寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

もうあのこ汚いオフト後楽園はない・・・

地方競馬の馬券を初めて買ったことは今でも覚えている。

一心不乱に馬が回りながら歩いている画像とたくさんの数字が出ている画像をギラついた目をして一心不乱にというか気持ち悪いくらいの雰囲気を出していた爺。この日本にはまだこんな変な生き物がいたんですといいたくなるようなオフト後楽園の客層忘れられない。中央競馬とはまた違う地方競馬の爺の恐怖を覚えながら初めて地方の馬券が当たったのは800円買って440円戻ってきたというものだった。あんなダークサイドな環境は今でも先でもオフト後楽園だけだった。私は関西方面の場外馬券場は知らないが、とりあえずウインズ浅草をも凌ぐ比類なき場外馬券場だった。ちなみにGoogleでのオフト後楽園での口コミが吹く。

そんなオフト後楽園がウインズ後楽園と吸収合併された? 詳しくは知らないけど、今までの地方競馬の場外馬券場オフト後楽園中央競馬のウインズ後楽園はその組織の違いから別の建物としてわけられていた。それが6月4日から黄色いビルことウインズ後楽園の建物内に移転された。なんでそうなったのかは知らないがやっぱ狭いし汚いし汚いし汚いとかで移転になったんじゃないのか。今度のオフト後楽園はたくさんの券売機があるので締め切り間際にクソ爺の怒号や掴みかかりの現場を見なくなりそうでよい。フロアも完全に建物内なので昔のシャッター開けっ放しのクソ寒い師走の風に悩まされずに済む。それに完全に禁煙化されているからちょっと外に出るとクソくせえマルボロふかしているクソ爺を煙たがらずに済む。今回の移転、正にいいとこだらけではないかと。でも、昔を知っている昔のオフト後楽園は私の学生時代の青春でもあった(んなもん青春にすんな)から今はシャッターが閉まっているあの建物を見たときは哀愁が漂ったよ。もうあの丸い鉄柱みたいな奥にある椅子に座って勝馬を見ながらマークシートを散らかすこともないだろうと思うと、あの、何がそんなに熱心なのか当たりそうにない〇〇競馬の新聞を見ながら火花を散らしているおっさんの隣で、これまた少し伸び気味のチャーシューメンのくせしてチャーシューが一枚しかのっていないメンマだけがやたら多いチャーシューメン(マジですw)を私が食べながら「俺の人生つまんね」と自虐と諧謔に溺れることもなくなるのか。ああ、我が青春wオフト後楽園、もうあなたはそのシャッタを開けることはないんですね…。ていうか元あったあの施設何に使うの? 競輪の車券でもあそこで発売しろよ。

ここ最近地方競馬の馬券なんて買ってなかった。買うとしてもオフト後楽園だから今日まで移転したのなんて知らんかった。ちょうど新宿の駿河屋とか寄って行った帰りに水道橋で降りたんだけど、あの長いエスカレーターに乗るのは、誰もあのエスカレーターで歩いたりしてなかった。やっぱあの長いエスカレーターが歩くのが危険だというどうも罪悪感を本能で感じるからなんだろう。だから爺どもは歩いたりしないで黙って乗っているんだろう。いやーしかし新しいオフト後楽園は広い広い。昔は警備員が「立ち止まらないでください」と困り声で叫んでいたのが嘘みたいです。でも、やっぱいるのは昔のあの頃の爺のままです。唾を床に垂らす爺を見た瞬間新しいオフト後楽園に幻滅しました。やっぱ昔と変わっていない。外見は新しくても中身はまるで昔のまま。これ物事においてもダメなパターンだよね。市役所を新しく建て替えたきれいさっぱりな空間でもそこで働く地方公務員は…ガーペッ! いかん、タンが絡まった。今の言葉忘れて。

オフト後楽園と愉快な爺たち。こんなのと仲間になりたくねぇと最初の馬券を買ったら川崎3レースハズレ。2000円パー。次に笠松11レース1500円買う。1600円戻ってきた。川崎4レースハズレ。2400円パー。もう俺帰っていいか? ていうか爺多すぎなんだよ、流石年金支給日。こいつら周りのことよりも自分のことに精いっぱいだな。競馬新聞に落書きしなくても、そう顔に書いてあるよ。以前みたくメインと最終の馬券を買ってとっととこんな爺と別れましょう。なんかこれから夜にかけて寒くなりそうだし。そんで買った馬券は3枚のうち1枚当たり。ちなみに競馬新聞は買わずサイトの馬柱を見ました。調教タイムが見れない不本意ながらもそんな520円出したくなかった。

 

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真ん中の川崎12レースの6-10が当たり。配当は…3連単を当てた人と比べたら大したことないと思う。いつも当ててるような金額だよフン。おかげで駿河屋で買ったモノ以上に金を取り返すことができた? 「何で馬単買わないの?」という突っ込みやめてください。しっかし園田は遊びにしても川崎の11レースの買い方ってジャンル何? この買い方俺らしくねえ。ワイドしか買わなくても、やっぱ最初に買った馬券外れると調子狂って買い方が乱雑になる。その分川崎12レースは落ち着きを取り戻しているが、私怨で森をあえて買わなかったので結局満足する者でもないです。でも、金が1円でも増えるといいものです。競馬をやるのはそういうのがよくてやるもんです。

オフト後楽園が移転した。それがよかったかといったらよかったかもしれない。エスカレーターが長い以外は。でも昔のあの頃の風の匂い(爺の体臭とかではない)が感じられないとなると正直寂しいです。古くて良いものはこれからも残していくべきです。オフト後楽園は古くてもこ汚かったからなくなったのでしょう。そうでなければたとえ経費が掛かろうが時代の象徴として未来に残していくべきです。結局オフト後楽園をバカにして癪に障りますが、こんなまとめ方でもこれからはたまには地方競馬の馬券もいいよと思います。もし、たまーにでいいから水道橋西口に降りたら橋を渡った左手にある爺と一緒にエスカレーターを乗ってみては。得られるものよりも失うものが多いかと思うが、こんなのも人生のうちでいいものです。私は駿河屋で面白いものが買えたし、今日馬券が当たって機嫌がいいです。あと東京ドームのコンサートに来てた女の子がみんな可愛い。昔だったらナンパして叫ばれただろうに。

精神を病んでいる人の気持ちを知ろうとするのは難しいことなのか

サッカーよりAKB総選挙のほうが関心の度合いが高い私ってもしかしてアホ? 

いやー去年は結婚するとか言われて冷や水ぶっかけられて半ギレからガチギレしてたもんな。いやーまじバカだ、そんなことで怒り出して、今はどうでもいいならその程度の怒りだったのだろう。本当の怒りというのはいつまでも根に持つもんだよ。韓信のように「恥は一瞬、罪は一生」と察したようにDQNに絡まれても刺し殺せずに股をくぐった時のように堪えていればよかった。人生において怒りというものは時が過ぎるとなんてくだらないものだったと我に返るものです。だから、怒りっぽい人はなんてくだらない人間だと思います。

でも、中には怒りでしかその自分を見出せない人もいるんだなと。

新幹線で人をナタで殺したあの人は、いつもああやって捨て鉢になっていたんだね。あれは常に業腹、切歯扼腕から終始離れられない人生だったのだろう。怒りが自分の人生だったのは、結論から言えばあれは親の教育が悪すぎる。人間生まれた時から人を殺せと本能を宿して生まれてくるのではない。作田明の本に「人は人を殺す動機を不遇な家庭環境にある」として、その犯罪者の人生の歩みに何らかの欠陥が生じたとき犯罪者が生まれるとしている(世論時報社「犯罪心理研究の独自の視点」から)。つまり、犯罪ならいざ知らず人を殺すような人間はボウフラのように湧いて出てくるのではなく、親の教育、家庭環境に責任があるとまず私は唱える。そう、育てが悪いから人を殺す人間なんて生まれてくるのである。残念ながらどの犯罪心理精神なんたらの著書にも結局は教育の不備が不幸な人間を産んでいると記されている(反論あればお答えするが…)。話を逸らすが、だから学校の教職員は勉強を教えるのではなくまずは人を育てなければけない。勉強は塾で足りる。人の精神や心を育てるのはまず親と学校の先生だとこの精神病野郎はいつまでも言い続ける。先天性のサイコパスも実は教育で矯正できると私は信じている。それなのにああいう常に苛立ち、最後にはナタで人を殺して言葉通り人生と自己の精神を「自殺」させた本当の責任はあの他人事のようにほざく親にあると・・・。

常に何かに怒り続けたあの若者、一度知能指数調べたほうがいいよ。高次自閉症の疑いがあるにせよ異常数値を出すと思う。あれじゃ誰も話が合わないわけだよ。あの年で岩波文庫なんて読むかふつう。私が最近読んだ本なんて「からかい上手の高木さん」だよ。あんな難しい本を理解したりできりゃ、周りの人間なんてバカにしか見えないもん。私が思うに知能指数が高すぎで社会生活に馴染めなかったんだと思う。だからといって人を殺すなよ。自分の考えが似ている人なんてこの世のどこかにいるかもしれない。SNSは私は嫌いだがそれで仲間を見つければよい。

この事件は親の教育、それと己の価値観が合わない世間のバカらしさに嫌気がさして人を傷つける他殺という自殺の代用としてまず自分の人生を台無しにした破滅願望。自殺は何も肉体的に自殺する者だけではない。あの場合は精神的な自殺である。もう人生に取り返しがつかない。そういう意味では自殺も殺人も結局は同じではないか。自分の人生を終わらせるためだったら自殺でも殺人でもどちらでもよかったのだろう。

以上何が言いたいかというと教育何とかしろと言いたい。それにしても人生を投げてしまう人はどうにかならないものだろうか。22の女子大学生が電車で自殺とか今日も聞いたし、人生って人によってはものすごくつまらないモノなんだなと。休日都心の中心街当たり歩くとどいつもこいつも悩みがなさそうにバカ面下げて歩いている。ああいう人と今回の殺人者は分かり合えないだろう。分かり合えないから、周囲がそういう人間を理解しないから殺人や自殺が出てくるのです。ジブンが幸せならばどうでもいい。そういう冷たい日本人が増えたと私は思います。少しでも不幸な人間の気持ちを分かりたいのならば一度図書館とかに行って精神病とかの本を読んでみてそんなかわいそうな人の気持ちも理解してあげてください。えっ!? メンドクサイとか自分の有益にならないとか思うなら、そんなんだからそうやって人が死ぬことろを見てしまうのです。頭がおかしい人とは付き合わないほうがいいのはわかりますが、少しでもかわいそうと心の中で思いなさい。私は博愛主義者だから、たとえ人を殺した人でもかわいそうだなと思いました。死んだ被害者に対しては刃物を振り回す人の気持ちがわからないから殺されたのです。あの人がどんな人かもわからない。その無知さ加減があの人を怒らせたのです。私だったら優しく犯人に語りかけて説得してみる。掴みかかろうとすることは相手に対して攻撃の意思表示になるからさらに怒り出し尚更収まりがつかなくなるから。それでもだめなら殺されてもいい、私もオリンピックまで生きていく自信がないからね。いつも怒っている人を土壇場でまた怒らせた被害者に私は同情したくない。さっさと逃げればよかったのに・・・。

正義とか言う正しい行いも、自分が正しいと思い込んでいたのに、それを人生で否定され続けた人には通用しない。どうせ分かり合えないんだからそんな奴とは関わろうとするな。今まで誰からも近寄られたことがなかったのに、ナタを振り回すこんなことしないと相手にされないほど自分の人生はくだらないモノだったのかと犯人が絶望した。だからあの人はナタを振るったのです。今まで誰からも理解されなかった悔しさをあの時晴らしたのです。

 

 

犯罪心理研究の独自の視点―「凶悪さ」と「増加」で揺れる現代の罪と罰を検証する。

犯罪心理研究の独自の視点―「凶悪さ」と「増加」で揺れる現代の罪と罰を検証する。

 

 

 

この季節は堅苦しい恰好なんてしないで

 

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No.xxx 区分 その他 情報書込日時:2018/05/xx xx:xx

場所 東京都墨田区xxx

日時 平成30年5月xx日 xx時xx分

不審者 身長165cmから170cm、30代前半の男性、ベージュのチノパン、白のポロシャツから東方projectフランドール・スカーレットの法被をまとっていた

状況 周囲に気持ち悪がられる

その他 警察には未通報。今後パトロールを強化して近隣住民と連絡を取り合う

 

私はスーツとか嫌いです。あの「私働いてます、仕事してます、社会的地位が確保されています」という自己主張の強さと服装から醸し出す気位、貴意の高さがハナにつく。要は偉そうでムカつくんだよ、スーツとか。特にネクタイなんてのは大嫌いですね。無理やり西洋人の真似しなくてもいいのにネクタイが好きなんて西洋コンプレックス丸出しとしか思えません。ネクタイは首に絡(から)めるという意味から「会社から首をつながれている鎖」というメタファーなのです。ネクタイをすることは犬に首輪をつけて飼いならされている意味。用済みになればネクタイを引っ張り首を切る(解雇)。私はクールビズ以外でもネクタイだけはしません。昔それで怒られたけど、今は諦められているせいか怒られません。

そんなにスーツネクタイがカッコよく立派に見えるから好きだというならば、大礼服でも着てろよ。

 だからこういう法被とか好きです。流石に街中でこんな格好してたら「景観を損ねる」とかで通報されるけど、この画像はいずれTwitterなるものやる時のアイコンにしたいと思う。ところで、着流し羽織はいいよね。たまに浅草とかで見るけど、明治神宮でそういうの着てた方を見たときは場所が場所だけに「ホント素敵だな」と思いました。私もそういうの着てこれから東京でも歩こうと思います。

たかが女に趣味のものを捨てられたくらいでキレる男。その男尊主義がキモい

いずれ語ろうとして忘れていたことがある。もう昔かもしれない。ある方と話したことなのだが妻に自分が集めた特撮とかロボットフィギュアを捨てられそうになり、その非常識な、人の尊厳を殺したとか私に語った。よくネットでも話題になる (最近話題になったか?) 妻や彼女に大切にしていた趣味のものを捨てられるという報告は聞かれる。自分の趣味に理解を示さないバカ女としてその後の顛末は関係は修正不可能と締めくくられる。その方は私もフィギュアとか買っていると先に話したから共感したのだろうか、そんな自分の趣味を捨てられるあまりにも理不尽な妻の行動を嘆いていた。私はその話を聞いて・・・相手に指を突きつけながらこう言った。

 

「不見識者め! 恥を知れ! 妻が何故それを捨てたのかを、その意味を考えたことがあるのか!」

 

相手を指さして意見を言うのはとても気持ちいいです。私は性格が悪いから今後付き合う予定のない人にはこうしたニュアンスの言葉をよく言う時がある。本音を語って嫌われれば当たり前。むしろそれで好かれたら私はその人を尊敬するが、大抵嫌われる。

 

夫、彼氏の趣味で集めているものを捨ててしまう女性の心理は私の自己分析によるとこうである。

 

・明らかに嫉妬深い性格。夫や彼氏が自分以外の趣味のものにうつつ抜かすのは他の女とうつつ抜かす不倫だと認識する。趣味のものを他の女性と同一視するのは女性の価値判断に対する脳みそが未熟であるから分別をつけろという男の言葉は無意味である。私以外のものに夢中になるのが許せない。だから捨てる。

 

・嫉妬深いことは独性欲が強いことも挙げられる。自分が夫に尽くすのだから夫も私に尽くすべき。それは私以外は見ないでというヤンデレ的独占的な考え方に他ならない。要するに精神病なのである。自分が一番でないと嫌だ。趣味に高じるのは私を下に見ているからだ、一番は私であり趣味ではない。そんな一番を奪う趣味のものは捨ててしまえば私が夫の中で一番になる。精神病だから、だから捨てられる。

 

・相手を自由自在に管理したがったり、思い通りにさせようとする束縛的価値観に起因する。藤原紀香がいい例だろう。風水にこだわり過ぎて元夫に愛想つかされた (詳しくはググレ) 。私の理想通りになってというのは、そんな不潔な顔してないでとかカッコよくなってという心理が働いている。彼女からしたらフィギュアやプラモや鉄道模型はカッコ悪い趣味なのである。そんな趣味を持たないで私の思い通りになって。だから捨てる。

 

 ・自分の価値観を大切にするあまり、己の理解されないものが許せないという視野の狭さ、器量のなさ。右翼が嫌い、左翼が嫌い。だからといって同じ国に住む者同士だろ。協調性とは固執した価値観が打ち砕いてしまう。価値観を分かり合い、お互いの長短を見極めてより良い未来を目指すものなのだが、日本ならずとも世界中がこんな簡単なこともわからない。国がこうならば、その国に住む人間もそうだろう。価値観が違うというだけで嫌悪する。だから捨てる。

 

 ・夫や彼氏のものは私のもの、という極めて常識とは逸脱した自己中心性。自分のものはたとえ他人のものであっても自分のものとすることは幼児期の心理特性。つまりガキ臭い性格で大人になれていない。とても恥ずかしい。夫、彼氏の趣味のものは私のものであり、それは私には必要ない。だから捨てる。ある種よくこの年まで生きていけたものだと首をかしげたくなるだろう。

 

・心理学的見地から言えば趣味のものを捨てるという女は自己愛性パーソナリティ障害と考える。そして私はそんな女の行動様式に理解を示す。何故なら自慢するわけでもないが私も精神病だから彼女たちの気持ちがよくわかる気がする。もし、趣味のものを捨てられた男たちはその辺の身の上事情もある程度知っておくべきだった。これは普段の何気ない日常でよく目にする。「あれ?」と思ったらすぐに趣味のものを隠すべきだった。それがわからなかったのならば、なんでそんな女といっしょに暮していた意味がないではないか。お互い惹かれ合って一緒に暮らす仲だろ。

 

結局女も悪いが男も悪いのである。いや、女の心理に気づかない男というのは鈍感すぎて反吐が出る。男というのは正直デリカシーがない。感受性が欠如している。女性は感情表現がたいへん旺盛。それに元来女とは建設的な意見より感情的に動くものであることは長い歴史の中でも証明済みであったはず。男がそんな女性の感情を読み取れないのはいくら偏差値がよくてもバカに他ならない。そして愛しているから趣味のものを捨てたという理由ならばそんなくだらない趣味のものなんて捨てても構わない。趣味が愛よりも優先されることは私にとっては許せない。捨てるのは彼女なりの独善的で稚拙ながらも真の愛情表現だったのです。

趣味と人の愛、どちらを選びますか?

趣味を捨てられただけで人の愛とは捨てられるものなのですが?

趣味はまた集められますが、人の愛とは集められますか?

私は、人の心も価値があり、趣味を分かり合えない人の心なんて価値がなくて捨ててしまえという唯物主義者に似た、その人の感情表現だった出来事を損得で切り捨てる男尊主義が気持ち悪いです。ものを捨てられたというのはその人の屈折した愛情表現だったはずです。屈折しているとはいえ、いじめとか困らせるために捨てるような感情ではなかったでしょう。私が「趣味のものを捨てる女は何なのか」と上で示しましたが、どうも、男の人を愛しているからそういう行動をとっているのです。喧嘩してとか、何かの腹いせで捨てているのではないのです。愛の行動様式に過ぎないのです。私は愛とは人の趣味を捨てられたら離婚できるという口先だけの法的拘束力などとはまた違う絶対不可侵的な聖域であるとみています。関係が破たんしたらそれで愛は終わるという愛は愛ではない。愛の為なら趣味を捨てても、それも人の愛であったと一定の理解を示します。ていうか理解する。

趣味のものを捨てられたぐらいで心神喪失したり離婚を突きつける男とは愛を知らない、よくそれで大人になれたなと。大黒摩季の歌にあるように「あなただけを見つめるために全てを捨て去ってあなたについていく」というあなただけを見つめているという歌。職業、財産、家柄、すべてを投げ出して駆け落ちするような愛。そこには物欲というものとは無縁。そんな真の愛というものを趣味のモノを捨ててまでしてわかってほしかった女の心底…。愛があれば趣味がなくなってもそれでいいではないか。

私は趣味どころか自分の命も愛した女性に捨てられるのであれば喜んで殺されるだろう。私の死に方で一番望むことは愛している女性から殺されること。その理解しがたい考えは私が考えた歴史小説でこの意味不明を理解してください。

茶々は小谷の城で自分の父浅井長政を殺した秀吉を憎んだ。茶々は北ノ庄の城で自分の母を殺した秀吉を憎んだ。茶々が殺してやりたいほどの秀吉は、秀吉が若き日の頃から惚れていた母のお市と自分が瓜二つだからと秀吉は茶々を側室にしようとした。茶々は側室になれば秀吉に近づけるし、それで殺せるからと側室になった。そしていざ秀吉と二人きりになった時茶々は何故側室になったのかを秀吉に話す。その話を聞いた秀吉は「お前にならば殺されてもいい」と茶々に小刀を渡した。茶々はその時、殺されてもいいくらいと思うほど自分を愛していた秀吉に激しく動揺した。「いつ殺すかは楽しみにしていな」。茶々は小刀を持ちながら秀吉の前から逃げ出した。

そんなことより、愛している人が大切にしているものを捨ててまで私に振り向いてほしいというほどの愛情表現をされる夫や彼氏が羨ましいです。そんな愛されかたに嫉妬します。私は結婚したら(できたら)まず、趣味のものを跡形もなく捨てます。お願いだから一緒に死んでと言われれば喜んでいっしょに死にます。愛とはいろいろな考え方があり、私「だけ」はそれが愛と捉えています。

大切にしている趣味のものを捨てるなんて信じられない、理解できないというのは同性の女性からも強い批判があるようです。大切なものを捨てるのは到底許せないことだと。でもそれが愛情表現だとしたら私はそれでもいいのではと、批判する人を説得します。今回はそんな意図がありこんなこと言ってます。人の大切にしているものを捨てるような理解しがたい人間を理解しようとした理解しがたいブログ主であるので理解されないことは私もよく理解しています。ただ、たかが趣味のものを捨てられたぐらいで騒ぎだすようなモノの価値しか見ようとしない、人の愛情を蔑ろにする男は私は理解せざる負えないにしても、心の中では理解したくないです。

プライドがなくてもいい

電車の中で歌うたってたら

知らない方から

「もしかしてユーチューバーとかの撮影とかですか?」

とか尋ねられた

 

かんけーねえよ

ただの酔っ払いだよ

気にすんなって

 

どこかで聞いた話だが、ある営業勤めの新入社員は人混みの大通りで歌を歌い、それで物怖じしないような度胸付けをおこなうという。まあ、物おじしない堂々とした態度というのはプレゼンとかでは大いに強みになるからあえて説明しないけど、人前で歌う変な特訓にはもう一つの理由がある。緊張とか気恥ずかしさとは一分一秒でも無駄にできない営業活動において、度胸がないとなるとそれだけで時間の無駄。時間の無駄は効率の無駄。緊張しているだけ大切な仕事の時間が失われてくる。だったら緊張しない度胸をつけたほうが物事が円滑に回りだす。時間も無駄にならない。うーん、私の説明抽象的だね。元来論理よりも直感なんだよ私はね。

 

そんな事情とは違い私はただ電車で歌ってた。私はそれが恥ずかしいこととは思わない。むしろ恥ずかしいからこそ面白いんだ。ホリケンが言ってたけど周りが引かれても気にしないくらいのギャグをやれてこそがそのギャグをやる意味がある。つまりそんな引かれるギャグをする自分が大好きだということだ。私と性格がホント似ている(才能は天地ほどあるけど)。私の歌で周りが笑ってくれたのならば本望です。迷惑ですが。そりゃ「うるさい」って殴り掛かられたら止めますよ。まさか警察に突き出しても私がそれをまんざらでもないのですが。

私は人から笑われることはわけない。バカ扱いされようがキモオタだろうがロリコンだろうが(最近ちょっとヤバくなったが)、それよりもプライが高い奴と思われるのが嫌いです。そもそもプライドというものが鼻につく。よくいるよね。自分が頭いいと思って他人を下に見る人って。相手をバカとそうやって思うような心のプライドの高さが大嫌い。Twitterで「俺はあれが馬鹿らしく見える」とかいう奴は私から言わせればもう少し相手のことを分かろうとしないのかな? そうやって相手を切り捨てるほどのプライドって本当に大切なのかな? 少し自分の間違いを指摘されると素直に受け入れればいいのに、プライドが高いからそれもできない。小さい器ではビールも飲めやしない。だからSNSでくだらない言い争いが怒る(起こる)のです。ツマラナイカラヤメロ(宮沢賢治風)

プライドが高いとその高さを保つのは疲れる気がするのです。いつもプライドで自分を縛り付けておくものなのでしょうか?

私はプライドというものを捨てた。バカになりたいとおもったら電車でカーペンターズの青春の輝きを歌うのです。

それ以来気楽に生きてこれた。でなかったら若いうちから自殺してたまじで。

そもそも電車で歌うのはプライドが低いからじゃなくて単に精神薄弱者だからだろ

そう自分で言うてしまうプライドの低さに日々心は助けられているのです。

人を殺して何になる

施設で19人殺した事件も座間の9人の遺体をアパートに置いておいた事件も私にとってさほど気にも留めなかった。

しかし新潟で女児が殺されたことは今後においても残響になるかと思う。

いつも事件がおきたら「何故」とか「許せない」とか単略思考な人間は「死刑にしろ」と殺したがりが出るのだが、その気持ちは一年後には振り返ろうとせずいつの間にか忘れている。それ程の心の留め金が外れるくらいならば最初から事件に関心を持たないでほしい。5年10年後には凄惨な事件も忘れかけている。あまりにも薄情ではないか。

私は戦後の重大殺人事件は事件発生の日時と概要とその後の判決まで自信はないが、覚えているほうだと思う。私が唯一周りから優れていると自負するのはそうした事件の記憶をいつまでも覚えていること。

この事件のいたたまれなさは殺しておきながら線路に放置するということ。これは一体何なんだと。数ある児童殺害でもあまりにも薄気味悪すぎて。感情的に言えば犯人は生きていても仕方がないだろうという口調になる。私は感情論からくる死刑反対であると自負するが、正直この事件は人間の失敗として処分するべきである。人を2以上殺して死刑になる杓子定期な永山基準なんか用いるべきではなく、感情的に始末しておく。家族は残念だが公民権をはく奪したほうが良い。それだけの事件なのである。それだったらば、殺したならば森にでも海にでも捨てて欲しかった。線路に捨てるのは到底許せるものではない。何故線路に捨てることがいけないのか。

人を2度殺したからである。以上。それだけ言えば十分だと思うのでこれ以上言わない。

そもそも、なぜこんな人間が出てくるのか? 事件はこうした児童殺害は動機がいまいち報道されない。何故ならばその動機があまりにもおぞましいからである。児童を性的暴行して殺すのは報道しにくいと誰かが言っていたか(最近の事件では千葉県のベトナム人小学3年殺害事件)。だから、どういった事件かは知られても、その動機があやふやになり「何故こんな事件を起こしたのかと?」白痴をかますかのような大衆があるわけで、それでは今後の事件の阻止力になりえない。事件がおきたからには国民はどうやってこのような事件を限りなく少なくするには何が大切かと真摯に考えて予防措置を取らなければならない。煽り運転の交通トラブルがあるからドライブレコーダーをつけようというような予防策が何故児童殺害がおきたときは出てこないのか? 

何故殺したというのがあまりにも訳が分からない。どうこれからこういう事件を防いでいったらよいのかわからないから国民は事件の防止に関心がない? 「ただの異常な気質がそうしたのであり、どうすることもできない」。もしそうだとしたら思考の停止であるのだが、それも致し方ないのだろうか。ストーカー殺人もああいった事件があったことでようやく公的機関も本腰を挙げているが、どうしてもおきてしまう。殺人を1年を通してゼロに抑えることは土台無理だからだ。殺人は人々の考える常に上を目指している。だから殺人は無くならない。常人が非常な人間を理解して犯罪を防ぐというのは常人が出来るだけで常人の思い描く犯罪防止を軽く超えてしまう非常人がいる限り犯罪は無くならない。

人を殺したのはその人が人を殺したかったに過ぎない。ただそれだけのこと。今回の事件もそれと同じ。あまりにもあんまりな話である。所詮殺人を防ぐ術は人類は持ち得なく、罰を与えておしまいにするしかない。殺人防止という方程式を解いている最中にまた殺人がおきたら方程式を解いていた努力も無駄になる気がしてくる。殺人を防ぐことが出来ないのならば感情的になって後で忘れてしまうほうが楽であるから、国民が児童殺害になんら対抗措置などを言挙げ出来ないのは「所詮殺人をなくすことは不可能」と心のどこかにあるから、半ばあきらめているのだろう。

人を殺す奴はどうやっても人を殺す。「人を殺して何になる」とそういった昔から疑問を持った私はそうした犯罪心理学の本を読んでみたが無駄だった。「サイコパス-冷淡な脳」という本を読んだことがある。サイコパスという常識的には考えられない犯罪を犯す人間の脳を解き明かそうとした書である。その書の言いたかったことは「サイコパスという並の人間の頭をしていない人間がいるから、そういうやつが犯罪をしているから、もしその犯罪をする人間がいるならばサイコパスな人間を矯正していかなければならない」と。そして最後があまりにも救えた話ではない。「そもそもサイコパスという殺人を苦にしない、むしろ快楽として行う人間をなくすことは遺伝学上不可能である。これから先もサイコパスの脳を持つ人間と社会は付き合うほかない。もし、このサイコパスという脳を治すことが出来るのならば、いったいどうすればよいのだろうか、皆さんも考えて欲しい。私はどうしていいのか、まだ答えが出そうにない」。・・・こう最後に綴っているのはあまりにも、あまりにも肩に死体が乗っかった様なそんな絶望を感じた。要するに殺人をする人間に善悪なんて説いても罰を与えてもただの骨折り損なので、あとはほどほどに殺人を理解しておく。決して殺人をなくそうとは思わないことだと、そういいたかっただけ。これは詐欺の本だとブン投げたあとどっかに捨てたと思う。犯罪者の気質がサイコパスとわかっていながらそれを防ぐ手立てがないとは、殺人を許容しろっていうことか? サイコパスを治す手立てがないからには、殺人はこれからも起こり続ける。そしてそのたびに悲しみがおき、怒りがおき、刑を科して溜飲を下げてから、そしてまた風化していくそんな殺人殺人事件とこれからも人間は付き合っていくのだろうかと思うと気が重くなる。だから私は殺人事件に無関心だったはずだが。。。

 異常な気質を持ち殺人をする。金銭トラブルや痴情のもつれ、家庭、仕事のトラブルの殺人はまだわかる。だが、線路に放置とはいったいどの面さげて今まで23年生きてきたのか? 子供を殺して線路に放置するために親は腹を痛めてそいつは生まれてきたのか? 最後に女児を殺すために今まで生きてきたのか? そして殺して刑を受けるそんな人生を本当に望んでいたのか? 私はそう考えた時、これ程人間というのは訳が分からないものなのだと、このブログを書いている最中に何度思ったことか。

 

休日の東京は疲れる…その2

五月に入ると吹奏楽の「五月の風」という楽曲を聴く。

どうせなら当たりくじを抜いていたタワーレコードの新宿店で全日本吹奏楽コンクール課題曲参考演奏集(1995-1997)なるCD買って聴いてほしいんだけど、youtubeで「五月の風 吹奏楽」と検索すれば、是非聴いてみてください。ブルースカイとライジングサンと五月の風の3曲は音楽の通信簿一貫して「5」の私の耳が腐ってない限りいい曲だと思います。

五月の風とはヒンヤリ冷たく、でも心地いいのです。私は夕方にそういう風が吹いてくれることが好きです。その風が一日が終わりを迎える際にもう一度あの日中の日差しに照らされた緑豊かな新緑の空気を今一度振り返らせてくれるのです。そして改めて五月という季節を教えてくれる。

晩来 風起こりて 新緑 枉げて相思う

夕暮れの上野公園の木々の中を歩きながら風が頬をくすぐったときにでふと詠んでみた一文。

でも、五月というのは、そんな緑の美しく風が心地よい季節ではあるが、五月病の発祥の季節でもある。この病気については今更説明する気はないが、ことに私はよくこの病気にかかる。三月は体力的に疲れ、五月が精神的に疲れる。だから五月のこの時期に外で遊んでくるのだが、まあ楽しめた。しかし、もうあと何年生きていけばいいのかもうこの辺でいいのではと思う。

この祝日続きは東京をぶらぶらしていた。東京どこでもいい。駅周辺を歩けばそれで満足なのである。私はつまらない人間だから外で楽しくしている人に楽しさを分けてもらおうとしている。ほら、笑いにつられて笑ってしまうことってあるじゃん? あんな感じ。新宿、渋谷、池袋、原宿、上野、品川、秋葉原、恵比寿、あとは新橋かな。そのへんの駅周辺でぶらぶらしている。マジです。意味不明で不審者だと思われますが駅周辺を歩くことが私なりに面白いのです。新宿伊勢丹では私にとっては場違いな場所なのに「なんでこの人ここに来たの?」と思われるほどの嫌がらせみたいに店の中うろうろしてます。あとはゆりかもめに乗りフジテレビがある辺りの駅に降りて大腸菌まみれといわれる砂浜を歩きながらたまにその大腸菌まみれとされている海の水に手をぬらして「ひゃあぁぁぁー」と意味不明に独り言をつぶやいて、意識の高そうな人たちと一緒に歩きながらまたゆりかもめに乗り豊洲まで向かうのです。な、なんかちょっとアレな人ですが実際本当に精神病を患っているでしょうがないんです。

でも買い物したのはやはり秋葉原でした。アトレ秋葉原ごちうさのコラボなんたらがやっていたので何か買おうとしたけど買おうとしていた扇子が売り切れていたのでしょうがなく缶バッチ一個買っておしまいでした。どのキャラが描いてある缶バッチなのかはわからないように梱包されています。私はチノが好きなので是非ともチノが入っているばいいなーと期待しましたが、やっぱりチノが入っていました。やはり日頃の行いがいいのでしょう。

 

 

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トリミングめんどくせえ 

 

秋葉原はフィギュアとか見るのが楽しいです。たまーに掘り出し物があったりするのでそれを見つけることができるとまんざらでもないです。中古フィギュアは別に中古でも私はいいという人間です。その形をしていれば汚れていようが褪せた色合いだろうがぶっかけてあろうがまったく気にしません。それどころが、新品で買うとこんな高いのに同じような形をしている中古品が箱、ブリスターが破損しているだけでこんな安いのかと感謝して買うこともあります。要はフィギュアの形をしていれば新品も中古も変わりません。中古だろうが置いておけばそれは紛れもないフィギュアなのですからいちいち気にしても仕方がないでしょう。私は限りなくB型に見られるA型なのでA型本来の綺麗好きとか神経質さとか無縁になりました。そんであるショップのジャンクフィギュアを買いました。

 

 

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八雲紫(香霖堂ver) グリフォンエンタープライズ

 

また東方のフィギュアです。しかも昔買ったのをまた買っている要するにバカです。値段のわりに状態が大変よくまるで中古未開封と私の目利きが(笑)判断したのでお買い得だと思い買いました、5000円。このゆかりんは原作設定よりも幼さが出ている気がします。造形も深く掘られていて淡白さは感じられず置いてあるとなかなか存在感を感じさせる。ポーズや髪のなびかせかたからも躍動感が伝わってきている。実はこのフィギュアは前にも買ったお気に入りですが、落として壊れてしまったのでまあ買いなおしたわけです。俺は可愛いと思うけどなぁ・・・コレ・・・。

今日は東方の博麗神社例大祭でしたが、去年に続き不参加です。フィギュアの東方が好きであり、イベントとしての東方は昔の熱意が薄れてしまったようです。それでもTwitterを見ていると楽しそうで羨ましいです。誰かと一緒に参加したいのですが、いつも一人だからねぇ・・・。