寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

区切りの日だからというからまた嫌なことを思い出す

ここでなんか気の利いたこと言えればいいのにね。まぁ、一人でもいいからこのブログに共感していただければと、そんな思いが伝わっているかはいささか疑問なんですがね。あの日から三ヶ月になりますか。今でもあの揺れ方とテレビから映し出される光景は鮮明であり、怖さと何故か怒りがでてきます。怒りとはなにも政府の震災復興に関するものでなく、よくもこれだけの災害にしてくれたよなという無意味な怒りです。ここで震災での政府の対応や報道に対する動きなどを論客気取りに書こうとするなら長々としてくるし得意げに語ることが俗っぽく第一、一種の自己満足である。
「家とかは流されてもいいから、人だけはつくれないから」
私がNHKを見ていた時に家族が津波で流されてしまった被災者の方が語った言葉。私は前向きになれるような言葉よりもこんな言葉ばかり心に留めてしまう。おそらく私が被災地の人間なら心身が疲弊しておかしくなっているかもしれない。それだからなのだろうか、「がんばろう、日本」といわれてもピンとこないんです。私も震災当初は「なにくそ負けてたまるか」という気持ちはたしかにあったのだが、それは全体を把握していなかったから思えた気持ちだったのではないか。原発のことを甘く認識してたし、徐々に被害が明らかになるにつれもうやるせなさが心を疲れさせる。復興に向かっているにしても原発はいまだに不鮮明さが日を刻む日々。
今は私の周りは競馬とか個人の趣味を楽しめる日常。しかし心の中では新聞を毎日欠かさず読めば、震災が震災でなくなる日は当分先が見えないことに、なにか楽しいことも震災のせいで空虚なものに感じてしまう。それでもネガティブでいつづけるのは精神衛生上よろしくない。わっかっているのだが、ふと三ヶ月とかテレビでやるとこういった気持ちに戻ってしまうのです。
なんという愚痴。恥ずかしいね。でもこんな奴なんです。
追記
あの「がんばろう、日本」というフレーズは政府、行政機関にいってやるのでは? 国民にむけて精神面で「がんばろう」といってるんなら理屈はわかるんだけど、小声でぼそっと「言われなくてもわかってるよ」。もしかしたら政府、行政も同じ感想か。私にがんばろうと言われてもどうがんばっていいのか、生活はがんばってるつもりなんですがねぇ。いまいち抽象的に思えるこの言葉、ネガってる私にはつらい現実を忘れていこうというようなある種、無責任に聞こえてしまうのです。いや、だからといって言葉自体を否定するのは偏屈すぎる。でもこんな奴と開き直りを許して下さい。