寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

好き嫌いで語れば感情。その感情を否定する感情と否定するも理解しようとする感情。常に後者を選んできたが…

むかーし職場で女性にある相談を受けたことがあった。くだらない職場のごたごたであったが、相談した同僚の女性はお局というか年上の女性の上司から嫌われていたというのだ。それで私にどうすればよいのか。職場の人間関係でよくある話だ。私はこうやって答えた覚えがある。

「それは君が可愛いから単に嫉妬しているだけですよ」

棒読みよりも真顔で冷静に答えた。それで問題が解決したかというと、逆に面倒になった。私が、だ。

もし、女性に好かれたいというのであれば、何かしら悩みが吹き飛ぶくらいの相手が喜びそうな言葉をかけてあげることだと思う。回りくどく言うのではなく思ったことを直球で言い放てばいいだけであるので何ら難しい言葉とかそんなものは必要でないと今でも「この経験」から思う。ましてや自分がどれだけの人間か知らないのに、他人に偉そうに説教垂れることなんて節度のないというべきだろう。私はたいそ知ったかぶってその己の頭の良さを自慢するかのように言い放つ人間があまり好きではないというか嫌いだ。

私は人から相談を受けるような人間とは思えない。ロールシャッハテストを受けるような人間だからだ。それなのに何かしら話しかけられたりする。それに対して私は「私にはわかりかねます」。相手をからかっているとよく言われる。からかっているように聞こえるが本当に私にはわからないのだ。物事を最後の最後まで疑い、疑いが存在すること自体が正しくないのならば結局本当の答えは見つからない。言葉で示せば方法的懐疑(こういう単語を言い出す自分がハナにつく)というのか、結局は人間は感情で物事を語るのだからその感情が私は嫌いだったりする。何自分が正しいかその自信の根拠は自分が正しいと思う感情に過ぎない。感情は正しいも正しくないもすべて受け入れる。だから正しいのかどうかなど分かりっこない。私は死刑廃止におおむね賛成であり、死刑存続に懐疑的だ。その理由としては人を屠殺するように軽々しく「シネ」と言い放つ感情である。どこに死刑になるために生まれてきて気味の悪いロープに首を括られて首の骨を折って死ぬために子供を育てるそんな親がいるわけないだろに。人とは生まれてきたということは、その世に必要だから生まれてきたという。誰かに必要とされたから生まれてきた。それなのにそんな人間にいくら人を大量に殺しても死ねと言えるのは神以外になしえない。お前はそいつが生まれたときから人を殺すから死刑にしろとあらかじめ言い続けてきたのか。そうでないのであれば結果を知ったくらいでシネとは何事。それならば最初から人を殺す前にそいつに言え。人を殺すのも感情でそれは悪い感情。そしてシネというのも悪い感情。せめて軽々しく悪い感情を人前で口にしないでほしい。そんなこと言わなくてもシネと私も思う。ただ、どうか他人の命を軽々しく語らないでほしい。そういう発言を嫌う私の感情は正しくないだろうけど、私は正しいと思っている。死刑に賛成する感情も正しいということも受け入れている。では結局死刑制度の是非とは何なのか。結局感情である。感情は正しいか正しくないか絶対にわかれてしまう。感情で語れば絶対はない。なのに・・・

感情で正しいことであると決めつける人間がちらほら目に付く。私が嫌うこと。それは本当に正しいのかどうか、様々な意見があるにもかかわらず、それにもかかわらず正しいと言ってしまうその頭の良さである。そしてその頭の良さを誇りたいがために感情で人を傷つけたりする。そうとも知らず自分は頭良い人間だとして相手の気持ちを考えたりしない。頭が良ければ頭が悪い人間が本当に間違っているのか? いや、それが確かだと感じてるかのようなその驕り高ぶりというのが私が見てきた「頭いいと言われる人間」である。嫌いである。放つ言葉の中に頭の良さを周囲にわからせようとするならば虫唾が走る。もし、周囲に納得してもらいたければ、己の心の鍛錬を成すがされよ。

欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている

この言葉通りの人間であればいい。理路整然とされた論理的思考よりも相手に伝わる言葉とは人の心の良さが現れた言葉であるのではと。心が良ければ頭がよかろうが悪かろうが相手に伝えられる。その心の良さを手に入れる方法は他者の気持ちも考えることだと私は思う。私が言いたいことは優しくなれということである。自分が正しいと思っていても相手に伝わらなければお前の気持ちが優しくないからである。優しさがあれば厳しい言葉に対して相手は受け入れてくれる。表面的な言葉ではない。その言葉を発するときにどんな目を顔つきを相手の目を真剣に見つめ言葉に魂を宿せばどんな相手にも伝えられるだろうと信じている。それなのに、こんな相手の顔も見れないネットなんて本心がわからないのだからいい加減である。相手の顔を見なければどんなひどいことも正しいかのように言うことができる人間がいるネットが嫌い。そんな人間は優しくないし、優しいふりをしているのかもしれない。実際人と出会ってネットの言葉を言い放つことができるかはたかが知れている。だから私はネットの論調とかが大嫌いである。面と向かって話さなければ伝わらないからである。

私はネットでのやり取りが苦手なのである。もちろんコレも絶対正しいことを言っていないと断言する。何故ならコレは感情で語っているから。じゃあ何で正しいと思えないことをグチグチと言い続けようとするのか。早くこんなこと言わなくてもいいような心を持ちたいものだけど、なかなか治りそうにない。ブログをやめてしまえる方々が羨ましい。私の自己愛性人格障害(「その」医者からの診断済み)がこのブログの存在を示している。

成宮寛貴さんの引退についてネットの意見を聞いてみた。正しいと思う意見もそれと違う意見も私は理解しようと。ただ、どうしても、どうしてもひどいと思う言葉を目にしたとき、その時がネットをやっていて一番後悔するときである。私の考えが甘すぎるのだろうか? それとも社会全体に厳しい言動を求められる今の時代なのだろうか? ああわたしにはわから
ない。