寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

人を殺して何になる

施設で19人殺した事件も座間の9人の遺体をアパートに置いておいた事件も私にとってさほど気にも留めなかった。

しかし新潟で女児が殺されたことは今後においても残響になるかと思う。

いつも事件がおきたら「何故」とか「許せない」とか単略思考な人間は「死刑にしろ」と殺したがりが出るのだが、その気持ちは一年後には振り返ろうとせずいつの間にか忘れている。それ程の心の留め金が外れるくらいならば最初から事件に関心を持たないでほしい。5年10年後には凄惨な事件も忘れかけている。あまりにも薄情ではないか。

私は戦後の重大殺人事件は事件発生の日時と概要とその後の判決まで自信はないが、覚えているほうだと思う。私が唯一周りから優れていると自負するのはそうした事件の記憶をいつまでも覚えていること。

この事件のいたたまれなさは殺しておきながら線路に放置するということ。これは一体何なんだと。数ある児童殺害でもあまりにも薄気味悪すぎて。感情的に言えば犯人は生きていても仕方がないだろうという口調になる。私は感情論からくる死刑反対であると自負するが、正直この事件は人間の失敗として処分するべきである。人を2以上殺して死刑になる杓子定期な永山基準なんか用いるべきではなく、感情的に始末しておく。家族は残念だが公民権をはく奪したほうが良い。それだけの事件なのである。それだったらば、殺したならば森にでも海にでも捨てて欲しかった。線路に捨てるのは到底許せるものではない。何故線路に捨てることがいけないのか。

人を2度殺したからである。以上。それだけ言えば十分だと思うのでこれ以上言わない。

そもそも、なぜこんな人間が出てくるのか? 事件はこうした児童殺害は動機がいまいち報道されない。何故ならばその動機があまりにもおぞましいからである。児童を性的暴行して殺すのは報道しにくいと誰かが言っていたか(最近の事件では千葉県のベトナム人小学3年殺害事件)。だから、どういった事件かは知られても、その動機があやふやになり「何故こんな事件を起こしたのかと?」白痴をかますかのような大衆があるわけで、それでは今後の事件の阻止力になりえない。事件がおきたからには国民はどうやってこのような事件を限りなく少なくするには何が大切かと真摯に考えて予防措置を取らなければならない。煽り運転の交通トラブルがあるからドライブレコーダーをつけようというような予防策が何故児童殺害がおきたときは出てこないのか? 

何故殺したというのがあまりにも訳が分からない。どうこれからこういう事件を防いでいったらよいのかわからないから国民は事件の防止に関心がない? 「ただの異常な気質がそうしたのであり、どうすることもできない」。もしそうだとしたら思考の停止であるのだが、それも致し方ないのだろうか。ストーカー殺人もああいった事件があったことでようやく公的機関も本腰を挙げているが、どうしてもおきてしまう。殺人を1年を通してゼロに抑えることは土台無理だからだ。殺人は人々の考える常に上を目指している。だから殺人は無くならない。常人が非常な人間を理解して犯罪を防ぐというのは常人が出来るだけで常人の思い描く犯罪防止を軽く超えてしまう非常人がいる限り犯罪は無くならない。

人を殺したのはその人が人を殺したかったに過ぎない。ただそれだけのこと。今回の事件もそれと同じ。あまりにもあんまりな話である。所詮殺人を防ぐ術は人類は持ち得なく、罰を与えておしまいにするしかない。殺人防止という方程式を解いている最中にまた殺人がおきたら方程式を解いていた努力も無駄になる気がしてくる。殺人を防ぐことが出来ないのならば感情的になって後で忘れてしまうほうが楽であるから、国民が児童殺害になんら対抗措置などを言挙げ出来ないのは「所詮殺人をなくすことは不可能」と心のどこかにあるから、半ばあきらめているのだろう。

人を殺す奴はどうやっても人を殺す。「人を殺して何になる」とそういった昔から疑問を持った私はそうした犯罪心理学の本を読んでみたが無駄だった。「サイコパス-冷淡な脳」という本を読んだことがある。サイコパスという常識的には考えられない犯罪を犯す人間の脳を解き明かそうとした書である。その書の言いたかったことは「サイコパスという並の人間の頭をしていない人間がいるから、そういうやつが犯罪をしているから、もしその犯罪をする人間がいるならばサイコパスな人間を矯正していかなければならない」と。そして最後があまりにも救えた話ではない。「そもそもサイコパスという殺人を苦にしない、むしろ快楽として行う人間をなくすことは遺伝学上不可能である。これから先もサイコパスの脳を持つ人間と社会は付き合うほかない。もし、このサイコパスという脳を治すことが出来るのならば、いったいどうすればよいのだろうか、皆さんも考えて欲しい。私はどうしていいのか、まだ答えが出そうにない」。・・・こう最後に綴っているのはあまりにも、あまりにも肩に死体が乗っかった様なそんな絶望を感じた。要するに殺人をする人間に善悪なんて説いても罰を与えてもただの骨折り損なので、あとはほどほどに殺人を理解しておく。決して殺人をなくそうとは思わないことだと、そういいたかっただけ。これは詐欺の本だとブン投げたあとどっかに捨てたと思う。犯罪者の気質がサイコパスとわかっていながらそれを防ぐ手立てがないとは、殺人を許容しろっていうことか? サイコパスを治す手立てがないからには、殺人はこれからも起こり続ける。そしてそのたびに悲しみがおき、怒りがおき、刑を科して溜飲を下げてから、そしてまた風化していくそんな殺人殺人事件とこれからも人間は付き合っていくのだろうかと思うと気が重くなる。だから私は殺人事件に無関心だったはずだが。。。

 異常な気質を持ち殺人をする。金銭トラブルや痴情のもつれ、家庭、仕事のトラブルの殺人はまだわかる。だが、線路に放置とはいったいどの面さげて今まで23年生きてきたのか? 子供を殺して線路に放置するために親は腹を痛めてそいつは生まれてきたのか? 最後に女児を殺すために今まで生きてきたのか? そして殺して刑を受けるそんな人生を本当に望んでいたのか? 私はそう考えた時、これ程人間というのは訳が分からないものなのだと、このブログを書いている最中に何度思ったことか。