寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

ランドセルの寄付

今までのニュースにないようないい話題が立て続けにおきていることに驚きながらも、それは大変喜ばしいことだ。児童相談所に「伊達直人、遅れてきたサンタクロース」と署名されてランドセルの寄付が各地で相次いでることに、最初の寄付には「なんだ、こんな時代になんとも不思議な」という最初の印象を持つ。その後続々と寄付が相次いでるのに世の中の心の暖かみを忘れかけていた私は、まだこんな話題を聞くことができたことに喜ばしくも心底ホッとする。伊達直人という署名はニュースや新聞でも理由は承知だろう。私もできるならばそんなことをしてみたいと模倣にとられるが、結局口だけ言って終わってしまう。それならば、寄付をしてきた方々を私がありがとうというのも変だが・・・言わせていただきたい。
しかし、そんな世知辛い世に心温まるニュースを底意地悪く下司の勘ぐりをする人がいるならば。
偽善と考えるならそう考えるあなたの心が偽善だ。
私は善を悪と見なすような心は持ち合わせてはいない。私の個人的な考えはどうでもいいが、偽善とは「する」といった行いを「しない」でなんらかの利益を得ようとする人、だと思う。つまり人を騙す詐欺だ。もしこの話題を偽善と言う人がいたならランドセルを寄付する「結果」が生じている以上偽善ではない。偽善と言う人は完全無欠の善意でなければダメなのだろうか。変な下心があって善行を行ったならばその善行はなくなってしまうものだろうか。私はたとえ下心、私心を含み込んでも自分の財産を見返りを求めず他者に分け与える善行。その行いが人々に感謝された時点で、人々から感謝されることが人間にとってどれほど大切なことか熟知したつもりの私は、このニュースに対する否定的な意見は性格上やはり許せない。
なかにはいらない善もあるし、恩着せがましいのもある。それでもその行いには確かに善はあったはずだ。その人個人のよかれと思った善が。ちょっとでもそう考える気持ちこそが人間としての素晴らしさである。
その人の性格がそうさせるのであれば仕方がないが、世の中は物質的な豊かさだけあふれるだけで偽善と考える人がいるなら心の貧しさを知り、心の豊かさも養って欲しい。大きなお世話だが、どうしてそう殺伐となる世の中は実はそんな私のソレとは違った偏屈に捉える人が作り出してるという勝手な妄想を抱いてしまったから言わせていただきたい。