寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

たかが女に趣味のものを捨てられたくらいでキレる男。その男尊主義がキモい

いずれ語ろうとして忘れていたことがある。もう昔かもしれない。ある方と話したことなのだが妻に自分が集めた特撮とかロボットフィギュアを捨てられそうになり、その非常識な、人の尊厳を殺したとか私に語った。よくネットでも話題になる (最近話題になったか?) 妻や彼女に大切にしていた趣味のものを捨てられるという報告は聞かれる。自分の趣味に理解を示さないバカ女としてその後の顛末は関係は修正不可能と締めくくられる。その方は私もフィギュアとか買っていると先に話したから共感したのだろうか、そんな自分の趣味を捨てられるあまりにも理不尽な妻の行動を嘆いていた。私はその話を聞いて・・・相手に指を突きつけながらこう言った。

 

「不見識者め! 恥を知れ! 妻が何故それを捨てたのかを、その意味を考えたことがあるのか!」

 

相手を指さして意見を言うのはとても気持ちいいです。私は性格が悪いから今後付き合う予定のない人にはこうしたニュアンスの言葉をよく言う時がある。本音を語って嫌われれば当たり前。むしろそれで好かれたら私はその人を尊敬するが、大抵嫌われる。

 

夫、彼氏の趣味で集めているものを捨ててしまう女性の心理は私の自己分析によるとこうである。

 

・明らかに嫉妬深い性格。夫や彼氏が自分以外の趣味のものにうつつ抜かすのは他の女とうつつ抜かす不倫だと認識する。趣味のものを他の女性と同一視するのは女性の価値判断に対する脳みそが未熟であるから分別をつけろという男の言葉は無意味である。私以外のものに夢中になるのが許せない。だから捨てる。

 

・嫉妬深いことは独性欲が強いことも挙げられる。自分が夫に尽くすのだから夫も私に尽くすべき。それは私以外は見ないでというヤンデレ的独占的な考え方に他ならない。要するに精神病なのである。自分が一番でないと嫌だ。趣味に高じるのは私を下に見ているからだ、一番は私であり趣味ではない。そんな一番を奪う趣味のものは捨ててしまえば私が夫の中で一番になる。精神病だから、だから捨てられる。

 

・相手を自由自在に管理したがったり、思い通りにさせようとする束縛的価値観に起因する。藤原紀香がいい例だろう。風水にこだわり過ぎて元夫に愛想つかされた (詳しくはググレ) 。私の理想通りになってというのは、そんな不潔な顔してないでとかカッコよくなってという心理が働いている。彼女からしたらフィギュアやプラモや鉄道模型はカッコ悪い趣味なのである。そんな趣味を持たないで私の思い通りになって。だから捨てる。

 

 ・自分の価値観を大切にするあまり、己の理解されないものが許せないという視野の狭さ、器量のなさ。右翼が嫌い、左翼が嫌い。だからといって同じ国に住む者同士だろ。協調性とは固執した価値観が打ち砕いてしまう。価値観を分かり合い、お互いの長短を見極めてより良い未来を目指すものなのだが、日本ならずとも世界中がこんな簡単なこともわからない。国がこうならば、その国に住む人間もそうだろう。価値観が違うというだけで嫌悪する。だから捨てる。

 

 ・夫や彼氏のものは私のもの、という極めて常識とは逸脱した自己中心性。自分のものはたとえ他人のものであっても自分のものとすることは幼児期の心理特性。つまりガキ臭い性格で大人になれていない。とても恥ずかしい。夫、彼氏の趣味のものは私のものであり、それは私には必要ない。だから捨てる。ある種よくこの年まで生きていけたものだと首をかしげたくなるだろう。

 

・心理学的見地から言えば趣味のものを捨てるという女は自己愛性パーソナリティ障害と考える。そして私はそんな女の行動様式に理解を示す。何故なら自慢するわけでもないが私も精神病だから彼女たちの気持ちがよくわかる気がする。もし、趣味のものを捨てられた男たちはその辺の身の上事情もある程度知っておくべきだった。これは普段の何気ない日常でよく目にする。「あれ?」と思ったらすぐに趣味のものを隠すべきだった。それがわからなかったのならば、なんでそんな女といっしょに暮していた意味がないではないか。お互い惹かれ合って一緒に暮らす仲だろ。

 

結局女も悪いが男も悪いのである。いや、女の心理に気づかない男というのは鈍感すぎて反吐が出る。男というのは正直デリカシーがない。感受性が欠如している。女性は感情表現がたいへん旺盛。それに元来女とは建設的な意見より感情的に動くものであることは長い歴史の中でも証明済みであったはず。男がそんな女性の感情を読み取れないのはいくら偏差値がよくてもバカに他ならない。そして愛しているから趣味のものを捨てたという理由ならばそんなくだらない趣味のものなんて捨てても構わない。趣味が愛よりも優先されることは私にとっては許せない。捨てるのは彼女なりの独善的で稚拙ながらも真の愛情表現だったのです。

趣味と人の愛、どちらを選びますか?

趣味を捨てられただけで人の愛とは捨てられるものなのですが?

趣味はまた集められますが、人の愛とは集められますか?

私は、人の心も価値があり、趣味を分かり合えない人の心なんて価値がなくて捨ててしまえという唯物主義者に似た、その人の感情表現だった出来事を損得で切り捨てる男尊主義が気持ち悪いです。ものを捨てられたというのはその人の屈折した愛情表現だったはずです。屈折しているとはいえ、いじめとか困らせるために捨てるような感情ではなかったでしょう。私が「趣味のものを捨てる女は何なのか」と上で示しましたが、どうも、男の人を愛しているからそういう行動をとっているのです。喧嘩してとか、何かの腹いせで捨てているのではないのです。愛の行動様式に過ぎないのです。私は愛とは人の趣味を捨てられたら離婚できるという口先だけの法的拘束力などとはまた違う絶対不可侵的な聖域であるとみています。関係が破たんしたらそれで愛は終わるという愛は愛ではない。愛の為なら趣味を捨てても、それも人の愛であったと一定の理解を示します。ていうか理解する。

趣味のものを捨てられたぐらいで心神喪失したり離婚を突きつける男とは愛を知らない、よくそれで大人になれたなと。大黒摩季の歌にあるように「あなただけを見つめるために全てを捨て去ってあなたについていく」というあなただけを見つめているという歌。職業、財産、家柄、すべてを投げ出して駆け落ちするような愛。そこには物欲というものとは無縁。そんな真の愛というものを趣味のモノを捨ててまでしてわかってほしかった女の心底…。愛があれば趣味がなくなってもそれでいいではないか。

私は趣味どころか自分の命も愛した女性に捨てられるのであれば喜んで殺されるだろう。私の死に方で一番望むことは愛している女性から殺されること。その理解しがたい考えは私が考えた歴史小説でこの意味不明を理解してください。

茶々は小谷の城で自分の父浅井長政を殺した秀吉を憎んだ。茶々は北ノ庄の城で自分の母を殺した秀吉を憎んだ。茶々が殺してやりたいほどの秀吉は、秀吉が若き日の頃から惚れていた母のお市と自分が瓜二つだからと秀吉は茶々を側室にしようとした。茶々は側室になれば秀吉に近づけるし、それで殺せるからと側室になった。そしていざ秀吉と二人きりになった時茶々は何故側室になったのかを秀吉に話す。その話を聞いた秀吉は「お前にならば殺されてもいい」と茶々に小刀を渡した。茶々はその時、殺されてもいいくらいと思うほど自分を愛していた秀吉に激しく動揺した。「いつ殺すかは楽しみにしていな」。茶々は小刀を持ちながら秀吉の前から逃げ出した。

そんなことより、愛している人が大切にしているものを捨ててまで私に振り向いてほしいというほどの愛情表現をされる夫や彼氏が羨ましいです。そんな愛されかたに嫉妬します。私は結婚したら(できたら)まず、趣味のものを跡形もなく捨てます。お願いだから一緒に死んでと言われれば喜んでいっしょに死にます。愛とはいろいろな考え方があり、私「だけ」はそれが愛と捉えています。

大切にしている趣味のものを捨てるなんて信じられない、理解できないというのは同性の女性からも強い批判があるようです。大切なものを捨てるのは到底許せないことだと。でもそれが愛情表現だとしたら私はそれでもいいのではと、批判する人を説得します。今回はそんな意図がありこんなこと言ってます。人の大切にしているものを捨てるような理解しがたい人間を理解しようとした理解しがたいブログ主であるので理解されないことは私もよく理解しています。ただ、たかが趣味のものを捨てられたぐらいで騒ぎだすようなモノの価値しか見ようとしない、人の愛情を蔑ろにする男は私は理解せざる負えないにしても、心の中では理解したくないです。