寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

勝者が讃えられても負けたものに対しての配慮は…

私は東京で暮らしているが今月27日に実家の茨城に帰ったときの話。

別に報知新聞社杯の車券買いに取手競輪やろうとして帰ってきたわけじゃないが、姉貴のお義兄様の関係とかで、まあそれは個人的事情ということで。

うちの母なんだがある人物についてイライラしていた。私はそんなにイライラする理由に「ああ、なるほどね…」と。そのある人物とはもはや言葉を語らずともどれ程すごいのかは察しがつく。将棋棋士藤井聡太四段のことだった。母の趣味はテレビを見ることというくらいテレビばかり見ていた。昼はワイドショー、夜はバラエティドラマとまあよくも飽きずにテレビを見てるなと私とは大違いだと、それはそれでいいが。母は「昼も夕方のニュースもどの局も藤井四段のことばかりやっている彼の顔は見飽きたと」私に文句を言ってきた。勿論私はあれほどのすごいことを現在進行形で続けている、しかもまだ十四歳だから驚きで天才の彼に何でそんなこと言うのか最初わからなかった。

「何で? どうして? ディスコティック(阿良々木月火)」である。

母「大体彼が勝つたびにマスコミは騒ぎ過ぎ」

私「そのマスコミらで構成されているテレビを何で好き好んでみてるんだよ」

母「勝った藤井四段のことばかり讃えられて負けた棋士の配慮がマスコミにはないの? 藤井君と戦う棋士の方はまるで悪者にされて…藤井君が正義で対戦する棋士が悪。いくらあの年で凄いにしても負けた人には労い言葉も生まれてこないのか」

大体こんなこと言っていた。確かに母の言うことがわかる気がした。というかわからなければいけないのかもしれない。勝負において勝つほうが正しくて負けたほうが間違っている。そんなことは決してない。なのに藤井四段が勝つたびにマスコミは浮かれ様は間接的に敗者を傷つけている。母が言いたいことを知ったとき私はなんて言い返そうか、次に続く言葉が正直見つからなかった。

勝負とは常に勝者と敗者にわかれる。勝者に注目が集まるのは当然。が、しかし、日本は確かではあるが敗者をぞんざいに扱ってきたわけではない。それなのに今の藤井四段のは報道の過熱ぶりからその色も褪せている。話をあえて逸らすが日本は戦いで負けたり政争で負けたりしたらその敗者は死後恨みを抱き怨霊に成り下がる。そして祟りとなり国家らも影響するという考えがある。それすなわちたとえ国に対し大罪を犯し、その者が死刑になれば死刑になった者の霊を慰めなければならない。この意味合いと言うのは怨霊信仰である。いくら死刑になったものでも、ろくな死に方をしなかったものというものは死後その怨念から悪霊怨霊になるとされた。本当に日本はそれを恐れた(だからこそ平安時代初期は死刑制度がなかったほどである)。だからなのである。勝者であってもその敗者を慰めなければいけない。負けたものに対してもその勝負をしたものに対して敬意を記さなければならない。平将門菅原道真崇徳天皇らの死後に何が起き、そして何を対処したかは敗者に対する配慮であることは自明の理。

日本の武術とは礼に始まり礼に終わる。そして勝ったからといって勝者は勝ち誇ってはいけない。何故ならそれが敗者に対する無礼になるからである。勝ったほうはいいが負けたほうの心中察する為れば悔しさ敗北感を勝者が助長してはいけない。だから柔道剣道相撲は勝負が決まっても最後には勝者も敗者も礼をして終わる。戦っていただけた両者ともに敬意を示すのである。ここに勝者とも敗者もない。勝者は敗者を戦いで破ったからと言ってそのブライドまでも破ってはいけない。勝者は敗者は悪だからと痛めつけてはならない。そんなことすれば敗者は勝者に恨みを抱きこの戦いが怨恨となり以後心の中でくすぶり続ける。そして敗者が恨みを持ち勝者を殺してしまえば、そんな戦、なんて意味のないただの諸悪の根源になってしまう。負けたものが恨みを抱かせないためにも勝者は敗者に気を使わなければならない。日本の怨霊信仰はいつしか日本の武道に意識を働きかけ勝っても負けても礼を尽くして終われば後腐れなんてなくなる。剣道で一本を取ったときにガッツポーズしたらそれが取り消されるのは正にこのことであるし、ボクシングの試合でも勝者は敗者と試合の健闘を讃えあい勝者は敗者の拳を掲げてあげる。スポーツ等の勝負とは勝てば官軍負ければ賊軍ではない。そんなものは歴史だけにしてほしい。決して敗者が、弱いからと言って貶したりしてはいない。

その貶しをマスコミはしているのである。藤井四段の対戦棋士に。

強いものがカッコよく正義であり負けたものは見向きもされない。また私の病気で政治体形を批判するが、資本主義という実力主義の負の部分を見せられているのだろうか。確かに藤井四段はすごい。連勝記録はとてつもなくあの年だから余計凄い。しかしその連勝で敗れ去ったものは藤井四段を立派に見せるための道具ではない。人を人と思わないマスコミの態度に私はなぜ今気づけなかったのだろうかと母の言葉を聞いて悔やんだ次第である。

スーパーファミコン桃太郎伝説を思い出した。主人公桃太郎が各地の鬼たちの行いを正していくRPGである。この作品自体名作で私はドラクエではなくこの作品でRPGを知りいまなおドラクエ全作にも及ばないとは個人的趣向だが。この作品で桃太郎の仲間になる夜叉姫の台詞を思い出した。

勝て!たおせ!ひねりつぶせ!

カルラのいう言葉はたしかに みんなをふるいたたせるわ!

でも!

勝ったあとに何が生まれるの?

負けたがわの気持ちはどうなってしまうの?

桃太郎さんは勝つことの

悲しみを知っています!

そして負けることのつらさも!

※某サイトから引用

カルラとは敵のボスの鬼である。夜叉姫は当初カルラ側のキャラだった。しかし、桃太郎の戦いを通してカルラの考え方「勝てばいい」という考え方に疑問を抱き桃太郎の仲間になる。そこに鬼族で唯一中立を保つ夜叉姫の兄アジャセ王子が現れた時の夜叉姫の台詞である。ストーリーを知らなくても私は是非とも暗黙知にしてもらいたい。太字で記しているのはそう思える台詞である。

負けた側の気持ちがどうなってしまっても構わないというのがマスコミである。藤井四段の対戦棋士に。

これで政治においてマスコミが弱者救済をと強者追従の現政権を批判するならばそんなものは噴飯で語ることもおこがましい。結局強者を讃えるのは金になるからである。藤井四段はマスコミの儲けの道具にされいるのである。そしてそれは無礼である。そして敗者の棋士には金にもならないと切り捨てる。二重の無礼を働いているのである。こんなマスコミでは真の弱者なんて救済でない。都合の悪いことは記事にしないのは昔からだが、政府も政府ならばマスコミもその政府の走狗に過ぎないのである。私は勝者で儲けようとする資本主義が嫌いなのだが、それ以前にも敗者に対する配慮を怠っているのが許せないだろう。私はテレビを見ないから藤井四段のことはwebニュースぐらいしか知らなかった。しかし朝な夕なに藤井四段というマスコミの報道姿勢を母から知ったときなんていうか、とても、がっかりした。弱者に薄情な日本を象徴しているのだろうとすればまたしても私はテレビを見なくなるのだろう。私の母は元教師で左翼思想があるにせよ、この親にしてこの子なのである。私が左翼思想なのは遺伝なので申し訳ない。ただ、敗者を気遣う気持ちに左翼もくそもない。

私は、勝者は強いからどうでもいい。それよりも敗者のことを気にかけれる人間でありたい。それが偽善と言われても。

最後に藤井四段が天才だから仕方ないにしてもだからといって「比してこれに驕らず」な態度は中学生であるならばすべての勝負するものは見習わなければならない。ただ、どうしても、戦いの厳しさを知るためにどこかで負けておいてもいいのだろう。でなければ孤高の孤独さゆえに敗北を知らぬようではさらに強くなれないからだ。「失敗はよいことなのである。失敗が次に繋がる。失敗が人を大きくせる」とかthreekingdomsで曹操が言ってたけど勝ち続けることの意味とは記録のためにしかならず、真に己のためにならない気がする。私は性格が悪いから正直そろそろ負けて欲しいと思っている。性格悪いという枕詞は卑屈だが。負けて欲しい理由を北斗の拳にあるストーリーを用いて説明する。北斗神拳南斗聖拳の交流試合、南斗十人組手に挑んだ北斗神拳伝承者候補である若き日のケンシロウの最後の相手として南斗聖拳の頂に位置するシュウが立ちはだかりケンシロウを一蹴した。負けたケンシロウは南斗の掟により殺されることになっていたのをショウがケンシロウはこれから強く輝くから殺してはいけないと己の両目を潰してまで、ショウの視力と引き換えにケンシロウの命を救った。疑問は何故ケンシロウを殺したくなかったのにこの試合にケンシロウは負ければ殺される。それがわかっていてケンシロウを負かしたのだろうか。自分が名乗り出なければケンシロウも両目も救えたハズというのは愚問というもの。戦いの厳しさというものを教えたかったからに過ぎない。小さいのに大人相手に勝つようでは今後心のどこかで慢心する。要するに生意気に思えてくるのである。その所詮子供で大人には及ばないと教えてあげないと大人を慕えず他人を慕えず子供が大人を凌ぐことは厳しさを知らない未熟者になりえる(この辺の私が言いたいことはバガボンド宝蔵院流槍術編の宝蔵院胤舜を…ていうか読めよ)。子供が天才過ぎると大人が叱れないことが教育上よくないのと同じ。負けることは心を磨くこと。シュウはケンシロウにそういったのを伝えたくて戦いを挑んだのだろう。んで、自分が負けたことでまだまだ自分は足りないとケンシロウは悟りシュウが両目を潰したところを目の当たりにすれば戦いの厳しさと同時に敗者に対する慈悲深さ、相手の思いやる精神をケンシロウはシュウから学び、だからこそあれだけケンシロウ強くなれたのはシュウのウエートにほぼ占められていると私見であるのだが。私は今の藤井四段の姿をこの北斗の拳のストーリーとかさね合わしてみてしまい、故に杞憂の一つとしている。

要するに言いたいことはもっと敗者に敬意を示せというのと、このまま藤井四段に「フン、雑魚だな」という心が芽生えないことを切に願うということ。