寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

日本人が解放されても素直に喜ばない自国ネット民に疑問

人質として3年以上も捕まっていた日本人ジャーナリストがいるが、いざ解放されたとなるとネットの反応はどうであろうか? タイで少年が洞窟に取り残されたあの時、少年が救出されたときはタイのネットは感動歓喜喝采、タイ国中が喜んだものだが、それに比べて私の国、日本では

自己責任と吐き捨てる・・・。

正直私はこの自己責任という言葉が死ぬほど大嫌いである。タイの少年だって勝手に洞窟に迷い込んだのだから自己責任と言える。だけど救助の準備段階で洞窟の水を排水した際に畑が水浸しになって使い物にならなくなっても農家はそれでも子供が助かるんなら畑が水浸しになってもかまわない。自己責任と屍に鞭打つ行為はタイの人はしなかった。当たり前である。本来は何らかの過ちで受けた災難をそんな言葉で片づけられるほど人は優秀ではなく、もしそうするのであれば人の心が通わない人格破綻者ではないか。

昔ある若者がテロリストに捕まった。家族は報道番組に出て何とか助けて欲しいと。それでもどこに捕まっているかはわからない。返してほしければ自衛隊を撤退せよと政府に通達してきた。政府は政府で動くのであり一個人の為にそんなことは出来ないと半ば相手にしなかった。そして首を切られて終わった。

私は確かにテロリストの要求は受け入れがたいものだとは思うし政府の対応は間違いではないだろう。しかし問題はその後。まるでテロリストに捕まったことが迷惑以外の何ものでもないというように自己責任という言葉が流行語に選ばれた。政府の責任を一般人に転化した、事の是非はともかく同じ日本人が殺されたというのにテロリストに敵意を向けたのではなく捕まったほうが悪いという政府の薄情な腹の底をマスコミを使い世間に風潮して国民に感化させた自己責任と言う言葉。それは暗にテロリストに肩をもつようなもの。「そりゃテロリストだから人を殺すのは当たり前だよな。むしろそんなテロリストに捕まる人間のほうが馬鹿だよな」。完全な善悪の取り違えである。政府は元からあくどいから仕方がない。それよりも私が残念だったのはテロリストに捕まった人に同情せずに政府に迷惑をかけた非常識な一般人は殺されても仕方がないとしたお人好し優しさを失い損得でモノを考えるようになった日本人である。「自己責任」という言葉にはそんな日本人の薄情さがこびりついて尚更大嫌いである。あんな危険な場所に一人のこのこ出てくるのは馬鹿だ。そんなの言われなくても私にだってわかっている。だからと言って死んでも馬鹿と言い続けるならばお前一体何様のつもりなんだ? 死んでしまったものは仕方がないと半ば諦めてくれたほうがはるかにマシ。なぜ殺されて説教されなければいけないのか。

ネットを見てみるとここ最近日本人の性格が変わった。言い変えれば昔よりも日本人の性格が悪くなった。本音を言い放つことがインテリジェンスで物事の本質を捉えた鋭い意見として世間は賛同すると勘違いしている。それはデブにデブ、ブスにブス、ハゲにハゲとその人が気にしていることを何の配慮も優しさもなく、ただ事実だというだけでそう言い放つソレと同じである。口舌の刃で人を切る。これこそがとても心地よいという辻斬りが今のネット社会で流行している気がする。

あのジャーナリスト、捕まってもそんなの自分で責任を持つといいながらいざ捕まると助けろ何だと言い出しまるで馬鹿じゃないかなんて、そんなの言われなくてもわかってる。せめて嘘でもいいから帰ってきた時ぐらいは「よかったね」の一言も言えないほど日本人はひねくれた陰湿で薄情な性格になってしまったのか。身代金目的の自作自演という可能性もある。だからと言ってせっかく今こうして帰ってこられたのに何で本音を隠そうともしない精神的に未熟な嘘の祝福もできない許容力なき心の狭い日本人がいるのだろうか。もしかして首を切られてしまえばよかったのにとでも思っていたのか。目障りだから殺されてしまえ。まさかと思うがそれって同じ日本人じゃないよね? 千羽鶴にまで難癖付ける人間とは、ならどうすれば人の気持ちを素直に受け入れてくれるのだろうか私に教えて欲しい。千羽鶴は不要、ただのつまらない演出。そこまで屈折して物事を捉えられなくなった日本人とはやはり性格が悪い。

私は、たとえ偽りの拘束であったにしても、いざ帰ってきたたならば「帰ってきてよかったなぁ」と言えるだけのバカなお人好しでありたい。それは何らかの思想が関わってくるものではなく、純粋に人に対しての優しさがそうさせているだけである。あの日本人ジャーナリストを批判するのであれば、そんなバカなお人好しの私を存分に叩いてほしい。それと自己責任と薄情な言葉で切り捨てるネット民。自己責任としても、命が助かり日本の地を踏むことが出来てよかったねと言える私。双方の相対的な意見に正しさを求めるならば、人としての優しさで判断すれば私が正しいのではと思う。その優しさは間違いかもしれないが、どうしても私には批判は出来ないのです。何故ならもう一度素直で優しい日本人に戻ってきてほしいから。だから私はあえてあのジャーナリストを批判できないのです。