寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

「飽和してるんじゃないか?萌えというのは」 そこに残酷さを求めたくなる

この記事はあまり自分でもよろしくない書き方です。気分を害する可能性を含みますのでそれを承知でお願いします。また、これまでの自分を否定しているものです。


ウジェーヌ・ドラクロワはフランスロマン主義を彩る画家である。この画家が描いた数ある絵画の中の一つにキオス島の虐殺という絵について。キオス島とはギリシャの島である。しかしそこはオスマントルコの占領下にあった。キオス島ではそんなオスマン帝国からの独立を果たそうとギリシャの住民は蜂起するも力及ばず鎮圧される。その時のオスマン兵がおこなった独立派に対する虐殺をドラクロワは表現した。
そのむごたらしさを覚える描写と色づかいは、まざまざと、あまりにもリアルであったため、当初は「絵画の虐殺」と酷評されていた。しかし、この絵から伝わるリアリズムなのか、この絵をきっかけにヨーロッパ諸国はギリシャの独立を支援する。残酷さがにじみ出ている反面、それだけに同情されるほどの伝わる絵だったと言える。
私はこの絵が好きです。何故なら絵空事という軽くて幼稚な空想などとは対極をなす、あまりにも凄惨なリアリズムを視覚で感じたからだ。そう、その現実をとらえ、そこまで正直に表現するドラクロワの姿勢というものが清々しい。たとえ大げさな残酷さを強調して興味を惹かせているという指摘もあるだろうが、その残酷さがいい。へんに綺麗さばかりを求めていてはその裏の顔というものを見落としがちである。もし、ドラクロワがこの残酷な絵を描かず、蜂起を鎮圧するオスマン兵の勇敢なる様みたいなのを強調したような絵を描いていたらギリシャオスマントルコからの独立は遅れていたかもしれない。それこそが裏の顔を知るというものであり、残酷さも時としては必要になってくる。
九相図という仏教絵画がある。これは美しい女性が死後打ち捨てられて、その後どうなっていくかを表した絵である。最初は死体と言ってもまだきれいだったものが、時とともに腐りだして、最後は蛆がわき、鳥や獣に食い散らかされて無残な姿になっていく様を連続して描かれいる。どんなに綺麗な人間でもそれは表面だけのもの。その綺麗な人間の体の中にはグロテスクと思える臓器がぎっしり詰まっている。美人の外見は目の保養になるが、その臓器を見たいという奴などいないだろう。そんな表面だけしか見ようとしない、きれいなものしか見ようとしない人間のおごり高ぶりに鉄槌を下すかのようにグロテスクに描かれた美人の死体。人間は死ぬとこうなるというリアリズムを学ばせる・・・これは修行僧の煩悩打破、人間は綺麗であるとともに、また不浄であるという二面性を分からせるための絵こそが九相図なのである。
さて、人間とは綺麗さばかりを求めて、見たくもない残酷さには目を背ける傾向にあるのではないか。むろん、残酷なものは見るべきものではないだろう。しかし、物の本質とは時として二面性をもつものである。たとえば食肉。あのおいしい肉がどのようにできるのか想像してほしい。沸いて出たように肉が食卓に並ぶのではなく、それには残酷さがある。牛の頭を銃で撃ち抜かないと食肉にならない。だが、そんな光景に目を背け牛肉うまいとは人間の欺瞞さもうかがい知れる。何も屠殺を見ろとは言っていないが、生あるものは死を代償とし生きている。そうやって牛肉の二面性を見ていかないのは物事に対してあまりにも浅はかで言ってしまえばバカである。どうも日本人とはそんな穢れの思想が古来からあるからタブー視するのだが。競走馬だって華やかに種付けなんてできるのはほんの一握りの一握り。日本で生産された7000頭の馬のほとんどが人知れず殺されて肉や皮素材になる。華やかなターフ、ダートの舞台で疾走した思い出の、馬券を取らせてくれたあの馬は結局屠殺される。そんな現実を知らずにただ、金だけ見るしかない競馬ファンはあまり好かないかもしれない。そんな裏の事情は知りたくないというのは個人の自由でも、深く考えない思慮の浅い人間で軽々しく思える。※大変な決めつけをご了承ください。
だからなのだろうか。私はそんな残酷さから物事を読み取ることが好きである。とどのつまり、残酷なものへ興味が引かれる。綺麗なものはわかる。でも残酷なものは見たくないという感情のほかにも何かしら訴えるものがあるのではないだろうか。
私は運転が荒いから(茨城の県民性?)マッポに捕まり、免許失効を猶予する代わりにこれを見ろと見せられたビデオがある。それは交通事故で死んだ運転手の死体を収めた内容。どれもこれも人間の体が大きく損傷している。なんでこんなのを見せられたのかというと、「事故るとこうなる。ぐちゃぐちゃなグロい悲惨な姿になるから安全運転をしろ」というメッセージ。しかし私は「なるほど事故でこんなに体が損傷するんだな」と感心してた。周りは嫌な顔をしていたり、目を覆って気持ち悪がっていた。ショック療法になんら気持ち悪さを感じなかった自分は先にあげた九相図に描かれたものと同じで、だだ気持ち悪いという感情に先走るのではなく、普段はひた隠しされる裏といえる内情を探求するという好奇心のほうが大きかったからである。無論、これは私の独特な感性なのだろうか。もちろんグロは私も飯を食いながら悠々と余裕をかましながら見られない。グロなんて好き好んでみるべきものではないし、グロを肯定的に捉えるほうが一般的には難しい。だが、しかし、きれいなものばかり見ているといざという時の残酷さから逃げ出し、問題を丸投げして解決せずに進まなくなる危うさもある。先の大震災で津波の被害を受けたご遺体を自衛隊の方々が捜索していたが、中には気持ちわるくてストレスとなりこの任務をやめて帰ってしまう隊員もいたそうな。もちろんその心情察するのだが、戦争ではもっと悲惨な光景が待ち構えているかもしれないのに、そんな覚悟で務まるのかと偉そうながら叱咤してしまいたくなる。これは表の顔ばかりで裏を見てこなかった、見ようという覚悟がなかった人間の軽薄な態度ではないか。自分のうんこも見れない優男もいるくらいだから…。
あー、そして本題に入る。なんて長い前フリなのか。私は萌えというものに正直のところ少し懐疑的になった。昔は「可愛いは正義」といったどっかで聞いたようなキャッチフレーズに大いに共感した。可愛ければ可愛いほど良い・・・。
だが、萌えとは所詮「媚びている」に過ぎない。「可愛いでしょ」とみる人にゴマすってるだけなのではないだろうか。つまり、きれいなものしか見せようとしない、汚いものは排除している。はたして汚いものは排除=悪なのだろうか。誰も汚いものなんて見たくないから悪でよい。ただ、私はきれいな萌え絵が汚くなっているのも見ておきたいという感情を抱く。きれいな絵が汚くなるという、どうなるのだろうかという好奇心。それがグロ絵。
今でも萌え絵は好きだが、可愛い絵ばかりを見るとそのうち反吐が出てくる。どいつもこいつもキレイなものばかり見せやがって。これじゃ綺麗ごとしか言わないカルト宗教みたいなもんだろ。「綺麗でしょ、美しいでしょ、だから素晴らしいでしょ」。確かにその三言句はその通りだ。しかしそれだけではないだろう。綺麗なものばかりでなく、汚いもの、グロもあるだろ。それはないのか? 見せないのか? それが嫌いでも私は見てみたい。私の好奇心と綺麗なものと汚いものとの二面性を知りたい。きれいな片方を知っても、もう片方も知らないようでは物事の深みを知ることができない。これはまた萌え絵とは別な考え方だが、「綺麗なことは実のところ空想であり嘘でもある。汚いことの方が現実、リアリズムであり身近なのではないか」。実生活、日常と照らし合わせてみると実のところそんなもんだと思っている。だから汚いことの方が学ぶすべは多いのではないかと主観的なのだ。絵に対して戻ろう。猟奇的な描写とかが好きとかではないとは思う(あまり断言できないが…)。
可愛い萌え絵がグロになるのはそれも表現方法であり、違う一面を見せるもの。つまりギャップが刺激的であり、その刺激に惹かれる。幸か不幸か、私にはグロ絵に魅せられるのはそうしたギャップを楽しむ趣向があるから。グロ好きといわれるかもしれないし、あまりこれは他人には受け入れられるものではない。だからpixivではグロい絵は描いていない(グロ絵を描く方をお気に入りは非公開、ブックマークするグロ絵は非公開にして他者から誤解を受けないようにしている)。それにしても可愛いという裏の顔を見たいというようなグロ絵に関心が行く人間の少ないこと少ないこと。否定的な感情以外に、それを抜きにグロ絵を見たりはしないんだなとつくづく思う(むしろそれが正常かもしれないのだが)。東方を例に出すが、東方もpixivではあんなに投稿数が多いのにそれに対するグロ絵は分母が少ない。東方の根本的成功要因は諸処、様々に原作絵から高度に洗練された萌え絵だと思う。つまり萌えこそが東方人気、最大の要因の一つと考える。だから綺麗でないといけない。グロ絵は東方のキャラの自殺につながるもので禁忌ものなのだろう。
東方以外にも萌え系というものはほとんど綺麗な空想的な可愛さである。だから三次元は二次元に勝てないとかよく言うのである。でもそんな綺麗な、空想的なものが壊れる様を見てみたい。空想もいいがそれだけばかり見ているのはどうも退屈。現実がつらいから二次元の可愛い、きれいで空想的なものに癒されたい、気分を良くしてもらいたいとばかり考える人間は、それはそれでいいけど、何とも自分本位、きれいなものしか見ようとしない視界の狭さ、きれいなものを求めてそれに深けようとし、それ以外は見もしない創造的探究の欠如、可愛ければすべてよいというそれ以外の負の印象を排除しようとする児輩、無味乾燥な様。もし学生ならばまだいいが、いい年した大人がそうであるなら精神的にも幼さが感じられてホント情けない。だから萌えアニメとかいい年した大人が大っぴらにやってると世間から好印象を受けるのが難しいんだなと。他者の趣向の否定にもつながるが、萌えというものに執着するのならばこんな否定的な考えを投げかけてしまう。
久々秋葉を見てきた。最近の漫画はアニメは…。私は萌えという一方通行的な独創性みたいなのがすでに固定化されたものをいつまでも飽きることなく愛し続けることは難しくなりました。はたして可愛ければそれで十分なのでしょうか? なんでも可愛く綺麗にしないといけないのでしょうか? それに対して異を唱えた私は厨二病なのでしょうか??

様々な考えがあったので貼ってみた↓

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