寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

交流するためにあるのに交流できない? SNSというのが正直苦手

※この文章は所詮エビリファイを飲んでる奴が考えたものなのでご理解を。

長い前置きになるが、ネットをしていて一番後悔するときというのが2ちゃん見てる時だったりする。

相田みつをさんの書を綴る書籍「生きててよかった」(角川文庫)の中に

「ひとの批判はかんたんなんだがなあ」

というページがある(p40)

その意味とはSNSで誰でも気軽に意見を発信出来る現象「一億総批評家」とはそれ自体は間違いということはないにしろ、批判するだけなら楽なんですねとチクりと述べられている。人の批判をするとき自分はいつも傍観者。具体的には動かない。自分は手を汚すことは何一つしない。要するに自分のことは棚上げなんですねと続き、自己が具体的にどう動くか傍観者になってはいけないと締めくくる。

正論かもしれない。だから今まで口先だけで行動しようとしない右翼と俺たちは違うんだという思想の元、行動する右翼として在特会が誕生した。その後の流れは私にはどうでもいいこと。好きにしてほしい。言葉が逸れたが、ネットで勇ましく言うわりには案外だったりするのは、それは別に口に出したことを行動しなくてもその言葉を出すこと自体が気持ちいいからそういう「傍観者」になるのである。私はそれが大変気持ち悪いからブログで批判したものだが。後で知った。ネットで現実では言えないことを言うのは大変面白くてやはり気持ちがいいのである。ちなみに、もし自分の思っていることを誰にもわかるように身分を明かしてあえて口にすると大変な目に遭うのは長谷川何とかという元アナが証明してくれた。みんな大人だから気づいてるけどあえて言わないことが世の中にはたくさんある。それを何の配慮もなく無神経に発言しておいて「他人が気づかない、言えないことをズバリ言った俺は偉いみたいに勘違いしてない?」なんてね、と。けれども誰とは名乗らない「匿名」であるならば長谷川何とかみたいな酷いことも言えるだろう。匿名で言うのでは問題とされないくせに実名で言うと叩かれる。このダブルスタンダードは何なんだ。私は「自分」という正体を明かして正直な気持ちを発信した長谷川何とかという元アナは、少なくとも自分の「正体」を明かさないでコソコソ陰湿に人を中傷する2ちゃんモンなんかよりもよっぽど清々して潔い、そして嫌い。殺せという言葉も私ならば首を切り落としたいと言い換えるだろうからその殺せという言葉の倫理観を説いても無駄なのであしからず。この、なんていうか、正体を明かさずに自分は安全な場所から人を批判してその人を傷つけても当の本人は傷つかないのであればそれは批判ではなく誹謗中傷でフェアではなく意見としてまかり通らないと思う(これは私にも言えることでまったくの矛盾だが…)。

誰かというのがバレなければ悪口みたいなことを言っても平気。現実社会でそれを出さなければいい。もしそれが分別のある行為とするならば理屈ではわかっていてもその二重人格がとても恐ろしい。それにも関わらず私は2ちゃんを見てしまう。前置き長く2ちゃんに文句の後は2ちゃんねらー発言ですか。ふーんご立派ですね。その理由としてひどいと思う反面、鋭い意見が2ちゃんにはあり驚かされた次第。その匿名で偉そうなことを言っているのを差し引いても鋭いレスを見てもいいかなという思いで嫌々2ちゃんを見てしまう。鋭い意見よりもひどい意見のほうが多かったりもするから悩みどころだが。それと2ちゃんみてるのは性格悪く思われるからそれを隠しているという方がいたら、まぁ嫌う人もいるから口に出さないほうが賢いと思う。けど私はそれは偏見だとして自分を正直に伝えるためにたとえクソねらーと呼ばれても絶対に気分を悪くしない。

2ちゃんみてたら小金井で女子大生アイドル(アイドルと言うのは判断に迷うと思うが)刺傷の判決にいろいろスレがあった。その中である人が被害者をファンの男とうまく交流できなかったのが今回の事件につながったというそのスレのタイトルは「○○(被害者)さんにも落ち度がある。Twitterで無闇にブロックするのはどうかと思う」。要は被害者とファンだった男のやり取りには被害者の性格の悪さがあり気位が高いからあんな結果になったと半ば人格否定を含んでいるものでそれが被害者の落ち度としている。あーそれ言っちゃうのかー。やっぱそう思っている方がいるもんなー。いざ口に出されるとそういうのって凹むものです。「屍に鞭打つ」という伍子胥みたいな性格が好きでもこれはあんまりである。まず落ち度という言葉の使い方が間違い。冷静になれよと。何故そんなことを言ってしまうのか。包み隠さない本音のを語れるというSNSの長所のような短所の部分だ。こう言ったほうが注目を浴びるからだ。言った本人は注目を浴びたいのだろうし、現に2ちゃんが取り上げた(2ちゃんで取り上げられたからって注目されるものでもないが)。こういう過激なことを見てしまうとひどいと思う。これは鋭い意見でもなんでもない。鋭い意見には「落ち度」という言葉は存在しないし、その使うべき本当の意味を知らない無教養さに腹が立つ。まぁ個人的な意見として見るならば感情的に排するものではないので発言自体は撤回するものではないが。

しかし私もうすうす感じてたよ。事件が起こった当初から。それは思っていても言わないことだったけど、なんで以前書いたブログの文をまたここで書き直してまで言うのだろうか。それにはSNSというものが無常に思えてくるから。今回事件の判決と2ちゃん見て改めて思ったこと。それは・・・ここからが本題。

まず例を挙げる。あるシンガーソングライターがそのファンに刺された事件があっただろう。ファンはSNSでシンガーソングライターの女性にプレゼントを贈り、そのプレゼントをSNSにアップしてほしいと頼む。それに女性は無視。別のファンからもらった品をSNSにアップする。なんで自分の贈り物はアップしてくれないんだとムカつき、いらないんなら返してくれと言ったら本当に返してきた。その瞬間自分はこんなに応援して感謝の気持ちを出しているのに何で分かってもらえないのだろうと酷く傷ついたのだろうか。自分だけがその女性と形だけでもいい、仲良くできないのはそれほどまで自分が嫌いなのか、じゃあ今まで好きで応援していたのは何なんだという葛藤が嫌悪殺意に変わったのだろう。

私の、この事件の嫌なところはSNSで自分の気持ちが相手に伝わらないどころか、嫌っていないのに嫌われるというやるせなさである。たとえどんなに気持ち悪い顔をしていようが、一人のファンとして見ることはできなかったのか。正直私は被害者の女性に同情しないし、刺したファンは自分が好きだったのにそんなことするからそれに輪をかけて同情しない。つまり、その差に開きはあるもののどちらも悪いと思う。こうなった元凶はSNSというそんなSNSが嫌いだったりする。

誰と交流するかなんて人の勝手だし、干渉する物言いだから嫌われて当然。刺したファンも私も一緒。だけど・・・SNSで相手にされずに嫌われると察してしまうのは結構落ち込むものなのです。それこそ、顔が良くて才能があって素敵な性格でないとSNSで交流できないとあれば、そうやって人を差別するSNSが嫌いなのである。同じ趣味を持っていても必ずしもつながれないのがたいへん悔しくて堪えるのです。私は趣味を通じてSNSで交流して実際に出会って夜は焼き肉食ってその写真をアップしているTwitterをみると羨ましくて妬ましいです。「なんでこんなに仲良くできたのだろうか。私は出来ないのに」。

私がSNSで後悔することの最大の理由とはコミュ障は現実でもSNSでも孤独なんだなと。SNSで人と交流できるなんて大間違い。できるためには本人の器量がものをいう。これではその器量がない人間がSNSをやるのは自分で自分の首を絞めるようなもの。現実でも嫌われているからせめてネットの中だけでも好かれたいと思っていたのに何でネットでも嫌われなきゃいけないのだと。そうなると自分はなんてくだらない人間なのだと自己嫌悪に陥る。「交流したいと思う方から相手にされないというのが辛い。それで自分がいかに魅力のないくだらない人間なのかと感じてしまい自尊心が傷つく」という理由はSNSが嫌いな理由としてどのサイトでも紹介されてなかった。私だけなのだろうか、こんな理由でSNSが嫌いなんて・・・。

私は被害者と加害者がSNSに性格をモロ反映させてしまったことが事件に至る進行を加速させたのだと。両者ともSNSのデメリットを考えないで、相手の気持ちを考えられないで自分の赴くままSNSを使っていたのが事件の本質だと感じるのである。私は事件当初に加害者に一語半句でも同情するならば、それは被害者に一語半句でもいいから自分のファンだった男に同情してほしいことは、相手にされないと感じたときの失望感を、それを察して欲しかった。嫌いな相手には嫌いだという姿勢は相手を傷つけるということに思慮を深く持ってほしかった。だが後から思い直した。そんなのは相手がごく普通のファンの時であり、今回の加害者には通用しない綺麗ごとである(犯行が余りにも逸脱している故)。じゃあどうすれば刺されなくてすんだのだろうか? どうしても嫌いならば以下の方法をとればよかったのではないか。

・相手を見極める。所有欲、過剰反応、病的嫉妬、極端な献身と拒絶など情緒不安定がないか、あるいはどの程度か

・相手が危ないと思ったら遠ざかる。付き合いをやめる、相手の体面を傷つけず、かつ理性的に率直にきっぱりと告げる

・個人情報を守る。自宅住所、電話メールアドレス、SNSなどは公開しない

そんなことをするのは相手に屈したという屈辱を味わうので、嫌な思いに負けずに自分を貫く活動をしたとあればそれは間違いだったのだろう。こんな奴に活動を妨害されたくない、危害を加えられそうだからといって活動をとめるようなことは私のプライドが許さない。そんな気の強さがいけなかったのだろうか。時には相手から逃げなければならない時だってあるのではないだろうか。

この事件。被害者の気の強さでも加害者の異常な気質でもそれが引き金だとしても、そうさせたであろう、そうやって性格を歪ませたSNSが悪いのです。だから私はSNSが嫌いなのです。