寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

何故、人を殺してはいけないのか←どう答えたらいいのか・・・

とある日のこと。私はボランティアである子供と接する機会があった。その時、子供は私にこう尋ねた。

「なんでひとを殺してはいけないの?」

そういわれて、なんて言葉を返せばよかったのだろうか。それと同時に、これ程言葉で伝えることに痛切極まりなく覚えることは今までにもありえないことであった。

大阪で少女が殺されたことは嫌でも知ることとなる(高槻少女殺害事件)。私はそんな事件を気に掛けるほど図々しくもない。毎日誰かが殺されたり死んだりしたりすることに、なぜ興味を持たねばいけないのか。そんな日常だから、非日常的なコミケに逃避したというのに。子供はその殺人事件を知って、そして私に聞いたという。ふざけて聞いたのか、真なのかはこの際聞かないでおいた。

私はできる限りに、その子に対して真剣に答えた。しかし、それも自分では自信がないものだった。だから、その子も私の話に不思議そうな顔をしていた。不思議そうな顔をしていたのは私の思いが伝わらなかったことの表れだろう。そう思うととても悔しいし、後悔もする。結局、私は何も言葉で伝えることができずに、嫌なことに逃避するくだらない人間であったと我ながら悲しい出来事とした。

藤原正彦氏は「国家の品格」において、なぜ人を殺してはいけないのかという問いかけに「ダメなものはダメだからです。以上です」と真っ向からシンプルかつ大胆に断言している。つまり「そういうタブー(社会的禁忌)はタブーのままにしておいたほうが良い」とする考えだろう。しかし、だ。そこで終わってしまうと、話が既存の社会通念を確認する道徳論として終わってしまう。私なりに考えを述べたいと思う。

「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いかけは、人類の営みに対する普遍性の高い問いかけであり、本能を制御できる人類だけにしか問い得ないという意味で固有の疑問であると言えるかもしれない。本能を制御できるというのは、換言すれば「自然の摂理」から意識的に離れられるということ。

ライオンはシマウマを狩って食するが、ライオンの殺傷行為に倫理的罪悪感を感じるのは妥当なことではない。人間以外の動物には、明暸な自我意識が存在しないため、自己の行為と行為の結果に付随する責任が結びつかず、行為に対する賞罰を与える仕組み(法、権力、国家、社会責任)が自然界には存在しないから。基本的に、道徳的な罪悪や法的な責任は、人間理性・共感感情にその根拠を持つと考えることができ、その為、現代の民主主義国家は、自我意識や自己アイデンティティが確立している者のみ法的責任を追及する傾向がある。現実と空想、自我と他者の境界線を認識する人間理性のないものには、そもそも倫理的な善と悪を判断する精神機能が初めから存在していないために、行為の結果を問わず法的責任を問い処罰することは出来ないという考え方が法制の基本。

「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いは、自分自身の攻撃衝動や殺害欲求の有無と無縁に、考えることが好きな人は一度は考えてしまうことなのかもしれない。また、殺人にも、大きく分けて、動機(原因)に共感可能で了解可能な殺人もあれば、利己性や残虐性への怒りや義憤が湧き上がるようなものもある。「殺人は悪であるという倫理判断」は、「そういう風に決まっているから、常識として直感的にわかる取り決めだから突き詰めてはいけない」という根拠で説明するだけでも、人間社会における殺人禁忌の原則は揺るがないだろう。大部分の人は、「自分が生き続けていたい、愛する人に生き続けて欲しい、痛みや苦しみの感覚を味わいたくない」といった自然な生の欲求や本能的な死の恐怖を、他者に共感的に投射することによって、殺人や傷害を否定する倫理を形成する。反対に、あまりに生存淘汰の激しい弱肉強食の環境や他者にいつ殺されるか傷つけられるか分からない危険な人間不信の状況で育った場合には、「敵と認知する他者」への殺人、傷害を肯定する倫理(正義を根拠とする攻撃性)を身につけてしまう場合もあるだろう。

「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いを受けた大人はどう返すべきか?

そんなくだらない質問を真顔でする子を怒りつけて否定すべきだろうか? 将来の犯罪者予備軍として要警戒の対象とすべきだろうか? 不気味な思索を嗜好する者として共同体(仲間集団)から排除すべきだろうか? それとも、殺人は悪であると覚えて、人を殺さないようにしておけばそれでいいと諭すだろうか?

そういった論理の根拠を言語で穿とうとする子に対して、あの時私は、「あなたは、なぜ、人を殺してはいけないという論理について興味を持ちましたか?」とまず問いかけるべきだった。そして、「君は具体的に人を殺したいという考えたことがあるから、そういった疑問を抱いたのか? それとも、純粋に人間の心理や社会、倫理といった事柄への知的要請によってそういう疑問を考えてみたくなったのか?」という事を聞いておけばよかった。真剣に倫理について考えようと思っての質問であれば、こちらも少し腰を据えて対話を通しながら善や悪の根本について話し合ってみたいと思うし、興味本位でとりあえず大人の反応を見ようとした質問であれば、無難な回答を与えて、まだその問題について考えたいと思っているのかを見てみたいと思う。もし、そういった実際の殺人に結びつきかねない危険な衝動や猟奇的な欲求が強まっているのならば、強迫的な殺人衝動や他者への攻撃欲求を緩和する心理的ケアやカウンセリングを適切に行っていかなければならないと思う次第。但し、行動や欲求と切り離された疑問や考察であるのなら、哲学的な思索や倫理学的な考究として受け止める問題といえるかもしれない。

こういった行動や実利と切り離された倫理学的領域の疑問や問いかけというのは、大人になればなるほど常識や規範、社会の決まりごととして片づけたくなるし、基本的に情緒でなく言語で深く考えるのは面倒な作業だろう。なぜ、殺人をという行為を人類は禁止してきたにも関わらず、時に、集団としての人は、他者(外部にある他者)を殺してしまうのだろうかと考える事は、人類の歴史過程における国家と個人の倫理性を考究することにつながると思う。殺人を悪だとする倫理を継承する価値は、本当の善悪の根拠について自分の頭で徹底的に考えてみた人ではないと分からない部分もあると思うのだが。倫理とは自己の内面にある規範であり、外部の常識に根ざす社会道徳や罰則による威圧で規制をかける法規範とは異なるもの。社会道徳や社会通念として成立する善悪は、場の雰囲気や数の論理に呑み込まれる恐れがあり、「みんながやっているから正しい。この場では、周囲に合わせておくほうが良い」という善悪の基準の揺らぎが生まれる。法規範は、個人の権利や生命を前提とした善悪ではなく、あくまでも国家や集団の秩序維持を優先事項とする善悪の判断基準で、法規範には労働行政上の意図や政治的な配慮といった倫理的善悪とは無関係な要素が多分に入り込む。また、法規範と政治、体制は切り離すことが出来ないから、政治体制が絶えず倫理的な判断をし続ける幸運によってのみ、「法と倫理の一致度」は高まるという事になる。

さて、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」。これに対して私が倫理的にまた生物学的にも考えた結果ではあるが・・・

現時点における倫理規範の究極的根拠、実効性のある殺人否定説というものの起源は、共同体の存続、発展に貢献する行為、判断(殺人の否定)を善として、共同体の消滅、衰退をもたらす行為、判断(殺人の肯定)を悪とするものである。そういう根底を考えなければ、単純に「死の恐怖と生の欲求という生物学的本能」を根拠として互恵的な安全保障契約と考える事が出来る。いずれにしても、日常的な人間の倫理(善悪)の前提として「生命の肯定感覚」があることは確かなことであるといいえるだろう。むしろ、「命を大切にする」といった生命の肯定を前提とするほうが、より普遍的な人間心理に基づく倫理観であるといえるかもしれない。考えてみた結果なのだが、所詮、たいして当たり前だろうとする答えに行き着いた。そして、思うことは、こういった人間社会の善悪の起源や根拠、規範に問う学問分野に倫理学という哲学の一領域があり、人類は理性的営為の始まり以来、意識的にせよ無意識的にせよ「何が正しくて、何が間違っているのか?」「何が善で何が悪なのか?」を問い続けてくかなければならない。それはこれからの未来につなげることだ、と。

結論

有史以来、人類は倫理をもって共同体秩序の維持を目的としてきた。殺人はそれを破壊する憎むべき悪であるから倫理的に殺人は否定される。また、人間の内に潜む生命肯定の生物学的本能が起因する結果から、殺人は生命欲求を断ち切る悪しき行いとして悪であるから生物学的に殺人は否定される。だから「人を殺してはいけない」。


環境と倫理―自然と人間の共生を求めて (有斐閣アルマ)

環境と倫理―自然と人間の共生を求めて (有斐閣アルマ)