寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

節電とは今の日本の現状を写しているのである

最近ブログを書いたりすることが何を書いていいかわからないまま放置することがあります。これはしつこいようですが、震災が私の感受性に敏感に反応してしまい、ブログを書くことが億劫になりだしたのが始まりだと思います。別に何らかのネタがあればいいのですが、世の中のああじゃねこうじゃねを語るのは肩がこるし、私としては気分がすぐれんのです。だからそれは気が向いたときとか・・・。私が書くことは競馬とかそんなことで、だから土日には何らかの競馬でぐだぐだ言ってます。よくもまぁ、震災の頃に比べると競馬を語る余裕がでてきたかと。ところが今日にいたっては、なんだか世の中のああじゃねこうじゃねを言うことになった。
家にあった国際情報誌とかいってるSAPIOを懐かしげに見てると2003年6月25日号で「電力危機!日本の生命線(ライフライン)はズタズタだ」というタイトルを見たときにドキッとした。夏の日の消費電力に対する供給不足の懸念を2003年の時に綴った記事。なんということか。八年前にSAPIOで警告したXデーが今年の夏かもしれないことに、人間なんてその時に起こらないことはすべて大丈夫で片づけてしまう、危機意識の低さが伺える。結局は目に見えてからでないとその対策が物理的にも金銭的にも負担になるとかで要はめんどくさがっていたのでは、という主観ないし私の思い(例えるならばスーパー堤防建設をやめさせたレンホーみたいな理屈)。むろん震災が無ければこのような電力不足にならなかったというのは言い訳である。どのような経緯があれ、起こりうる危機に私も無関心であった。偉そうなこと言ってる割には情けない。
こうなった以上、節電対策に取り組まなければならないのはまっとうな見解である。マスコミもそのことに関してはよく伝えていると思う。おかげで国民の節電の意識は高まり、ボーナスの使い道に「節電」と書かれていたのは妙に納得したような(今日の読売新聞終面)。私も正直節電は電気を消して暗くする分にはかまわないが(暗いの好き)、クーラーを控えるのは辛い。だからといって政府に非があるかの如くこれに非協力的ではいけないと思う。今の政府はむかつくにしろ、この誰が悪いから節電しなければいけないんだという拒否反応は精神的に未成熟に見えるだけである。悔しいが(?)政府のいう節電は実に公共性に則った正論なのだと思う。日本国民である以上、この公共性の感覚をもってこそ震災で傷ついた日本に尽くすことになると考えるが。しかしこの猛暑の中、ただ節電と言ってクーラーなどを使わず減私奉公を行ったら熱中症になってもいいのかという意見もある。が、節電とは個人の意識である。無理強いして節電するのではない。努力目標として暑くて死にそうになればクーラーを使うことに私は何も言うすべがない。私が言うのは「節電=クーラーを使えなくする」という拡大解釈をして自分の快適を奪われるという一種の強迫概念みたいなのが見苦しいのである。たしかにこの節電が熱中症を多く引き起こすのではという心配もある。このことがたしかにジレンマでもあるのが私も辛い。熱中症対策を頭に入れて欲しいとしか反論ができずハナのつく言動を許して欲しい。福島の原子力発電所は首都圏最大の電力供給を行っていた、その電力を全く使えなくなったということは実は大変深刻なことである。私はその深刻さから、国のことより個人が大事だとか主張されたらば、個人への震災に対する配慮、義務的制限な考えを取っ払い、国難に立ち向かっていくために必要な公共心を揺るがすことになるのではと。震災復興が長引くだろうと切実な心配を抱いてしまう。
なんだかよく言ってる気がする。残念ながら震災後と呼べる日はまだ来ていないのではないだろうか。節電対策という言葉を実施していかなければならないことこそが震災はいまだ続いていると思う。
震災後、そして復興した。そう呼べる日が来るまでとりあえず節電に従うしかないのではないか。