寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

私は私が嫌いなんだよ

この言葉、あるアニメから引用した。

私らしいこれ程ぴったりな言葉はなかった。

意識高い系(他界系?)雑誌の一つプレジデントで好かれるもとい面白い話し方、嫌われる話し方というのがあったから読んでみたら好かれる話し方はムカつくからここでは言いたくない。嫌われる話し方は長々と喋り続けることが第一位で二位が愚痴やネガティブなことを言うことであった。一位はまだしも二位はまるで私じゃないか。つまり精神病は皆から嫌われるということか。愚痴やネガティブなことを言うのはたいてい精神的に疲れている時です。ふざけて言っているのではない。せめて私の気持ちをわかってくれと共感してほしいがために言っているだけです。そんな人がせっかく話してくれているのにつまらないからやめろとはどこまで精神病者は嫌われ続けなければならないのか。その話が嫌でも親身に相槌もできないほど聞き手は面白さをそこまで求めたいものか? 漫才でも見てろ。精神病患者に友達はいないと言います。確かに考え方が根本的に違っている人間とは分かり合えないでしょう。けれども、わかっていても、つまらないから愚痴やネガティブなことは話すなとはお前何様のつもりなんだと思います。こんなくだらない無教養なこと書く雑誌休憩室に置くな。読んでみればいつもいつも能力ある人だけが価値があり、ダメな人間を徹底的に排除することが正しいと信じて疑わないといった論調なんだなこの雑誌は…。

最近医者の薬に頼るようになった。生半端な精神医学など私には通用しないらしく医者も首をかしげてばかり。そして、よくめそめそと陰気くさい漢詩を考えてその漢詩は新聞の投稿で採用されない。やっぱりこういう人間は嫌われるのか。それを個性と見なしたうえで人々は分かり合えないものなのか。何の因果でこんな性格になったのかは私の母親に聞けば、私の母系は精神的に危うい一族です。それで性格を直せとはいささか酷なことと存じ上げます。

愚痴やネガティブな会話にもその言葉の真意を問いただすように受け応えなければその会話はつまらないものです。私は精神病の方と話した際に感じたことが、言葉の裏をまで読めることが出来れば会話はいつしか、倫理、精神哲学に及び人間のさまざまな思考回路に気づかされて大変有意義な会話だったことを今なお覚えている。愚痴やネガティブだからこそ、面白い会話にはない部分の心の状態を知ることが出来て面白い話と言えるのです。残念ですがそういう言葉の心底というようなものを読み切れない者たちは感受性に乏しく教養はなく哀れに見えます。何人たりとも面白い人ばかりが存在する世の中ではない。

人間とは個々に性格が存在し一長一短で語られる。多様な性格の中に面白い話だけが出来れば苦労はしない。その苦労を何故わからないでいるのか。面白い人ばかり求め嫌われる人だと言葉で決めつける、その言葉の決めつけこそが嫌われる人間その人なのだと私は思うのです。しかし私みたいなのはメンドクサイ人間だなと思うのも、また至極まっとうな意見かと。

だから私は私が嫌いなんだよ