寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

いじめをした奴は俺がぶん殴ってやる

いじめを引き起こす構造とはある「空間」の息苦しさから発症されるものであるという考えを綴った新書を読んだことある。「いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)」は社会心理学というのだろうか、人間の構造心理に裏打ちされた理論的考察は多少は真意が欠ける部分も見受けられると個人的には思う。が、この著書のいい分は肯定的である。要するに「日本の村社会的排他的閉鎖的空間」に息を詰まらせた子供が苦し紛れでいじめを行うとしているのである。日本というのは世界に誇る美徳は数多くある。しかし、この「和をもって」のみんがな仲良くという精神が歪んでくると、協調性を重視するあまり皆が同じ行動をとることを強いられ、ウェットで自由な感覚を失わせる。子供というのはそういう個を滅して周りに従うという抑圧的空気には大変モロい。日本の美徳、協調性は閉塞感とは表裏一体である気がする。だから私はみんなと同じにしなきゃダメという協調性が息苦しくてとても嫌だったことをガキの頃に思っていた。
だからといって、そのはけ口にいじめを許容するなんぞ、そんなの私が死んでも否定することである。これは情緒の問題である。論理で語る方がナンセンスであり、いじめとはダメだからダメなのである。それが分からなければ私がぶん殴ってやるよ。
大津市、いじめで自殺した中学生。私はいじめの加害者をぶん殴ってくれと頼まれれば、大津まで駆けつける気持ちは十分ある。ガキには言葉が通じないらしい。ならば、ぶん殴って痛みを与えればこぶしから伝わるものがあるだろう。
私が語るいじめの処方なんぞ、大して役にも立ちそうにない。「花の慶次」という漫画で語らせて頂こうかと・・・。
花の慶次とは昔ジャンプで連載されてた。前田慶次が主人公で天下無双の強さを誇り、傾奇者(恰好や行動が常人とかけ離れていること)として戦国の世を駆け巡るストーリー。この漫画では主に主人公の慶次の強さに目が行きがちだが、私はこの漫画の一番の特徴と読みどころは「断じて卑怯的な行いが否定されている」点が挙げられる。前田慶次はスジが通らないことや陰湿な行為とは真逆の存在である。慶次は腐った性根の人間は徹底して嫌う。その本質がよく読み取れるのが第四八話「決闘ばやり」から第五二話「武士の正義」までのストーリー。
上杉家の小姓の一人草間弥之助は上杉重臣の子でもある小姓十三人のいじめにあっていた。草間弥之助は身分が低いさげすみ、殿様に気に入られてるという嫉妬と、小姓誰もが好いている直江兼続の妹なつを絡んだ恋敵としていじめを受けているのである。ことの発端はある議論。前田慶次が真の勇者かただの傾奇者かを知るためには戦ってみれば分かるだろう。そんな議論の結論の答えを知るために草間を慶次と決闘させようとした。要するに十三人の小姓は慶次をダシに使って殺させようとしていた。草間はこんな議論の争いは上杉家の恥になるとして、ならばと慶次の決闘に挑むことになる。
慶次は草間が他の小姓からいじめられていることを悟り、それを救うために草間に難題を出させる。草間はその難題を十三人の小姓に打ち明ける。それは小姓全員で慶次と決闘するというもの。これなら草間と慶次が決闘して草間を殺すことはできない。小姓全員が慶次に挑まなければ慶次との決闘は成り立たないからだ。自分も巻き添えで慶次に殺されるのであればたまらないとこの件について水に流す流れになり、これが慶次が草間を殺させない気遣いであった。しかし・・・そんなのは嘘だと小姓の一人が言い放ち慶次の決闘に自分たちをまきこませるために草間は嘘をついてると難癖を十三人の小姓からつけられ、これがもとで草間は仲間であったはずの小姓から手打ちされる。
草間はそんないじめを受けたことを隠すために、慶次の決闘の件は自分の不始末だとし切腹してしまう。
さて、この十三人の小姓、結局は草間の死を疑問視した直江兼続による強制的な慶次との決闘参加で慶次に討ち果たされる。殺される。
長々としたこれも結局何を言いたいか言うと、いじめという卑怯行為の断罪が結局は死であると。因果応報。人間を腐りきった根性でいじめることに対する強烈なアンチテーゼが現代のいじめ問題に警告している。少なくとも私はこの花の慶次という漫画からそれが伝わる。
なんでいじめという行為をするのだろう。私はいじめをしていた人間をぶん殴ったことがあった。手段、方法にとやかく言われる筋合いはない。いじめは卑怯。見ていてムカつくから。悲しくなるから。なぜ殴ったのと言われた。私はこう答えた記憶がある。
「じゃあ、いじめを嫌う行為、気持ちを否定するんですか? 手段を間違ったかもしれませんが、あの時の気持ちを否定することは僕には無理です」
実話にしてもあの時の気持ちは今でも一生変わらない。人の気持ちを察してやれるとう優しさがではなく、いじめとは本当に大嫌いなのです。なぜかと言われても論理的に言えるわけがない。なんでいじめをする人というのは自分とこんなにも隔たりがあるのか・・・。
いじめられたら、まず騒いでみること。先生や家族に打ち明ける。周りを大きく巻き込む。できなければいじめている奴をナイフかなんで脅し程度に行えばいい。呉智英氏はナイフで刺しても少年法が守ってくれるからといじめ加害者の殺害を進めるような発言をしていたが、そこまでいかなくても、なにか自分を失うくらい暴れてみたらいい。相手に舐められるな。それができなければ学校なんていくな。人生において学校に行く理由なんてない。引きこもっていればいい。逃げることも勇気であり、家族は辛いだろうけど気持ちを察してやる。学校の代わりに行かせることができる施設を探してやれ。それができなければ決して自殺してはいけない。自殺するくらいなら自殺だけはしないでほしい。
以下、情緒的に。いじめ問題は情緒的にことを捉えないと何の解決にもなりません。いじめ自体が情緒ですから、理路整然と論理的に語られても口で言われるよりも手でわからせることです。ぶん殴る。それがいじめ問題を解決する一つの手であると私は考えますけど。
追記
いじめを組織的に隠匿しようとする大人たちについては何か私絶望して語る気もおきません。子供はガキだからだけど、大人がこれほど糞野郎だとは・・・。
あんな腐った大人を私はぶん殴る気もない。本当に腐って動かなくなってほしい。