寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

c92行ってきたその2

コミケまた行ってきた。行かされた。

コミケ行くのは東方が目的だからそれ以外はないから開催1日目のジャンルであった東方、つまり1日目だけ行けばそれで終わりのはずなのに3日目行ってきた。

要するに代行されたという。下野国の「変なの」に頼まれて買わされにいかされた。

12日「あーコミケ終わったかー」といわき平競輪場で行われるオールスター競輪(GⅠ)の予想してたら「買いにいけ」だと。正直氏ねと思った。

 

 

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競輪予想の紙に薄い見えずらいが何を買えばいいのか下のほうに書いてある。A-15a !? てめえシャッターじゃねえか。何で俺に並ばせるんだよ。俺はな、列に並ぶのが大嫌いなんだよ。「どれくらいの頒布量なの? 列形成はいつもどんな感じ? そもそも、えっ? どの時間までに並べば買えるの?」と。それがわかんねーときたもんだから氏ねと思った。新手の嫌がらせ? 入場規制解除する時間に行っても買えるかわかんねーから(初めて買うようなジャンルだから)、あーそうするとまた久しぶりに夢の大橋に向かい並ぶのか。

で頼まれた品はこちら

 

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久々に列らしい列に並んだ。何で日本人は並ぶのが得意で好きなの? 正直買えなかったからと言ってチョンボしてやりたかった。今度からはメルカリとかに頼んでね。

 

C92行ってきた

コミケですね。今年の夏のコミケに行ってきました。正直このブログ、なんていうか、コミケぐらいしか思いつかないんだよね。日常生活なんてどうでもいいし、他にブログ書くとしたら地方競馬で儲けたとかそんなことしか楽しくブログ書けない。それに今の世はTwitterばかりでブログやる方は少ないと思う。私もTwitterのほうがあればブログしないとは思うがTwitterがどうも苦手でね。まぁとりあえずそういうことで今回もコミケ行ってきたことを書く。

 私のコミケでのジャンルは東方です。私が小学年の時(1996年)に「ねーねー私のポケットモンスターと勝負しない?」「あんただーれ?」「アーン♡」とCMで言っていたポケモンは今や世代に引き継がれて今なお人気である。20年も変わらず人気を誇るそのわけは子供にとって普遍的な価値を持っているから。子供ならばポケモンはいつの世も魅了しつつづける。コンテンツは世代ごとに愛されれば不朽の作品になることはアンパンマンを見てもわかる。東方もそんなジャンルの一部なんじゃなんじゃないかな? ここまで東方の息の長さを考えると。

私の東方の記憶は地霊殿で止まているし、かろうじて神霊廟のキャラもフルネームで言えてキャラ設定を述べられるのは物部布都だけ。それ以降の東方原作は知らん。どうしても東方と言ったら最初の頃の作品しか言うとしたら言えないのです。すべての作品キャラを満遍なく話せる方は本当に尊敬します。

昔話をするならば、かつてコミケに参加していると口にすると素で変質者扱いされた。私が二十歳(2005年)のころにノリで「コミケ行ったよ」と言ったら本当に気持ち悪がられて当分相手にされなかった(マジです)。それが今では気軽になった。嘘を言うつもりはないが、秋葉原が好きというと気持ち悪がられ、コミケ行ったとなると本当に「犯罪者?」な反応だったし私は肩身が狭かった。確かにあの頃のコミケでは凄い人や痛い人やアレな人のオーラが場を制圧しそれがコミケの色であり、だからマスコミにもバカにされてた。それがアニメ漫画がクールジャパンと言われだしてから空気が一転した。それまで大してオタクでもなく、なくとなくアニメに興味持ったからコミケに行ってみるかという軽い気持ちが一般人を呼び込み今ではコミケに対する偏見も感じられない。情報化が進みそれに対して価値観が変わりつつあるのは時代の流れを感じさせるもので、それは好意的に見る。閉鎖的かつ排他的なコミケのマイナスイメージを変えたのはよかったと思うから。ただ、やはりマスコミがコミケを映すのは性的表現が全くない作品である訳で、コミケの本質はまだまだ変態の域のままである気がする。私はこれでいいと思う。エロが本来のコミケだとしたら納得する。ただ、そのような作品を親に言い出せないのであればコミケが誰からも支持を受けているとは到底思えないのでコミケ参加者は大きな顔は出来ないだろうか。私は今でもコミケに参加しているのは犯罪者といわれたら「はいそうです」と言い切る。プライドが高いのは疲れるからだ。

どうも回りくどい。買ったものをアップしてみる。

 

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抱き枕カバー(キャラは東方のアリス・マーガトロイド)

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タペストリー(キャラは東方のアリス・マーガトロイド)

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新刊グッズセット(キャラは東方のフランドール・スカーレット)

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ロングタオル(キャラはごちうさのココア)

 おかしいなー、なんか金たりねーよなと思ったらこういうの買ってたんだよ。値段は写真の品から上から順に13000、7000、4500、2500円…。この他にもスマホケースとか扇子とか、てか今回大体こんなグッズばっか。てか、ごちうさの品は買う時にお品の数量を用紙に記入するんだけど字がホントきたねーし、売り切れの品を間違って記入したりいろいろきたねーのが見もの。ココアロングタオルは企業で買ったけど会計の時「お一つだけでよろしいのですか?」と確認とられた。そんなに一つしか買わないのが珍しいのか? そりゃ売り切れてなければもっと買ってた。売り切れてたから一つだけなんだな。ちなみに同人誌はサークルさんに遠慮してアップは控えてます。 あ、あと色紙もらった。あっ、あと知り合いのサークルさんたちに商品券を渡した。サークルさんに差し入れって何が喜ばれるかというと手紙とからしい。でも私は手紙書くにしても字が汚いし心が伝わらなそうだからどうしても俗っぽいモノになってしまうのです。

その後飯誘われたけどビール一杯とつまみ食ってただけ。あ、あと何で北朝鮮はミサイル発射するのか聞いたりした。そしたらあれはミサイルを他国に売り込むために宣伝してるんだとか。えーマジ? 私はただの国威高揚だと思ってた。ああしないとあの国には誇れるものがないから政権維持のために国民をだましていると思ってた。コミケ後にその話題はないだろと自分で言ったことに自己嫌悪。世相を持ち込まないはずがつい口が滑った。そしてこれで10年以上もコミケに参加した。30になったらコミケ行かなくなると言ってた。「俺お前の仲」(勝手に自分で思っている)だったサークルさんは家庭を持ち、もう方のほうは環境の変化から「まう」やめてしまったが…自分は今でもコミケに参加しているのは幸せなのか不幸なのかわからない。いまだ独身で気まま勝手な振る舞いにはアイデンティティが保てない時がある。・・・それでも今コミケに参加する意義は東方ではないね。交流を、オフ会としてコミケに参加している。本当のぼっちになった時コミケに行かなくなるだろう。

 最後に今回のコミケで気がついたこと。

 

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コミケ会場(15時頃か)

・写真ではわかりずらいが曇ってた。んで、この夏にしてはコミケのこの時期としては涼しい。だから服のチョイスが増えてお洒落ができた、とおもう。暑いからといって丸首シャツにハーフパンツというオフト後楽園仕様ではコミケでも味気ない。テーラードジャケットを夏コミで着たのは初めてかも。

・東4ホールの劇毒少女のあたりかな? なんか警察車両来てた。マッポが何の用だと。救急車なら見かけるけど(見かけるとか軽々しいものではないが)、マッポが来たのは初めて見たかな? 大方スリか盗撮とかそっち関係? もしくは爆破予告とかで?

・気のせいだと思うんだけど東方のフロアの人たちが、活気が伝わって来なかったなー。なんかあんま楽しくないみたいな(笑)。今の若い子はおとなしいとうすうす思ってたけど上海アリスの新作買えなくて落ち込んだとか? 

・ついにハルヒのコスプレが絶滅した。今のコスプレは何のキャラなのか私にはチンプンカンプン。露出度の高いレイヤーバッカだったね。ネタコスプレが少ない気がした。でもコスプレはコミケの華であるといえる。何時も盛り上がって足の踏み場がない。

・「おー混んでる混んでるw」と余裕ある。昔は熱心に回ってたけど今は買うのは二の次。そんな私と同じなのか参加者は楽しいレジャー感覚でとてもコミケは戦場とは、そういう空気ではなかったな。昔はみんな必死血眼でそこらじゅうでよくキレてたよ。ゆとりが感じられるコミケ一日目だと思う。ただ、三日目とかはどうかわからない。あの日は私参加しないから。その日が古きコミケの名残だったりするのか?

・トイレで相変わらずうんこするところが混んでたね。私は腹壊したりするのはないから、何でコミケでクソ出んのか不思議。あんな場所じゃ私クソ止まるよ。それにクソしたけりゃノグソしていいんじゃね?  コミケが女性参加者が多いから男子トイレを女性に開放ってアナウンスいつもしてるね。でもどこのトイレを開放してるのか謎。私ションベンしに行ったけど女が便所に来たところ見たことねーぞ、みなくていい。

叶姉妹が来てたという、サークル初参加。小林幸子といい、これって最近のコミケのトレンド? 私は正直興味ないからというが、どうも対応が完璧だったらしい。ただ、それを毎年続けられるかが注目。慢心して対応が雑になった企業を知ってるから・・・今後の活躍に期待。

・徹夜する奴はマッポが機動隊レベルでボコるなり取り締まればいいんじゃね? マッポが時間外に働くにしても恩給出せばいいだけだし。徹夜組で毎回問題視してるけどコミケ運営は性善説唱え過ぎ。でも買いたい人が買えなくなるとか私にはだたの嫉妬にしか聞こえない。結局徹夜が悪い悪い行ってるけど綺麗ごとなんだよね。世の中こんなもん。私はあきらめてる。来るなと言っても大勢来るからすべて注意するのに骨が折れる。めんどくさいからコミケ運営は何もしないのだろう。それにトチ狂った通り魔みたいなの出てこないし、そう考えるとコミケ性善説には感服する。

・女性参加者はブリッ子ファッション多かったねー。ごめんなさい。

・東方のあるサークルの列に並んでる時私の身長(169)よりも小さい参加者多い。ああ若いな。

・最近のコミケは奇人変人がいなくて寂しい。

池田大作日顕のBLとかないの?

コミケは百代の過客にして行きかう年も又旅人也。

・一期一会を大切に。サークルと参加者が話しているのを見かけるとほほえましくも嬉しくなる。

 

最後にやっぱコミケは疲れる。何で疲れるのに疲れることするだろう。コミケが魅力的だからです。嫌な面もありますがコミケは楽しいです。興味あったら是非参加してほしいと思います。無理して行って来て本の一冊でも買えばそれだけでいいのです。ああいうバカ出来るイベントに参加すると自分が生きているという実感が出ます。私は普段死んでいるから生き返るためにコミケに参加してるのかもしれないです。

 

 

コミケについて嫌なこと

来週はコミケですね。小生いつからコミケに参加して今日に至るか定かではないが、かれこれ十年以上参加してきた。つまり夏冬どちらか必ず参加してきた。つまり毎年参加してきた。何がそんなに面白いのかは行ってみた本人しかわからない。参加する理由を聞くのが野暮な気がする。ただ、確かに言えることは楽しいからとしか言うほかない。

それにしてもコミケといえば参加している人はすべてが楽しいだろうとお思いかもしれない。今回はそんな楽しいコミケでもこれはコミケで嫌だなというのをちらっと話したくて。好きなものには嫌いなところも言えないとダメな気がする。友人の嫌いな点を10言えればその人とは本当の友人だといわれる。好きだからって盲目になってはいけない。嫌いなところも述べれるくらいにならないと。

コミケが戦場と大げさに語られるのが嫌い

コミケが戦場と称される時代は確かにあった。しかし、今ではその言葉はオーバーに聞こえてくる。ガチオタから今まで一般と(オタク側から)されてきた人がコミケに流れ出してからコミケというものが緩く敷居が低くなったような気がするからだ。昔はコミケに参加してたら周囲から変態呼ばわりされてた気がする(私はされた)。それが今では大衆文化として融合されつつあるのか。以前コミケとマスコミが流せばそのマスコミの本音は「キモオタwww」だったと思う。そのキモオタでさえもそれが消えつつあるから(本当はどうだか知らないが)。「コミケは戦場=オタクの熱意」がオタクかどうかもわからない一般人みたいなのが出てくればもうそこは戦場という大げさなものではないと。一般人が戦場にいることは不自然ですから。だから時代の変化を指示しているのに従来の価値観で語られると変な気分になる。

コミケを商業資本主義的に見なしているのが嫌い

買うことしか頭にない方に対して何がそんなにコミケが楽しいのか。そんなこと言うもんじゃないとしつつもいつも参加するたび思っている。私は私の(こちらの一方的かもしれないが)ささやかなつきあいでコミケに参加する。コミケでお金を出して買うだけならコミケに参加しなくてもいいのではないか。ショップや通販で間に合うかと。それでも参加するのは現地でしか買えない品やコミケのお祭り気分を楽しみたいという理由とか、コミケに参加することこそに意義があるのだろう。しかし、ネットではアレ買ったコレ買ったと言うばかりで、買ったものを言うだけでは寂しいのではと感じてしまう。そんなもん、金出せば買えるのに。数が限られて徹夜しないと買えないから買えたことがすごいと自慢したくなる気持ちもわかるが、私としてはお金を出すことよりも人と人との交流を求めているのがコミケと感じる。そんなことはないというのならば商業資本主義の企業戦略に丸め込まれた儚さを感じずにはいられない。コミケとはそういった商業とは対比していたはずです。せめて頒布を頂くときでも「ありがとうございます」と言えれば交流なのです。交流することが第一ではないのは当然ですが、私はどんな小さくても、その交流がなくなったらコミケには決していかなくなることは腹をくくって宣言します。ただ、それもこれも時代の流れでと片づけられたら何も言えなくなるが…。さっき自分が言った従来の価値観で語るのは変な気分と言っているので見事なブーメランです。

人を人と思わないサークルの態度が嫌い

だいぶ前になるが、ある人気サークルなのだろうか私は並んでいた。私の前に並んでた方はいざ目的の品が手に入るなり、そのサークルにむかって「今日会えて本当にうれしい。これからも応援します。頑張ってください」というそんな言葉を言っていた。私はそれを聞いてなんだか嬉しくなった。が、そう思った私が大バカだった。そのサークルは私が聞こえるように「なに今のアレ? すげーきもちわりーな」。今思い出しても悲しくなる。怒りよりも悲しみ。こんなサークルだったのかと。私は直前に買わないで立ち去るのは感じが悪いから買うようなふりして後で捨てた。ホントこういう態度は一体何なんだと? その他あるサークルが自分と仲がいい人とおしゃべりに夢中になり、別の方が「すみませんいいですか?」声をかけたら邪険に扱う。確かに商売じゃないんだから愛想よくする必要ないといっても、その方あんたのファンかもしれないじゃん? それなのにそういう態度ってどうなの? それともああいう性格してないと創作できないのですか? 愛想悪いのはともかく、人を見下すのは生きている人すべてがしてはいけないことだと私は思うのですが…。

エロばかりで語られるコミケが嫌い

コミケの社会的地位を引っ張るとしたら過激な性描写のたぐいだと思う。これは極めて個人的な感情ゆえ説得力に欠けるので、感情、態度で言明を表明する価値情緒説を使うしかないし、そうした感情が正しいかどうかなど何も言うことができない。しかしそんな道徳的潔癖さと言えるものは、価値観は個人に相対的であり、どの価値観を正しいとするかは定かではないとする価値相対主義の実質倫理として存在する。つまり感情も立派な意見ということ。では語る。私はエロが好きではないです。エロで一番許せないのは女性の人としての自尊心、尊厳を著しく侵害していることである。女性の性を、快楽の、オナニーの道具としてしか見ていなくそこに愛はない。性行描写には女性を男の欲望を満たすだけの物体としか捉えられていない。男がいかに自分勝手な生き物なのかエロ好きからは私は読み取れてしまう。苦しんでいる性描写の女性の絵を、たとえ笑顔でも弄ばれているかのようになすがままにされている性描写の絵を見て喜んでいる他人の痛みを感じたりする能力の欠如がある者に女性を果たして「人」として見ているのか甚だ疑問である。女性がひどい仕打ちをしているさまのエロというものにたとえ絵でとかであっても罪悪感を抱かない人間が果たして本当の愛というものを知っているのだろうか。性癖を差別するのではない。だが私一人の意見は今の日本ならばまかり通るはず。私はエロが嫌い。それでコミケを嫌いと言えば私は異端でありこちらから願い下げだが、エロはコミケの裏の顔として表ででかい面してほしくないというのが私の願いです。以前知り合いのエロ描いてたサークルがだいたいこんなこと言っていた。

「表現の規制だとか言っているけど、はっきり言って描いてる俺を含めてやり過ぎなんだよ。いい加減周りの目を気遣えよ。好きなら好きでひっそりとしてればいいのにネットでエロを喧伝してるから目をつけられたのに、自分から騒ぎ立てておいて何被害者ズラしてるんだ」。

そのサークルの方はもうやめてしまった。

これくらいか。コミケで嫌なところは。あとはお茶の出がらしみたいなもん。

参加者に臭いのがいる

人の身体なんてその時風呂入って綺麗に洗った服着てれば臭くなることはないんです。途中汗かいて汗臭いのはいいのですが、明らかに異常な匂いなのです。どうすればあんな臭いでいられるのか私にはわかりかねます。

あのクソ混んでる会場をカートひいて歩かれる

人の所持品にケチ付けたくないんですけど、カートってコスプレする方が持っているにしても、体に接するリュックとかでいいじゃん。正直足元に当たって痛いのです。女ならまだ舌打ちくらいだけど男がカートひいてると調子こいて気取っているムカついてきます。あの人混みでそんなの持っていると邪魔で迷惑だと思わないのと。周りに迷惑かけないように心がけることも、ことにコミケのような大人数。わかってほしいのですが…。

並んでる列に割り込むクソガキ

割り込んできておいて何が「もっと熱くなれよ!!(修造)」だよ。

小さい子供を連れてコミケに参加する親

自分の趣向に子供を巻き込むのはDQNネームのような自分勝手さが伝わってきます。ちなみに私は幼いころ父に連れていかれてパチンコ屋が大嫌いになりました。私は平気だけどあの環境は子供には酷ですし、事後的な事件の元になります。誰からも子供を預けられなくて仕方なく連れてきたのであれば、もう一度自分の親に土下座して預かってもらいなさい。

コミケスタッフの感じが悪いときがある

あの人を捌く誘導するのにはそれ相当の気の入りようがないとできませんし殺気立っているのもわかる。が、開会待ちの列に並ぼうとした際にどこに並べばいいのか聞いたとき「は? わかるでしょ普通」。わからねーから聞いてんだよ。もう列に並ぶことないけど。あと体ぶつかったときちゃんと謝っているのにオフト後楽園のクソ爺みたいな顔になるのは余裕がないと疲れません?

コミケというものに浮かれているサマ

コミケ開催時、ガン研究所の患者さんは外を見ないらしい。自分勝手に楽しんでいるそのコミケ参加者、その根性が嫌なのである。人は悩んだり病気になったり事故で死んだり自殺したり、なんでそんな人達を尻目にヘラヘラしているのだろうか。不幸な人を見て見ぬふりして自分だけが良ければそれでいい。「いい人ぶって心底冷たい」。そんな日本社会に溶け込もうとするコミケ参加者が嫌だ。患者は「なに一人で好きなことしているんだ」。その社会の辛い出来事を知らないでイベントに費やしていた無関心な薄情さみたいなのを目の当たりにしたくなくて窓の外からその景色を見ないらしい。

文章は私の意訳だが、こんなことを人づてで聞いたことがある。あれは10年も前だろう。言わないでおこうとしたけど…。コミケの熱意が「自分さえ楽しければ周りはどうだっていい(徹夜組、サークルチケット転売、盗撮等)」という性格形成の土壌だとしたらそれでは間違いだ。自己の幸せを噛みしめ、尚且つ他者の気持ちを分かり得る。参加者がそうなれば、そうすればコミケはもっともっと素晴らしいイベントになるでしょう。

以上無理して10のコミケの嫌いなことを挙げました。こうやって水を差すようなことするのが私大好きなんです。開き直っているのではなくて、あまり好き好き言われると腹立つんです。好きだからといって否定的な意見を受け付けない理解力がない人間が好きだと言い続けるからです。そんな人が私は好きではありません。好きならば嫌いなことも言える。そしてそれを理解したうえで好きであり続ける。間違っているかな?…

My Favorite March

John Philip Sousa personified turn-of-the-century America, the comparative innocence and brash energy of a still new nation. His ever touring band represented America across the globe and brought music to hundreds of American towns. John Philip Sousa, born 6 November 1854, reached this exalted position with startling quickness. In 1880, at the age of 26, he became conductor of the US Marine Band. In twelve years the vastly improved ensemble won high renown and Sousa's compositions earned him the title of “The March King”. Sousa went one better with the formation of his own band in 1892, bringing world acclaim.



The Free Lance March (1906)
This classic and sophisticated march by John Philip Sousa is unique from the standpoint of opening in 6/8, then switching to 2/4 midway. Drawn from his popular operetta The Free Lance, The Free Lance March is another of Sousa’s great medley-marches. Each section of the march is a different number from the show. Each had lyrics in the production, some of them tongue-twisting. The last trio tune is the rousing finale On to Victory!

I love this music. I feel uplifted when I listen to this music. It is this “Free Lance March” to recommend in Sousa music.

ルチルクォーツの効果は本当か?

「げっ、こんな石が高すぎじゃね!?」

様々な種類の天然石と言われる鉱物には個々の効力があると言われる。私は石のことについては昔から興味あったから今更説明する気もけだるいが、それらの天然石はパワーストーンとして身につけていると様々な効果を発揮すると言われる。例えば石英の一種であるアメシスト(紫水晶)の名というのは「酔わない」を意味するギリシア語amethustosに由来し、酒酔いを防ぐ効果があるとされ…ていうか宝石に分類される天然石というものこれでもかというくらい多種多様な効果を示している。正直「適当に付け足してるだけじゃねーの?」という確かに綺麗な石だが効力までもしっかり保証されているものなのだろうかと石についてそれほどでない方はいささか疑問は絶えないかもしれない。それでもパワーストーンという言葉がこの世に流通しているワケとは不思議な石の効力を信じてやまない人々の願いがパワーストーンという言葉に託されているのであろう。

今回はそんなパワーストーンとしての効力というよりも、単にその石が放つ美しさ輝きに魅了されて単に「きれいだから」と身につけているだけに過ぎない私がパワーストーンの効力とは果たして真実なのかどかという半信半疑な考えに一応の結論を出そうと決めた次第である。以下次の天然石を使って検証する。



ルチルクォーツ



鉱物名は針入り水晶とは、名の通り針状のルチルを内包する水晶である。ルチルとは金紅石(二酸化チタン)のことでそれが水晶にインクルージョンされたものを指す。ルチルの色は金色が多く赤色から深い赤、黒色でルチルの入り方やインクルージョンの密度次第でその種類が分かれていき価値も違ってくる。その中でタイチンルチルといわれるものはパワーストーンの中でも指折りの人気を誇り、金色の太いルチルが入ってるものでありその密度や針の均一性、はたや水晶自体の濁りがなく透明感の高いものは高価な値段として市場に流通する。ルチルクォーツ人気の秘訣とはその石自体の美しさもさることながら金運を高める効果は他のパワーストーンの追随を許さないだろう。古来より中国でも富豪の象徴として親しまれ、日本でも起業家が好んで用いるいわば「金運勝負運の石」として不動の地位を誇る。名の語呂からも「金(のルチル)が入る水晶」という通り「お金が入ってくる」と訳せば大いにそれも納得するものである。

さて…もうこういう前置き自分でもウザい。要するにルチルクォーツを身につけていれば金が入ってくるかということをやってみた。ということで取手競輪(笑)に行ってきました。ちなみに平日になんで競輪現地でやれるんだというのは個々の想像で。ちなみにルチルを身につけて買う車券は報知新聞社杯F1準決勝のレース(F1二日目準決勝のレースはヤオが少ないので)と気が向いた久留米の9、10、11、12のいずれか。もうめんどくせえから結果から。



 

配当金 14280円 投資金額 6800円

回収率 210%

バカだから数字間違えてた(7月2日訂正)


結果回収率100%を超え見事金銭はプラスになった! やはりルチルクォーツの効果は正しかった!! このことからももし、金運を高めたいというのであればルチルクォーツを身につけるのがよいだろう。ちなみに私が今回用いたルチルクォーツは一般的なゴールドルチルという。いくらなのかは…ふんっ。

パワーストーンなんてインチキ臭いカルトまがいなものという考えなのもその判断はよろしいかと。ただ、少しぐらいこういう石にあやかるのも可愛げがあっていいじゃないの? 私はオカルト大好きだからだけど、ギャンブルやる奴が現実主義者なのはなんか違う気がする。現実主義者はギャンブルせずに堅実に働いて金ためるだろ。にもかかわらず「パワーストーン身につけてギャンブルが上手くいくなら最初から持っているわ」という方。是非ルチルを持ってみてくださいと私。今回それが言いたいだけです。

by結果論でごり押しする鉱物好きな私より

勝者が讃えられても負けたものに対しての配慮は…

私は東京で暮らしているが今月27日に実家の茨城に帰ったときの話。

別に報知新聞社杯の車券買いに取手競輪やろうとして帰ってきたわけじゃないが、姉貴のお義兄様の関係とかで、まあそれは個人的事情ということで。

うちの母なんだがある人物についてイライラしていた。私はそんなにイライラする理由に「ああ、なるほどね…」と。そのある人物とはもはや言葉を語らずともどれ程すごいのかは察しがつく。将棋棋士藤井聡太四段のことだった。母の趣味はテレビを見ることというくらいテレビばかり見ていた。昼はワイドショー、夜はバラエティドラマとまあよくも飽きずにテレビを見てるなと私とは大違いだと、それはそれでいいが。母は「昼も夕方のニュースもどの局も藤井四段のことばかりやっている彼の顔は見飽きたと」私に文句を言ってきた。勿論私はあれほどのすごいことを現在進行形で続けている、しかもまだ十四歳だから驚きで天才の彼に何でそんなこと言うのか最初わからなかった。

「何で? どうして? ディスコティック(阿良々木月火)」である。

母「大体彼が勝つたびにマスコミは騒ぎ過ぎ」

私「そのマスコミらで構成されているテレビを何で好き好んでみてるんだよ」

母「勝った藤井四段のことばかり讃えられて負けた棋士の配慮がマスコミにはないの? 藤井君と戦う棋士の方はまるで悪者にされて…藤井君が正義で対戦する棋士が悪。いくらあの年で凄いにしても負けた人には労い言葉も生まれてこないのか」

大体こんなこと言っていた。確かに母の言うことがわかる気がした。というかわからなければいけないのかもしれない。勝負において勝つほうが正しくて負けたほうが間違っている。そんなことは決してない。なのに藤井四段が勝つたびにマスコミは浮かれ様は間接的に敗者を傷つけている。母が言いたいことを知ったとき私はなんて言い返そうか、次に続く言葉が正直見つからなかった。

勝負とは常に勝者と敗者にわかれる。勝者に注目が集まるのは当然。が、しかし、日本は確かではあるが敗者をぞんざいに扱ってきたわけではない。それなのに今の藤井四段のは報道の過熱ぶりからその色も褪せている。話をあえて逸らすが日本は戦いで負けたり政争で負けたりしたらその敗者は死後恨みを抱き怨霊に成り下がる。そして祟りとなり国家らも影響するという考えがある。それすなわちたとえ国に対し大罪を犯し、その者が死刑になれば死刑になった者の霊を慰めなければならない。この意味合いと言うのは怨霊信仰である。いくら死刑になったものでも、ろくな死に方をしなかったものというものは死後その怨念から悪霊怨霊になるとされた。本当に日本はそれを恐れた(だからこそ平安時代初期は死刑制度がなかったほどである)。だからなのである。勝者であってもその敗者を慰めなければいけない。負けたものに対してもその勝負をしたものに対して敬意を記さなければならない。平将門菅原道真崇徳天皇らの死後に何が起き、そして何を対処したかは敗者に対する配慮であることは自明の理。

日本の武術とは礼に始まり礼に終わる。そして勝ったからといって勝者は勝ち誇ってはいけない。何故ならそれが敗者に対する無礼になるからである。勝ったほうはいいが負けたほうの心中察する為れば悔しさ敗北感を勝者が助長してはいけない。だから柔道剣道相撲は勝負が決まっても最後には勝者も敗者も礼をして終わる。戦っていただけた両者ともに敬意を示すのである。ここに勝者とも敗者もない。勝者は敗者を戦いで破ったからと言ってそのブライドまでも破ってはいけない。勝者は敗者は悪だからと痛めつけてはならない。そんなことすれば敗者は勝者に恨みを抱きこの戦いが怨恨となり以後心の中でくすぶり続ける。そして敗者が恨みを持ち勝者を殺してしまえば、そんな戦、なんて意味のないただの諸悪の根源になってしまう。負けたものが恨みを抱かせないためにも勝者は敗者に気を使わなければならない。日本の怨霊信仰はいつしか日本の武道に意識を働きかけ勝っても負けても礼を尽くして終われば後腐れなんてなくなる。剣道で一本を取ったときにガッツポーズしたらそれが取り消されるのは正にこのことであるし、ボクシングの試合でも勝者は敗者と試合の健闘を讃えあい勝者は敗者の拳を掲げてあげる。スポーツ等の勝負とは勝てば官軍負ければ賊軍ではない。そんなものは歴史だけにしてほしい。決して敗者が、弱いからと言って貶したりしてはいない。

その貶しをマスコミはしているのである。藤井四段の対戦棋士に。

強いものがカッコよく正義であり負けたものは見向きもされない。また私の病気で政治体形を批判するが、資本主義という実力主義の負の部分を見せられているのだろうか。確かに藤井四段はすごい。連勝記録はとてつもなくあの年だから余計凄い。しかしその連勝で敗れ去ったものは藤井四段を立派に見せるための道具ではない。人を人と思わないマスコミの態度に私はなぜ今気づけなかったのだろうかと母の言葉を聞いて悔やんだ次第である。

スーパーファミコン桃太郎伝説を思い出した。主人公桃太郎が各地の鬼たちの行いを正していくRPGである。この作品自体名作で私はドラクエではなくこの作品でRPGを知りいまなおドラクエ全作にも及ばないとは個人的趣向だが。この作品で桃太郎の仲間になる夜叉姫の台詞を思い出した。

勝て!たおせ!ひねりつぶせ!

カルラのいう言葉はたしかに みんなをふるいたたせるわ!

でも!

勝ったあとに何が生まれるの?

負けたがわの気持ちはどうなってしまうの?

桃太郎さんは勝つことの

悲しみを知っています!

そして負けることのつらさも!

※某サイトから引用

カルラとは敵のボスの鬼である。夜叉姫は当初カルラ側のキャラだった。しかし、桃太郎の戦いを通してカルラの考え方「勝てばいい」という考え方に疑問を抱き桃太郎の仲間になる。そこに鬼族で唯一中立を保つ夜叉姫の兄アジャセ王子が現れた時の夜叉姫の台詞である。ストーリーを知らなくても私は是非とも暗黙知にしてもらいたい。太字で記しているのはそう思える台詞である。

負けた側の気持ちがどうなってしまっても構わないというのがマスコミである。藤井四段の対戦棋士に。

これで政治においてマスコミが弱者救済をと強者追従の現政権を批判するならばそんなものは噴飯で語ることもおこがましい。結局強者を讃えるのは金になるからである。藤井四段はマスコミの儲けの道具にされいるのである。そしてそれは無礼である。そして敗者の棋士には金にもならないと切り捨てる。二重の無礼を働いているのである。こんなマスコミでは真の弱者なんて救済でない。都合の悪いことは記事にしないのは昔からだが、政府も政府ならばマスコミもその政府の走狗に過ぎないのである。私は勝者で儲けようとする資本主義が嫌いなのだが、それ以前にも敗者に対する配慮を怠っているのが許せないだろう。私はテレビを見ないから藤井四段のことはwebニュースぐらいしか知らなかった。しかし朝な夕なに藤井四段というマスコミの報道姿勢を母から知ったときなんていうか、とても、がっかりした。弱者に薄情な日本を象徴しているのだろうとすればまたしても私はテレビを見なくなるのだろう。私の母は元教師で左翼思想があるにせよ、この親にしてこの子なのである。私が左翼思想なのは遺伝なので申し訳ない。ただ、敗者を気遣う気持ちに左翼もくそもない。

私は、勝者は強いからどうでもいい。それよりも敗者のことを気にかけれる人間でありたい。それが偽善と言われても。

最後に藤井四段が天才だから仕方ないにしてもだからといって「比してこれに驕らず」な態度は中学生であるならばすべての勝負するものは見習わなければならない。ただ、どうしても、戦いの厳しさを知るためにどこかで負けておいてもいいのだろう。でなければ孤高の孤独さゆえに敗北を知らぬようではさらに強くなれないからだ。「失敗はよいことなのである。失敗が次に繋がる。失敗が人を大きくせる」とかthreekingdomsで曹操が言ってたけど勝ち続けることの意味とは記録のためにしかならず、真に己のためにならない気がする。私は性格が悪いから正直そろそろ負けて欲しいと思っている。性格悪いという枕詞は卑屈だが。負けて欲しい理由を北斗の拳にあるストーリーを用いて説明する。北斗神拳南斗聖拳の交流試合、南斗十人組手に挑んだ北斗神拳伝承者候補である若き日のケンシロウの最後の相手として南斗聖拳の頂に位置するシュウが立ちはだかりケンシロウを一蹴した。負けたケンシロウは南斗の掟により殺されることになっていたのをショウがケンシロウはこれから強く輝くから殺してはいけないと己の両目を潰してまで、ショウの視力と引き換えにケンシロウの命を救った。疑問は何故ケンシロウを殺したくなかったのにこの試合にケンシロウは負ければ殺される。それがわかっていてケンシロウを負かしたのだろうか。自分が名乗り出なければケンシロウも両目も救えたハズというのは愚問というもの。戦いの厳しさというものを教えたかったからに過ぎない。小さいのに大人相手に勝つようでは今後心のどこかで慢心する。要するに生意気に思えてくるのである。その所詮子供で大人には及ばないと教えてあげないと大人を慕えず他人を慕えず子供が大人を凌ぐことは厳しさを知らない未熟者になりえる(この辺の私が言いたいことはバガボンド宝蔵院流槍術編の宝蔵院胤舜を…ていうか読めよ)。子供が天才過ぎると大人が叱れないことが教育上よくないのと同じ。負けることは心を磨くこと。シュウはケンシロウにそういったのを伝えたくて戦いを挑んだのだろう。んで、自分が負けたことでまだまだ自分は足りないとケンシロウは悟りシュウが両目を潰したところを目の当たりにすれば戦いの厳しさと同時に敗者に対する慈悲深さ、相手の思いやる精神をケンシロウはシュウから学び、だからこそあれだけケンシロウ強くなれたのはシュウのウエートにほぼ占められていると私見であるのだが。私は今の藤井四段の姿をこの北斗の拳のストーリーとかさね合わしてみてしまい、故に杞憂の一つとしている。

要するに言いたいことはもっと敗者に敬意を示せというのと、このまま藤井四段に「フン、雑魚だな」という心が芽生えないことを切に願うということ。

AKBが死んだ日

キモオタがキモいのは余りにも自分勝手な考えからくる狭量さである。だが、今回はこのキモオタに私はなる。もともとキモオタかもしれないが…。

恋愛禁止なんて言っておいても、もともと胡散臭いなとは思っていたけど、まさかあんな場所で結婚しますはないだろ。

あの時、栃木のダチのアパートでファビョってたw たまにテレビ見たりするとこれだもん。いい加減しねよ。

AKB総選挙で結婚宣言した子がいたけど、私はAKBは昔は好きだったけど今はほとんどどうでもよい存在。アイドルが恋愛しても歌が上手ければ、華があれば別によい。言っていいならばブスでも恋愛してもその人の人生なんだから別に何してもよい。つまりアイドルが恋愛しても構わない。けど、それはアイドルをやめたときである気がする。恋愛を応援できないのなんて狭量なそれだけのファンであり、本当に好きならばその子の人生を祝福しつついつまでも応援してあげるのが聖人ファンではないのかという意見があるがうーん。でもアイドルの応援は疑似恋愛として成り立つものであるのは確かだと。恋愛してますというとそのファンはシラけるのは当然だと思う。アイドルに恋愛の禁止を強いるなんてその裏返しはファンの嫉妬とか憎悪だとか人間の醜さ等を指摘し、恋愛を禁止するなんて人権侵害だとか言われてもアイドルってそういうもんでしょ。コンプライアンスってもんでしょ。アイドルの恋愛禁止なんてファンの人身御供だというのは確かである。そのことへの賛否はその運営次第である。AKBは恋愛に対してタブーだから、それを信じてファンになるのだから、もし恋愛が発覚したら運営は嘘つきであり要は企業犯罪なのである。恋愛禁止というならばそれを守るのが筋であり、恋愛を認めるてあげるのは詐欺を認めてあげることに等しい。もし、運営が彼女たちの恋愛は個々に自由にしてますというスタンスならばファンが恋愛するなというのは、それはファンのわがままでありクレーマーでもある。けれども今日の日本のアイドル事情はそんなの絶対にない。だから今までもこれからもアイドルの恋愛はアイドルが卒業しない限りご法度としている、のである。

AKBは恋愛のキナ臭さが出て来たら頭を坊主にして謝罪する疑似処刑をしてきた。正直やりすぎだよと思い、同時に罰が苛烈だということはそれだけ個々の恋愛が蔓延している証拠であると考えた。もしかしたら坊主にしてファンを含めた外部をドン引きさせといて強引に恋愛の芽を燃やしてしまい、今後AKBの疑いを一切抱かせようとしない運営の強固な信念を感じた。あれだけの苛烈なことするんだからAKBは本物だ、安心して応援できると周囲に猛アピールした。その後の結果が今回の結婚発表。どこで道を誤ったのか。第一あれだけ人数のいるグループで恋愛統制を科すのは難しいだろう。人間真面目なのもいれば不真面目なのもいる。ストイックな考えを持ち続けるのは疲れてきていずれガタがくる。それに年頃の女の子が恋愛するなというのはどうしても仕事とプライベートとの線引きがあいまいになる。恋をしない女なんているはずないのだから。そんなエリザベス一世みたいな女そうそういない。だとしたら、恋愛禁止なんて所詮努力目標なんだろう。裏では枕だの言われながらも応援するのはもうファンもある程度容認しているのだろう。ただ、せめてそんなことは隠れてやっておいてほしい。公で恋愛というキナ臭さを醸し出さないでほしい。さすがにそれでは夢が壊れる。

その夢を壊したのが須藤凜々花さんだった。

アホ。なにさらしとんじゃいワレである。アイドルの恋愛の禁止と言わなくても自重、公にしないことはごく当たり前のアイドルを応援する者の全うな考え方だと思う。それをぶち壊したらもうそれはアイドルの否定、AKBの否定。そもそも結婚したければしてもよい。あんな場所で結婚しますはないだろ。ダカーポの歌詞みたいに心を込めて祈ります幸せをと祝福されると思ったの? で、そんで結婚するんだからアイドルは辞めるの? まさか続けるの? それは冗談でしょ? もっも、な、何なの?

ファンが今まで応援してきたことに対する裏切りかもしれない。しかし、もし結婚した相手が彼女のファンだったらそれはそれで「会いに行けるアイドルならぬアイドルと結婚できるアイドル」として特称な事例になるだろう。だったら今後AKBは「応援してれば彼女と結婚できるかもしれないよ」というスタンスに変えてしまえ。そうすればまた違った夢のあるアイドルになれるだろう。そんなのはたしてアイドルと呼べるのかという一般認識に至っては疑問なのですが…。やはりそれは開き直ってるだけ。アイドル自体を独り占めするファンなんて他のファンからしたらムカつくだけである。だったらファンの求心力を無くさせたやっぱり彼女が憎い。私はファンでもないけど腹に据えかねる。おせっかいに今後のことを心配しているのである。しかし私は思う。

AKBは死んだ。今あるAKBは私利私欲に塗れた手垢だらけのアイドルもどき。私だって好きじゃなかったらあんなテレビ見ないよ。興味ないとかホントは嘘だったんだよ。あんな場所であんなこと言うなよクソ。もううんこになりたい。