいろいろ環境や気持ちの変化から投稿が遠のいた。そんな時期一度ますざぶが終了した。投稿熱が冷めてとてもいい機会だったと私は正直喜んだ。というもの惰性で投稿し続けるのは苦痛でこれならコーナーが終われば踏ん切りがつくと考えたから。しかしすぐに投稿ジャングルと名を変えたコーナーが始まりその流れからますざぶが復活した(ポイント制は大幅に変更されれたが)。一度終わるとした取り決めが嘘だったのか? なんとなくその嘘つかれたような印象が気持ち悪くてその当時ますざぶが嫌いになったがそれでも考えを改めて新しくなったますざぶもたーまに投稿しては採用されてた。が、いつのまにかフィードアウト。その存在を今日まで忘れていた。その忘れていたことを思い出させたのがある方がTwitterで言及したのを見たその時、これで私の思いでも本当に終わるんだなと思うと悲しくなった。だからこうしてブログに記している。

ますざぶ最終回のサラブレ買うかと思うのだがもうその辺のコンビニにサラブレ置いてなくて見つけるのが面倒。確実に置いてあるところは水道橋降りたドームに向かう途中にある書店なんだけどそこまで行ってまで買う気にはなれん(ダメじゃん)。ただ私の思いでに中に確実に楽しかったと言えるますざぶ投稿、最後くらい言及するくらいの義理は果たしたい。競馬は嫌いになったことが残念だがますざぶは嫌いになっていない。行司こと近藤さん(今でも担当されてますでしょうか? 間違っていたら申し訳ありません)、今までありがとうございました。お疲れ様です。あの時の楽しかった日々本当に感謝しています。