寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

文月の演奏会

先週音楽がどうたらとかいってましたが、今日がその日でした。結局私はピアノを演奏することになりました。しかもソロ。めっちゃプレッシャー。どういう演奏会だったかはあまり詳しくは語らない、というのは、私個人の活動みたいなのを周りに言いふらすようなことはあまり好きじゃない(伏せていたい)んです(何故かはその・・・信条なのでと言えませんが)。だからブログで語るのも躊躇するのですが、なにも黙ってるのも気持ち悪いというジレンマ。今回の演奏会は本来なら4月あたりに予定していたのですがこの日になったのはもう察していただければわかるはず。
私はピアノぐらいしか満足にできません。そういってしまったからにはピアノで頑張ろうと思い・・・。誰のために頑張るのかは聴いてくれる方々よりも自分の満足のためにいわば「自己満足」のためでした。しかし、弾き終わったときに周りからのやたら大きな拍手が「私なんかでも人を楽しませることができたのかも、ハハッ・・・」というなんとも恥ずかしくも謙遜したくなる気持ちが沸き起こり、皆が楽しんで貰えてそれでもう十分でした。
今回私が弾いた曲。ヨシフ・イヴァノヴィチ「ドナウ川のさざ波」(なんだ簡単な曲弾きやがってとか言わないで笑)。

「哀愁を帯びた旋律で広く親しまれている」
クラシック音楽事典 戸田幸策監 平凡社

ドナウ川といえば音楽ではシュトラウス作曲「美しき青きドナウ」があまりにも有名ですが、このドナウ川のさざ波という曲も同じワルツであり、その旋律はなにも美しき青きドナウに負けていません(聴き比べてみると面白い)。抒情的に見れば私はこの曲は日本人の音楽感性にとけ込みやすい、ワルツ曲としては聞き入りやすいからとこの曲を選びました。しかしそれは私の今持つ心の中がこんな感じの旋律なので・・・だから私の個人的なモノを聴いていただいた方々に押し付けていたような印象もあるかと。ヘンデル「水上の音楽」みたいな曲のほうがなんとなく涼しげでこの時期の演奏にいいかなとか考えてましたが、まぁ私の気まぐれみたいなのだから別にいいかぁ。
ドナウ川は川と言っても日本のような島国のような川ではなく大陸を貫く国際河川。それでいて、大陸を流れるこの川の情景を思い浮かべるとしたらどう見えてくるでしょうか。ドナウ川のさざ波ではワルツのリズムに切り替わるそれはドナウ川の悠々とした水の流れをまず印象づけると思いますが、私はもう一つの印象を考える。うまく言葉では言えませんがドナウ川にはゆったりとその東欧の光と影を見つめてきた懐が深い印象を受けます。ドナウ川のさざ波もそうした過去の苦悩とその克服を内包した、それはつまり最初の暗く始まる短調から突如現れる明るさがこの曲でうまい具合に表されていると思う。私はそう感じて惹かれる。音楽鑑賞においてその誰もがヨシフ・イヴァノヴィチのその曲の技法が心に響くと感じるだろう、なっなっ? 私は優雅なシュトラウスの曲よりもイヴァノヴィチのこちらのほうが好きなのは、モルダウロシア民謡アムール川の波みたいな哀愁さが好きだからそっち系の人間(?)なんだろうと。
ちなみにこの曲最も味の出る演奏はアコーディオンだと思います。ピアノよりもこちらで弾いてみたいけどアコーディオンの操作パネェから。第一手にする機会が・・・ない(笑)。

何はともあれ、音を外すこと無く自分なりにアレンジして完璧に演奏できたと思う、たぶん。帰り際級友のやたら笑顔をみて「またよろしく」と言われたら「ああ」としながらも、心の中では当然だと満足げなのであった。