死にたい奴は死なせとけ
最近都内は電車がよく止まる。
この前の水道橋(2016年4月13日の時もひどい目に遭った)で下手な工事をしたおかげで電気が通らないから電車が動かないなんてふざけた理由ではなくて、純粋に電車で死ぬ奴が増えたということだろう…。
私は意外と薄情な性格だから人が死のうとどうなろうと知ったことではない。
今日もよくもまぁ京浜が遅れた。なぜ遅れたかは人が死んだからだろう。私はその遅れた時間を何で潰そうとスマホでも見ようとしたけど、メモ帳に詩を書いていた。
人は最も霊智なりと謳うも*1
適たま世中に在りと見るに*2
庵ち去って帰る期なし*3
なんぞ覚らん 一人の無きを*4
親識も豈 相思はんや*5
自分でつくって自分で詠んだこの詩の本質は荘老思想をとり込んである。
この古臭いような中国の思想とは自然というものを重んじる。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。人の生死も自然の働きの一部に過ぎず、生をよろこんだり、死を悪んじたりせず生きるも死ぬも安んじで変化に従うべき。
「今日自殺した人も混雑でホームに転落して死んだ人もすべて運命だとして受け入れよ」と言いたいのが私がつくった詩の本質である。人が死ぬということはすべて天が決めたことであり、そのことに異を唱えるなどとは、天に対して唾を吐く行為に他ならない。つまり死んでしまったものはそれで自然に帰っただけで、人が死んだことに何ら疑問を持たなくてよいという。
人が死んだのにそれは運命だからごちゃごちゃ騒ぎ出すなとはまるで血の通わない薄情な人間だと私を批判してほしい。しかし、他人の死に感情的になってもその10年後を想像してほしい。果たして自殺した人のあの日をあの時間を覚えていられるのだろうか。本当に人が優れているというのならば自殺した人間をいつまでも覚えていられるものであると思うのだが、それが出来ないのであればその時の感情など「人情薄きこと紙の如し」なのである。自殺がいけないのならば全駅にホームドアを設置せよと言え。言っても無駄だと思うならば、私みたいにその人の自殺にとやかく言うことではない。それと人の死は自殺を含めて自然に起こることなのだから(自殺が自然に起こるワケがないというならばどうすれば年間自殺者をゼロにできるのか教えて欲しい)、例えホームで自殺した人を迷惑だと批判するのは死を自ら選んだ人へ対する冒涜である。死を選び死を迎えたことはその人の運命だったんだなと、その自殺という死も天が決めたことなのだから、それを批判することはやはり天に唾を吐く行為なのである。電車が遅れて人生を台無しにしたというならば、自殺した人はあなた以上に人生を台無しにしたという察しが出来ないのであればお前は人として優れてはいない。
人は生きたい時に生き、死にたい時に死ねばいい。そもそも人はいずれ必ず死ぬ。私は薄情だから身内が死んでもこのようなことを平気で言ったりもした。どこの誰かと違って人身事故でイライラしない私は人が死んだことが自然に思うからいちいち人が必ず死ぬという自然の道理に異を唱えないのである。