寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

あの城はなんだ!? in豊田城

今更ながら私は歴史が好きです。それなのにこのブログ歴史について語られないのが不思議なくらい。じゃあ書けよと言っても、このご時世ネットでそれについて調べれば私が歴史を語っても不要だから(近現代史ならなおさら)と、まぁぶっちゃけ深みのある知識がないんです。それに私なりの歴史を語るというのは私の知識自体他人の受け売りなのでつまんないだろうしーまぁいいや。
茨城県のお城とかいろいろご存じですか? ウィキペディアで調べていいけど聞いて下さい。水戸城や小田城、結城城・・・有名な大名のお城がありますが姫路城まではいかないにしろ、お城と言ったら青雲に白亜の天守閣をそびやかした堂々たる城郭を思い浮かべ憧れますよね、ね。それなのに先に挙げた3つのお城はもとより茨城県の城跡にはそれなりのお城の面影があるものの、天守閣の立派な「お城」とか復元されてないのが私としては物足りないというか・・・天守閣とかお城のシンボル的存在ですよね。それがないのに○○城といってもから堀だけじゃ「何が城だよ」とガキの頃の考えでした。
しかーし茨城は広い(?)。実は模擬天守ながらこれぞ「お城」と呼んでもいいんじゃね? お城が県西地区常総市にあったのです。以下場所↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%9F%8E&lat=36.1133358&lon=139.9798697&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E5%B8%B8%E7%B7%8F%E5%B8%82%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E4%BA%A4%E6%B5%81%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%9F%8E&idx=12&v=2&sc=3


※デジカメとかあれば撮ってきてブログに載せられるけど私デジカメ持ってないんだよ。画像についてはググッて下さい。
あ、やっぱすいません、この豊田城お城というにふさわしいと言っておきながらそれは私なりの掴みで、実はこのお城は昔(いつ頃かは・・・)「たけしTVタックル」で無駄な公共事業かなんかのタイトルで紹介されたことあるんです。その時のナレーションが「一面の田んぼに突如お城???」みたいなあきらかに「言いたいことあるなら言って見ろよ」と突っ込んだら「税金の無駄」とストレートに答えてしまうくらいのお城だったかもしれません。歴史的な風格はまぁ・・・その・・・もともと豊田城は実在したのですが今ある場所にあったのではなく、小貝川に湖畔の砦のように築かれたものなのです(これは豊田城の中で模型として再現され展示されてる)。その実在した豊田城と作った豊田城のあまりのギャップが・・・。ぶっちゃけステレオタイプのお城を作ってみましたらこうなりましたな感じです。どうも聞いたところ竹下内閣の「ふるさとなんたら一億円事業」とかで作ったみたいですが、うーんこれでお城をつくってしまうとはこの石下(場所は常総市だが平成の大合併前に石下町という独立していた町がこの事業に着手していた)という自治体ただ者ではないぞ。なんだか紹介して茶化してますね。でもここまで「お城らしいお城」を復元してしまったからにはもう、茨城でお城らしいお城は私のなかでは豊田城なんです。このさい歴史的背景とかは別に・・・。
今回野暮用でそっち方面へ出向く機会があったのですげーひっさしぶりに見たのでこんなこと書いてるのです。国道294号線を通っているときその城を最初見たときはあまりの大きさに「!?」でした(高さ48.5メートル)。お城は郷土資料館だったり、ホールだったり、図書館だったり、ここに演歌歌手を呼んだりもしてます。郷土の歴史を知ることができる展示物があったり、郷土の有名な歌人、作家でもある長塚節に関する展示物や長塚節の蝋人形が設置されていますが、そのなかで長塚節の歌が記されている配布資料は是非もらっていって下さい。その素朴な自然的描写なんですが実に写実的にひしひしと伝わってきます。あと城の周りに出城なんだか付け櫓なんだかわけがわからないよ的な建造物(石下高校南十字路付近)があったりしますが、これは聞いたところによると1985年か6年か(忘れた)に台風で小貝川が決壊して石下町が水害を受けたわけです。そんなまた起こりうる災害に備えて土嚢をあの中にしまっておく建物だそうです。お城チックな土嚢の倉庫、素敵です。
さて、ここに城があるならばこのお城の歴史にはこの地方に豊田氏という豪族がいたわけです。・・・どのような氏族とかは豊田城の図書館の歴史資料とか見たりはしたんですが、よく忘れた(笑)。かすかに覚えてるのは豊田氏の滅亡について以下簡単に説明。
戦国時代にはその地方ではなかなかの勢力を誇っていた豊田氏は名族結城氏から家臣でありながら半ば独立するほどの実力である下妻の多賀谷氏と幾重にも争ってきた。実力は多賀谷氏のが上だが豊田氏家臣団の獅子奮迅の活躍や婚姻関係の小田氏の援軍で返り討ちにしてきた。最初豊田氏をなめてた多賀谷氏は予想外の出来事に戦ってダメなら奸計を使っちゃおうと戦国らしい発想を思いつく。まず、多賀谷の謀将が豊田の一人の重臣をたぶらかす。ダークサイドに墜ちた(?)重臣は豊田の殿様を「月を見ながら酒でも飲もうぜ」と誘う。そこでこの重臣、殿様に毒入り酒を飲ませて殺してしまった。まぁ、なんの利害が働いてそうなったのかは分からないが戦国とはいえ不届きな奴だ。これで求心力を失った豊田氏は待ってましたとばかりに多賀谷氏の侵攻を受け滅亡(1573年)してしまう。お終い・・・ってこういう時代だもんね。ちなみに裏切った重臣は降伏の条件として豊田氏の遺臣に引き渡されてしまい鋸引きで殺されます。裏切りを裏切りで返されていいように使われるとはなんとも。
こうした史跡を調べていくうちにあまり知られていない氏族を知るとなかなか面白いかもしれません。しかしこの場合、今ある豊田城が史跡というのはうーん(笑)。国道294号線を車で走っていて石下を通ったら緑の瓦の五層の豊田城を見て見ましょう。「なんだか変な感じだな」と思ってしまってはそれは既定の物としての捉え方なので当然な反応ながらもつまらないと思いますょ。「城とは実にこうあるべき」とその私なりの城のイメージを具現化した時点で私は石下町にある意味感服するのですよ(笑)。