寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

杜甫の春望とリアリズム

国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火三月(ほうかさんげつ)に連(つら)なり
家書萬金(かしょばんきん)に抵(あた)る
白頭掻(か)けば更に短く
渾(す)べて簪(かざし)に勝(た)えざらんと欲す

国は戦いによって破壊されたが山や河は元の姿で残っている。
都は春になったが、草や木ばかりがしげって荒れ果ててる。
混乱した世の中を思うと、美しい花を見ても涙が止まらず、
家族と別れていることを悲しんでいるとかわいい鳥の声を聞いても楽しむことはできない。
戦いののろしは三月になっても絶えることなく、家族からの手紙はなににもかえがたい。
白髪の頭をかけば髪が抜けおち、簪をさしてもまとまりそうにない。

この「春望」という漢詩は中国唐の時代の詩人杜甫が詠んだのは承知の通り。なんというもの悲しさだろうか。この感受性を中学生で知ったときは涙が出そうになった。それ以来杜甫の詩、ことに春望は私のなかで特別な存在となっていた。私がこの詩に惹かれたのはその世の現状を何の狂いもなく確実に射ることができるリアリズムである。あまりにも洗練されすぎた詩に空想や理想が入り込む余地はない。それこそが杜甫の詩の特徴だと。
また屁理屈垂れ流すようようで何だが、今の日本の状況について日本は震災から立ち上がろうとしている。遮二無二頑張れ頑張れと言ったり、金を送ればいいだろうという行為は善が働いているので偽善ではない。しかし、復興するとポジティブに捉えていく反面、現状を理解した上での行動を心がけて欲しい。テレビで有名人が励ましている姿に震災に見舞われた方に「言われなくてもわかっているよ」と気休めで言うなと思われたらば、優しさが現実的ではなく抽象的に消えてしまうのはなんともやりきれないだろうと私は思ったりするのだが・・・。
今、被災者の現状を好転させるには徹底したリアリズムを働かせることである。それが出来るのは残念ながらボランティアとかではない。理想をリアリズムに変えたとしてもボランティアはどうしても個人単位なうえ、いつまでも善意を支えとしていたら復興を突き動かすベクトルが小さすぎる。政府。政府がことのほか動いていかなければならない。杜甫の春望はリアリズムに満ちている。杜甫のようなリアリズムを今の日本の現状に投影でき、なおかつリアリズムの元に日本を復興させてくれるような政治家はいるだろうか。
ぶっちゃけ、それは難しいことであると思っているので期待するだけに止めておき、すぐにやれとは言わない(こう言ってしまうのは間違いだが)。むしろ私が思うのは精神論で今の大変な現実を押し返すことがみんなできてるのかな。私は心の中では・・・この間も大きな地震が東北であった。
外で気丈に振る舞う心と中の現状を憂う心の使い分けが何とも息苦しく感じたときに。
ふと漢詩の本を見て思ったのだが。
そんなふうにいつまでも思っていること、春望のような詩を今の日本で「詠む」ことでの自己確認自体がナンセンスなのだろうかねぇ。