寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

精神の安息を詠う詩

京華遊俠窟 山林隱遯棲
朱門何足榮 未若託蓬萊
臨源挹清波 陵崗掇丹荑
靈谿可潛盤 安事登雲梯
漆園有傲吏 萊氏有逸妻
進則保龍見 退為觸藩羝
高蹈風塵外 長揖謝夷齊

書き下し

京華(けいか)は遊俠(ゆうきょう)の窟(すみか)、山林(さんりん)は隱遯(いんとん)の棲(すまい)
朱門(しゅもん)何(なん)ぞ栄(さか)えとるに足(た)らん、未(いま)だ蓬莱(ほうらい)に託(たく)するに若(し)かず
源(みなもと)に臨(のぞ)んで清波(せいは)を挹(く)み、崗(おか)に陵(のぼ)って丹荑(たんてい)を掇(と)らん
靈谿(れいけい)潛(ひそ)かに盤(たのし)む可(べ)し、安(いづくん)ぞ登雲(うんてい)に登(のぼ)るを梯(こと)とせん
漆園(しつえん)には傲吏(ごうり)有(あ)り、萊氏(らいし)には逸妻(いっさい)有(あ)り
進(すす)めば則(すなわ)ち龍見(りょうけん)を保(たも)てども、退(しりぞ)けば藩(まがき)に触(ふ)るるの羝(ひつじ)と為(な)らん
風塵(ふうじん)の外(ほか)に高蹈(こうとう)し、長揖(ちょうゆう)して夷齊(いせい)に謝(しゃ)せん

豪華な都には洒落た身なりの者たちが集まる場所。人里離れた山林は、隠者たちの棲み家。
朱色で塗られた門の御殿なんて誇れるものではない。仙人たちが住まう蓬莱の地には及ばないからだ。
流れの源に出向いて、清らかな川の水を汲み、丘に登って、丹芝の若芽を摘み取ろう。
靈谿の谷で、一人静かに人生を楽しむならば、わざわざ仙界に続くはしごをよじ登るまでもないだろうか。
漆園には、王からの招きを拒絶した我儘な役人がいたことや、王の招きに易々と応じた老萊氏には、愛想をつかして離縁する身勝手な妻もいた。
仙界を目指して進むのであれば、正しい徳は保てるだろうが、その仙界に背を向け、世俗に馴染んでしまえば、角が柵に絡まって身動きが取れなくなる哀れな羊になりかねない。
そうなる前に世俗を離れて、そうした行い(仙界への渇望)をよしとしよう。
ならば、世俗の節操にこだわり続けた伯夷叔斉の兄弟にも丁寧に別れを告げなければならないだろう。


この漢詩は遊仙詩とよばれ、遊仙詩とはその文面から見てわかる通り俗界を離れて仙界に遊ぶことを詠った詩である。詩の作者は郭璞であり西晋の人で占いに卓越していた。
「丹荑」は、不老不死とされる丹芝の若芽で、「靈谿」は地名であり、かつて仙人がここから天に通じるはしごを辿って天上を目指したと伝えられる。「漆園有傲吏」は道家の思想家である荘子のことである。荘子が蒙という土地の畑を管理する役人であったときに、楚国の威王から召された際には「すみやかに去れ、我を汚すな」と王の使者を追い払ったとされる。「萊氏有逸妻」は老萊氏の言うことを聞かない妻を指し、老萊氏が王から召し抱えられた事に対し、妻は乱れた世に仕官するのは自ら縛り苦しめるものと同じだと言い、手に持っていた農具を投げ捨て彼のもとを去ったと伝えられる。この両者は、世俗の名誉と利益、いわば名利を嫌うという点で隠者の心構えを代表している。一方、詩の終わりに記される「夷齊」は伯夷・叔斉兄弟のことであり、世に謳われた節義を代表する古来の偉人でもあり、儒教においては聖人と目される。名利に目がくらむ俗物も、伯夷叔斉のような名節をを大事にする忠臣も、世間からは自由ではないいう点では同じとされる。地位や名誉、富を求める者を俗物というのはわかるが、誰もがその忠節を讃えるだろう伯夷叔斉兄弟までもそれと同等に扱うことにはいささか疑問であり、偏屈に捉えかねない。しかし、遊仙詩の主題が、世俗からのしがらみから離れることにある以上、忠臣の代名詞でさえも否定の対象とされるのである。忠義を尽くす対象が所詮世俗に対してなのだから、仙界を詠う詩に世俗に拘わることはどうしても受け入れがたきことなのである。ここに、忠義さえも否定する遊仙詩の強固な信念が読み取れる。そして、仙界というものに対してこれ程に思い焦がれ、気持ちの高ぶりというものを察するには、まず、不老不死の芽を摘み取りたいという非現実的なことを最後まで望んでやまない、内なる願いというのは、常にリアリストであり続けた中国の権力者ないし民衆とは対極をなし、異色である。仙界を望むことのできる資質を持つものは皆世俗を嫌った。仙界に憧れるならば世俗を断ち切れ。さもなくば仙界を語るにあらず。いかにこの郭璞の詩が浮世離れしているのかが垣間見えるかだろう。
中国の知識人は、官僚として生きるしかなかった。彼らは官界における栄達をあくせくと求めた。しかしその一方で、忠臣としての評判を勝ち得るためには、偽善的な言動をとることも必要となった。この二面性とは、真の良心には耐えがたい苦痛であっただろう。郭璞の詩は、知識人のこうした悩み、葛藤から発せられた苦悶の文学と理解してもよいだろうか。遊仙詩といわれると、一般にはたわいもない仙界に対する憧憬を薄っぺらい言葉で綴った詩と理解されがちであり、そこには現実逃避も見え隠れする。しかし、郭璞の遊仙詩が後世において名高いのもまた事実である。言い換えれば郭璞が詠んだからこそ優れた文学として昇華したといえるだろう。「靈谿(れいけい)潛(ひそ)かに盤(たのし)む可(べ)し、安(いづくん)ぞ登雲(うんてい)に登(のぼ)るを梯(こと)とせん」とある詩句を思えば、郭璞が願うことは精神の安息であり、空想される仙界ではないのかもしれない。世俗というものに疲れてしまうことは現在でも実に容易に端を発する。今も昔も、そうしたどうしようもないことを感じれば自ずと精神を安定させたいと思いはせるだろう。郭璞の生きた西晋から五胡十六国の時代は情勢不安も甚だしかった。悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨と、その意図の韜晦に竹林の七賢は世に背を向け清談(世俗を離れた清らかな談話)を交わすことが唯一の安らぎとばかりに、貴族までも清談に明け暮れたという。そんな時代だ。郭璞のような詩を読んでしまうのも、世に対する失望からどうにか精神を安らかに満たされておきたいと切に願うことを思えば、痛切に感じ取ってしまう。


今の日本社会はこの郭璞の時代と重ね合わせてみても一脈通じるものがある。私が思うに今の世の中は生きづらいのである。社会問題は昔と比べて複雑化し、どうしようもないくらいに問題解決は困難な様を呈している。具体的な例を挙げてもきりがないし、やるせない。そうした世を憂いていても何もない。その世から離れて一人物思いにふけることも、けだるい世の中から己の精神を救う手立てを模索してみたいと思う。しかし、残念なことにそれではこの世の中において暮らしていけないのである。世に背を向け引きこもりになれば、金がなくなり死ぬしかない。生きるためには辛い世の中にあえて出向いていかなければならない。流暢に詩を詠んでいてることは刹那的ですましておかなければならず、生きるために大切なものを意図的に見落としてでもお金に無心していく世の中。お金という俗物のために生きていかなければならないそれに対する嫌悪感。されど、お金がなくては生きられないという葛藤。ああ、ならば精神の安息はいかなる場所に求められるのだろうか・・・。
郭璞のような世俗を嫌悪する風潮が蔓延したのか、西晋は世俗を投げやりに見てしまい、それで西晋は滅びてしまったともいわれている。ならば、空想を語るよりも現実を語れなければ、「逃げ」であり、それは遊仙詩にもいえる。リアリズムが欠如した国は亡びる。世を案じるならば現実的な施策の存在を見つけ出し、それを実行すればいいだけである。
だが、しかし、実はそのことさえも空想に過ぎない。そんなことは・・・「これが正しい」というリアリズムを実行することが無駄骨だとされてしまう今の日本社会において、これまた空想的なのである。さすればリアリズムの欠如からなる日本社会といわれてしまうのか。正しいことを行えばいいことを、それをあえて正そうとしない。世俗の問題を解決する気概は上に立つ人間にはないし、できもしないので、そんな世俗に対して世俗を嫌うのもまた道理である。今の日本社会はリアリズムが通じていない。通じていないなら、空想的に語ってもいいではないか。
こんな世の中見捨てても己の精神をどうにかして護りたいがために、私は世俗を嫌うのである。