寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

ボークスのドールをたくさん買い込んだからって転売と決めつける違和感

8.20に名古屋吹上ホールでボークスとかいうプラモ屋だかドール屋だかの企業が主催するドールズパーティーかいうのがやっていて、そこで人形売ってたがその人形をたくさん買い込んでいる連中を隠し撮りだろうかXで晒して「転売はいかんぞ」と注意蜂起みたいなことしてたのを見かけた。

正直このボークスとかいうイベントの風物詩みたいなものである。購入が限られている人気な品をごっそり買い込んでしたり顔の購入者を晒したりするのは…。

率直に言うと余計なお世話としか言いようがない。

転売だと決めつけているが、そもそも転売自体が法律で裁けないのだ。チケット転売は禁止されているけど売る方も買う方も何か罰を受けてたか? せいぜい転売者から購入したチケットでコンサート入りしたがばれて運営に締め出されたぐらいだろ。罰金もなけなければ牢屋にも入らないだから転売があるんだろ。だとしたら倫理の問題なのかもしれないが人を殺してはいけないのにもかかわらず殺人があるのと同様にいくら注意しても人は人を制することができないのであるいい加減に分かれよと

そもそも勝手に人の顔晒して何の根拠もなく転売だとかそこに汚い言葉で罵ったりとか盗撮、根拠もなく転売と決めつける中傷、自分の正義を疑わないで自分も何らかの問題行動に拘わっているそのバランス感覚の喪失を心配する。

このね、人形大量購入はね、購入者がもしも中国人だった場合はね、同胞から購入を頼まれた代理購入なのではないのかと私は思うんです。何人も人を使って沢山買い込むほどボークスの人形が中国で人気だからこんな大げさな買い込みするのだろう。中国だから日本の人形を買いたくても難しい。だから行動力ある中国人が代わりに買ってきてあげるみたいな。ただの親切な人間なんじゃねーのとは思う。無論報酬としていくらかは貰うだろうが小さな輸入代行業者、並行輸入としてみればそれほど批判されるものでもなかろう。日本人に転売価格で売りつけるという証拠が出ない限り勝手に転売だと決めつける思慮の浅い言動がドール界隈を息苦しくしているように思えて気分が悪い。

ボークスとかいう企業もこうした転売まがいの行いに苦言を呈しているかというとそうでもないんだよな。これは昔ブログに書いたけどボークスとしたらボークス人形ファンに売っても転売ヤー売っても入ってくる金は一緒なんだから別によくね? 寧ろ転売が発生することで自社の人形の価値が上がっているのだと自己陶酔できて気分がいい。ボークスの人形信者も品薄大人気商品だからと煽りがいがありそんな貴重な人形を買おうとする自分はすごいんだなと自己陶酔できて気分がいい。つまり転売ヤーボークス人形の希少価値を高めてくれることに一役買っているってワケw それなのに転売アカンではボークスとその信者にとってとんでもない水差し野郎になるのではと…。

中国人でも韓国人でも日本製の人形を買い込むのはそうした人形市場がワールドワイドになっているから。時代が変われば市場エリアも変わる。いつまでも日本人だけのモノじゃないんだよ。それに日本の人形が海外でも人気なのは日本人として喜ばしいことではないか? それなのに中国人が買い占めたとか転売とか決めつけけて締め出すのはただの人種差別でありネトウヨみたいなノウタリンなこと言っているドール界隈というのは閉鎖的である意味日本らしい。

転売だと決めつければその人に注意しに行けばいいのでは? まともに取り合わないのはわかっているがもし転売を嫌う正義があれば行動できるはず。あとから盗撮して晒すような陰湿なやり方は正義ではなく卑怯。筋通したければ殴られる覚悟で臨め。それができたら認めてやりたい。それか企業に転売対策の意見書を送れ。それをしないで自分を正義だと思っている自己顕示欲、他人に同調してもらいたい承認欲求がネットで憂さを晴らしているだけならばそういうのはもうかっこ悪いことで流行らないよ。イーロンがこうした日本人メンタリティでTwitterというものをそのように悪用されたと嘆いていたよな。

コミケとかでも転売あるけど多分誰も気にしてないし「そりゃ人気商品だし転売するよな」と冷静だ。ドール界隈だけーだよ転売転売とクソフェミみたく騒ぎ出すのは。ドール好きって変に神経質で生真面目でメンドクサイ性格してると思う。

私はドールオーナーは自分だけの世界観を持ち合わせており、他人の価値観に左右されないというか他人のことよりも自分のことの方が大切だと極めて内向的であり孤高でいられる精神世界の住人であるのだろうと思っていた。「転売? そんなことより私はドールを可愛がっているからそんな聞き苦しい言葉耳に挟ませないで」と拒絶して他人の事など気にも留めない徹底した個人主義者だと思っていた。ドールという存在自体が万民からの支持ではなくて一部の人間だけに好まれている背景から個人主義的なものとしての象徴であると勝手に捉えオーナーもそんな感じなのかなと・・・。それが見てみたら他者の言動や行動にいちいち突っかかてくる、他人と自分を見比べてきて少しでも違和感が生じれば騒ぎ立てる。ちょっとでも癪に障る行動を行えばそれを個人の自由意志であると捉えることができず同調圧力で潰しに来るその異様さにドン引きした。

私はドールを転売商材にされることに何とも思わない。ドール転売が成り立つとすればドールは所詮物でもあり資産価値として運用し得るだけのポティンシャルがあるということ。それを企業が品薄ブランディングでさらに価値を高めてくる。いわばドールという玩具の枠を超えた投資材料となっているワケ。そんな人形までも金儲けに使われるのがこうした資本主義、資本主義の世の中だからドールに転売は仕方がないことなのである。メルカリが存在する以上社会が転売を許容しているのである。

転売は嫌いだとは言ってもいい。いいが、転売はするなと言っては人の行動を縛り付けている独裁国家と何ら変わりはない。

最後に何故転売行為を政府が禁止しないか教えてあげる。人の自由意志を妨げることを禁止している現憲法13条を否定することになるかだ。国が作り出した(明確にはアメリカだが)決定事項を否定など国が自ら法を破るとあっては国民に示しがつかない。転売を規制する法律を作っても転売などという個人の自由意志として認めている日本国憲法13条との間に矛盾が生じてしまう。転売を禁止する前に13条を改正するにしても硬性憲法であるが故土台無理である。

転売をなくす法律を作れないのは日本国憲法13条に違反することになるから。

ただそれだけのことに過ぎない。要するに転売嫌悪は何の法的根拠を示せない極めて個人的な感情論過ぎず個人の感情に肩入れするほど国も暇ではないということ。だからもう転売についていうのはあきらめた方が無難でのではないかと。

死んでしまったものは仕方がない

 

www.sponichi.co.jp

 

私は人の死に方に興味を抱く大変気持ち悪い趣味を持っている。自殺とかはまずその手の類として興味深い。これは本来ならば人の死を話のタネにするのは死者の冒涜として意味慎まねばならいいと常々思っている。

だから「死んでしまったのは仕方がない」とあまり口出ししない方がいい。

ただそれは無関心であり人が自ら命の灯を消してしまうことは人間の行動原理とは何なのかとどうしても気になってしまう。以下人の死をネタにしているつまらないものであり読むに値しないし私のつまらないヒマつぶしでもある。

りゅうちぇる、この方は昔何かのテレビでお金をたくさん稼いでいる一般人か誰かのことを「ふーん、それだけしか稼いでないの?」と茶化していたその言動。これ聞いた私は正直「何様なんだこいつは」と大変印象が悪かった。収入でマウントをとる人間は真っ先に縁を切るし、視界に入れたくない。正直○ねとも思った。それ以外にも大柄な男でもあるのにオネエな態度で周りに振りまくその態度に自己顕示欲の高さが鼻についた。だからなのかあまりいい印象を受けていないのはネットでも目についた。

 

私は思った。この人いずれ死ぬのではないかと。そんな縁起でもないことが実際起こったから驚いた。何が嫌で死んだのか興味は持つけどくだらないブログに記す意味もないしあまりにも馬鹿らしいと有名人の自殺は神田沙也加でさえも言及しなかったが、この方に至っては指摘したくなる。この方は性的マイノリティーとかトランスジェンダーでもない。はっきり言って

解離性人格障害であった気がする。

いまや新たな人類の課題として解決していかなければならないLGBTの確固たる旗手としてその地位にいる人物ではない。これはただの精神障がいではないかと私は感じた。

男性でありながら女性の心を持つ。が、結婚して子供を産む。性的マイノリティー自認してても結婚し子供を持つことへの疑問、その後別れた。この飛躍した行動ぶりは躁鬱ではないのか? その後の女性の見た目により一層近づいて以前と風貌が激変するのはこれも違和感。一人の人間に複数の人格が入り込んでいるだけに見えてくる。本当は女性になりたいのではなくて、自分の理想像を追い求めているうちに多数の人格を自分の中で作り上げる(多重人格障害)。自分の納得できる人格になり得ず葛藤している様として見えてくる(人格乖離現象)。

女性として生きていこうとしたけどやっぱり家庭を持ち子供をもうけて離婚してさらなる変貌を遂げるその生き方自体が情緒不安定で誰も心配はしなかったのだろうか。自分は男性であるが女性であるというのではなく、女性になりたいでは性同一性障がいといえず、ただのオカマバーにいるオカマである。この人は幼少期に男性であることに苦痛を受けてたのだろうか? 男性用トイレに入りずらかったか? プールで男の水着を着たくなかったか? それがなければただのオカマ。その証拠に男性という立場で女性と結婚している。性同一性障がいは詐病であると。いや、女だといいながら風貌も女にしたが、それならばもっと前から女の風貌にならなかったのか。何故離婚を期になのか? 時間が経つにつれ心の変化からそうさせたのであれば、それは性的マイノリティーに悩まされたのではなく理想の自分を模索していたに過ぎないのでは? そして本当の自分を見つけられないままこれからどうしていけばいいかわからず死んだ。ただそれだけだろう。

こんな言動と行動から一貫性が伴わないことをしていれば精神がおかしくなるのは当たり前である。後天性の精神病はこのように自分を変にいじくりまわすことで起こる。ちょっと常識では考えられないおかしな行動、私の暴言であるがキチ○イの真似をしていたら本当にキチ○イになってしまったという話。死んだ人間にそのように例えることは大変失礼だが自分の中で自分の理想像作りそれを崇拝していたのだろうか? その理想像になれなくて絶望した。結婚してぺことかいう女性と子供の人生をもてあそんで許せないと批判もあったが、それはもう批判ではなく精神科を勧めるべきであった。個性とかLGBTだとか自認して新たな自分を受け入れてほしいと本人が言っても「本当にそれで大丈夫?」といさめる周囲の人間はいないだろう…。ただ私はこのままだと精神病んでおかしくなるよと思っていたから…。

あと誹謗中傷を苦に自殺はないのではないかと。私の考えでは自分本位な人間(失礼な決め付けだが)はそうそう批判は気にも留めないという偏見がある。自分勝手に生き続けてきた人間は他人の意見で病むようなことはなくやはり神経が図太い(パリスヒルトン中川翔子を見てわかると思うがあの手の人間と同じであると思う)。自分はどう生きていくべきか悩み自分探しの果てに精神がおかしくなり死んだ。

所詮ビジネスジェンダー。注目してもらうには、人気になるには自分と違った自分を演じていかなければならない。そのプレッシャー、焦りが自身の精神を蝕んでいった。いくらインスタでフォロワー多くてもメディアの露出が減っていればせっかく女の風貌になっても意味がなかった。どうすればいいと悩んだ末の自殺だったと見て取れる残念ながら…。

 

結局ただそれだけの気がするし、死んでしまったものは仕方がない。

どうせすぐ忘れることだし。

プール撮影会を共産党がつぶした件について

共産党とかそういう政治的思想で物事を判断するのではなく。

埼玉県で市営プールにて女性の水着撮影会を行うつもりが2日前に中止になったと。

 

www.asahi.com

 

これには共産党のフェミ勢力(?)が公序良俗に反するといった横やりを入れたとされる。これいわゆる「性の商品化」というやつ。女性を人として扱わずモノとして扱うなという強い批判を込めての中止とされているが…はたして…。

正直に言います。これは個々の趣味趣向の違いではあるが男として私が述べるさまは、

実に気持ち悪いの一言です。

私は水着とか大嫌いです。これはいつだって言っていますが、男だからと言っても女性の水着姿は嫌いなのです。だから海水浴やプールは嫌いだし、アニメで水着回とか(最近見たアニメではウマ娘2期)は「まーた始まった」と飽きれ気味になります。実に珍しいと思います男のくせに。私みたいな男はどうしてもフェミ勢力と息があってしまいます。

性的なファッションが大嫌いなのです。女性の可愛さは魅力は水着ではなくもっと別にある。水着はあれはオナニーの具現化で下品で知性を著しく奪うものである。水着なんぞに性的に興奮するということ自体が人間ではなく猿であると軽蔑してます。別にてめえが他人の性癖を否定するのはそんな水着にいちいちうるさい同性をすごく軽蔑したいがためです。つまり喧嘩売ってる。誰しも男が水着好きだと勘違いされるから言うのです。男でも女の水着なんて好きじゃねーよカス。

 

自己紹介が長くなりましたが、今回の水着撮影会の問題はここです。

 

・水着撮影という特殊な撮影会を民間のプール施設ではなく市営のプール場で行った。

・初期は分別をつけて行っていた撮影もここ最近は過激なポーズ(性行為を連想させるような)が目立ち始める。盗撮に近いアングルの写真も撮られ健全とはいいがたくなった。

・聞くところによれば撮影会にはAV女優に混じり中学生ぐらいの年齢の女子も参加予定し児童ポルノまがいの様相を呈しているとの疑念。

 

水着の撮影は私から見ればキモイの一言ですが個人の趣味なので好きにやればいいですし、国政を担う一政党が個人のイベントを中止させるのは権力の乱用に当たり憲法違反に問われかねない。個人(政党?)の趣向に反しているからと言って主義主張を行えど、そのイベント諸共中止にはできないはずです。でも、なぜか埼玉県は共産党の主張を受け入れて中止にしたよね。公序良俗という抽象的かつ主観的な主張を受け入れてしまった。何故か? それは確かに公序良俗に反していたからというしか他ならない。私が上記に挙げた問題の内に女子中学生も参加の予定、これがまず中止の一因だろう。

民間施設ではなく市の施設においても撮影は公序良俗に反するはずはない。何故ならこれまで公共施設での水着撮影が検挙された例がないのだから。この場合の個人活動に異議を唱えるのは他人の権利の侵害であり公序良俗に反するとあらばそれはその言葉を使った権利の濫用といえる。市のフィルムコミッションを通じて温水プールで水着のグラビアアイドル撮影も行われているし、このことから市の施設で水着撮影は公序良俗に反していないし、それが写真集の撮影ではなく個人間の撮影でも問題ない。問題があるとすればAV撮影だがそうじゃない水着撮影ごときでは問題はないといえる。

次に主催者側か撮影者側からの求めに応じで過激なポーズを行っての撮影だが、確かに公序良俗に反するという言い分はわかる。しかし、それは第三者の目があればの話。プールサイドを貸し切ってその参加者以外いないのであれば中で気色悪いポーズを求められても被写体の女性が嫌がらなければ問題ないだろう。撮影者がきしょいポーズをしつこく要求して無理強いさせられたとかならば問題だがその女性たちはむしろそういうのを望んで提供したとみられている。問題は撮影される女性からではなく全くかかわりがなさそうなどちらさま? な共産党が批判を示したので撮影される女性にしてみたら食い扶持つぶされた恨みしかないだろう。当事者間との同意があっての活動には他者は口出しする方が問題である。

ここまでは問題とされた状況も問題ではない。では何が問題なのか? 真の問題はやはり未成年の撮影会の参加だろう。

別に善良な市民が使う神聖な(?)プールを穢れた性欲を持つクソオスに利用されたことの嫌悪感とか女性をオナニーの道具にして性を商品化して女性の尊厳を台無しにさせたとか、そういうのは個人が抱く主張に過ぎず主観的かつくだらない感情論で法的根拠なんて一つもない。それを一瞬で打ち破ったのが未成年の撮影会の参加。これがあったから埼玉県は撮影会を中止した。そうであろう。うんうん…。

未成年とは大人と同じ活動は基本出来ないのである。それは子供が酒やたばこをできないのと同じで風俗に関連する経済活動はご法度なのである。何故なのかはもう水着撮影を中止するなんて共産党はこれだからクソとかいうアホに理解できるような話もうざくてしたくないしアホとは喋りたくないが、子どもの権利条約ぐらいはわかるだろ? ババアと若い男が寝ても同意があれば捕まらないが未成年は問答無用で捕まるし官報に載る。未成年が大人に交じり水着できわどいポーズはキモイも何も明確な公序良俗に反する以上に人権侵害に当たり許されないのである。ロリコンの自由を奪うなではない。性犯罪の片棒を担いでいる主催者にむしろロリコンと批判されるべきなのである。そもそも子供の水着姿をSNSで掲載させることはどこかのクソ親を除きありえないし、そうした画像を持っているだけで見つかれば…どうなるかわかるはずである。子供は自分で何がいいか悪いか意思判断ができず常に大人が観察してしかるべきであり一人の人間として責任ある判断が取れない。だから法で守るのである。

でなければ「お金が欲しかったし別に私が好きでやった」と子供の売春を肯定するそんな大人でもいいのか? 個人の自由だろうとそれを許す大人でいいのか? それと同じことなんだよ未成年の参加するプール撮影とは…。

その法で守るはずの子供をこんな撮影会に呼んでいたとすればいくら共産党が憎くても自公の縄張りが強い埼玉県でも法を順守して撮影会を中止にする。

それなのに共産党に恨み節を言ってる男どもは遵法精神を著しく欠いているのかバカなのか、若さに嫉妬している共産党のババアと批判しているのか? もうそんなのとはこちらからは話したくない文字の無駄。

水着撮影も成人した女性だけならば好きにすればよかった。どうしても公序良俗以上に子供の人権を脅かすイベントだから中止にされた。そこに子供が参加しようとしなければよかった。

未成年のアイドルだっている。でもプールで水着になってファン同士の撮影会なんてあるか? 握手会ぐらいだろ? だから水着も誰が着たかで公序良俗という言葉もでてくる極めて慎重に判断される服装なんだ。それを普段着と変わらないように撮影させろというのはやはり男の脳には精子が詰っているというほかない。頭蓋穿孔で取り除くべき。

 

ブログのタイトルで共産党の悪口言うと思っていただろ? 逆でしたねザマァ

散弾銃で暴れて立てこもるその愚かな人間へ

news.yahoo.co.jp

 

長野の中野という地で女性をナイフかなにかで刺した後通報で駆け付けた警察官二人を至近距離から散弾銃で襲いその後立てこもるという恐ろしい事件が起きた。

これまで出来事や事件に対して関心は持つがブログで語ることもなくたいてい次の日には興味がなくなった。WBCでさえそうだった。

それなのにどうもこの事件が何か言いたくて仕方がないのは自分のくだらない承認欲求かはたまた素で興味を抱くことなのかわからない。

そもそも猟銃を手にするそれは、猟銃を持つこと自体がそんなものを持つのなんてよほど余裕がないとできないことだろう。つまり金銭的な余裕である。貧乏人には銃を持つという発想はない。そんなものを持っているのはただの負担ではないか? 獣を撃つことは金持ちの道楽ではないか? 金とヒマのあるものに許された特権みたいに考える。

では金持ちならどうか? 誰があんな物騒なものを持ちたいと思うだろうか? そんなもんより車とかもっと他の趣味にお金を使う。これは極めて偏見であるがそもそも動物を撃ち殺す行為自体が前年代の古臭い趣味であると思うし、そもそも戦後の意識の高まりの中動物愛顧の観点から野蛮というほかない。動物を仕留めたその姿には生々しく散弾銃でやられた動物の血を見る羽目になる。これが私はたまらなく嫌である。残酷なものであると。

そんな残酷な狩猟を行う、それは貧乏人でも金持ちでもなく極めて特異に映る。その猟銃を持とうと思い立つことが。動物を撃ち殺す人間として見るのだからハンターという類は私は嫌いである。動物を撃ち殺す残酷な人間がこんな事件を起こしても何ら不思議ではないというのが正直この事件の感想である。いくら害獣として人を襲う熊イノシシといえどそれをやるのは汚れた家業という自覚があれば私は納得する。単に銃の魅力に見せられそれで獲物を捕らえたいという昔気質な思想であったならば私はついていけない。

銃を持つとタガが外れたときにこうなるだけ。それを防ぐとしたらいい人間が銃を持たなければいけない。・・・そんないい人間ばかりが銃を持つわけではないだろ。その時はいい人間でも後から悪い人間になるのは今まで幾多の犯罪史を振り返ればわかることだろうに。この事件、端にそこの銃があったから起きた出来事だろう。包丁だけだったら警察官二人は死なずに済んだかもしれない。散弾銃という趣味を否定したくはないが否定したくなる瞬間である。

このような事件を防ぐのはできるはず。散弾銃の弾を許可なく個人が持つことを禁じるのである。必要に応じて警察に申請してそこで初めて警察から弾をもらう。そのときに警察が同行する。つまりイノシシ熊が出没したとき以外は猟銃使用ができなくする。北海道で野生動物の増加から人に被害が増えだすその対策からハンターに対する規制緩和は致し方ないとしながらも、そもそも銃を持って動物を殺すなどという動物権利というものに疑問を抱かない人間ならばその人間の気質に最大限に注意した上で銃を持たせてほしい。

そしてこの三人を殺したバカについてだが、その家庭環境からして甘やかされてたボンボンの類だろ。甘やかされていたがゆえにこらえが効かず感情的になりやすく極めて自己中心的な行動として死刑が相当である。が、死刑とは強盗殺人強姦放火と自分の快楽、利己を究極的に追求したことによる報いでしかなしえない刑なので、今回のような快楽でも利己にも属さない病的な憎悪を抱く感情表現の果ての凶行となれば精神疾患を割り引かれ、特権階級に属していれば忖度から懲役30年ぐらいかと。ただ、警察官の殺害に至っては国家治安維持に対する挑戦であり事の成り行きはどうあれ国家への反逆と捉えられる(渋谷暴動事件を例に)。警察を害すればヤクザならば死刑になるし(工藤会抗争)、その例は一般人でも変わらない。国の治安を守る警察を殺す罪の重さはとてつもなく、国家反逆に当たると日本の司法は判断するだろう。私は警察を二人も殺した、それほどの殺意に驚きを隠せない。

これはもはや警察は仇を討ってもいいだろう国家を乱した醜悪な殺人鬼には頭に銃弾を放つ、それが犯人にしてやれる最善の策であり本人もそれを望んだ方がおさまりがいい。

何故ドールが好きなのか?

4月7日にNHKドキュメント72時間という番組でドール趣味を持つ愛好家とそこに集うドールショップの日常を探るという内容が放送された。

同じドール趣味を持つ私からはドール趣味というなじみの薄いこんな趣味もあるのかというような実に感慨深い内容を把握するには十分すぎるものであった。

しかし番組が終了してふと感じたことがある。

「何故この人たちはドールが好きなのだろうか?」

私はドールは好きだがドールを取り巻く界隈とは少し距離を置く。それというもの同じドール趣味の人間同士、温度差を感じてしまうからだ。

いわゆるドール好きのノリが私と会わないのである。ドールを「娘」と形容するその界隈の習わしがいささか苦手である。ドールはドールであり玩具である。娘という人間の分身と思うまで私はドールに愛着を今でも持てない。今回のドキュメント72時間もそんなドールを我が子のように可愛がるという方々ばかりであり、とてもガラスケースに何か月も同じ服を着せさせて放置している自分とはドールに対する価値観が違ってくるだろう。趣味において価値観が違う者同士が語り合うことは難しいと思うしトラブルの元になる。これは別の界隈で身に染みた。だから私はドール界隈の方々とはつながろうとも思わない。ドールとは表では華やかだが人々のドールに対する価値観は驚くほど多様でどす黒くもあるしドールの接し方ひとつで揉め事も起こる。そして意外とつまらないものなんだなと熱が冷めてくるものかもしれない。

この番組に出てきた方たちは何故ドールが好きなのだろう? どうすればそれほどドールを愛することができるのだろうか? 

私は幼いころから姉と妹がいてそいつらの影響で男よりも女の趣味を見る機会が多かった気がする。姉はシルバニア、妹はリカちゃんと幼いころからドールみたいなものは目にしていたが男ながらそれらが魅力的に思えた。が、さすがに自分もそんなものは欲しいとは思わなかった。

その後家を離れ一人で暮らすとアニメ等自分の趣味を楽しんだ。フィギュアも大学生のころ始めていた。私がドールに注目したのは東方のチルノのドールである。チルノがドールになっていたから、いわばキャラでドールが好きになったくちである。好きなキャラクターだからそのフィギュアを買うみたいな感覚でチルノのドールを買っただけであり、いわば東方グッズの一部として別にドールが好きになったから買ったのではない。幼いころに思ってたようにドールは姉、妹がもつ女のモノであるという考えは崩れていなかったし今でも崩れていない。

私がドールが好きなのは好きなキャラクターがドールだったからそのドールを買っただけに過ぎない。何か運命の出会いというようなものや、もう一人の私というたいそうな思想も何もない。だから私のドール愛は薄っぺらいのである。可愛いから綺麗だからただそれだけでドールを好きになるのならばフィギュアでいいはずである。もう少しお金をかければドールという楽しみが分かってくるだろうとドールにのめり込もうとした。しかし、どうしてもドールを可愛いという感情から「娘」であると呼べるほど好きにはなれなかった。ドールを外に連れ出して野外で撮影するようなことは到底私にはできなかった。そこまでしてドールを可愛がれなかった。何故なのか? フィギュアはどんなに高くてもガラスケースに飾っておくし、多くのフィギュア愛好家はそうしてる気がする(YouTubeのフィギュア愛好家を見て)。ドールのようにスケールフィギュアを外に連れ出して撮影してるフィギュア愛好家なんていないかもしれない(ねんどろいどは割かし野外で撮影されてるが)。フィギュアは野外撮影しないのに何故ドールは撮影するのか?ドールは日本人形みたいに玄関や部屋に飾っておくものだという固定概念があり何故野外に出してまで撮影する? 飾っておいて見て楽しめばいいのでは? という疑問がある。これでは野外撮影するドール好きとは「ソ・リ」が合わないだろうし先に述べた他のドール好きと「ノ・リ」が合わないである。 結局私はドールというものを見下しているのかもしれないしドールが好きでないのかもしれない。

何故ドールを娘と呼べるほど好きになり外に連れ出せるほどドールが好きなのか?

ドールを持つ私の素朴な疑問である。

それとドールは男よりも女が持っていた方がサマになるというか、もし男がドールを持つのならば好きなキャラクターがドールになっているのが欲しい。それならばキャラクター愛作品愛に駆られたファンとしての消費行動として見て取れるし、男なのにドールなんてという偏見を聞かなくてすむし、やはりドールは女性の象徴として存在してそこに男が立ち入るのは野暮なのではという疚しさを覚える。ドルクに入りずらいのも女性の下着コーナに野郎が入り込んでいるように感じて実に気にしてしまう。私は結局キャラドールみたいなのがしっくりくるのである。そしてこんなキャラクタードールを一体でも手に入れればもうドールというものは私の中で完結できる。

 

 

 

 

これが本当に私が欲しかったドールでありそれ以外は正直いらない。

私が好きなドールを手に入れたとき本当にドールが好きであると胸を張って言えるのに…

青年日本の歌の意味


www.youtube.com

 

こちらの紹介した歌は二・二六事件を色濃く映し出す国を憂いて新しい日本社会を築こうとするかのような昭和の歌曲。

ところでまさかとは思うが二・二六事件について知らない教養なき民はいないと信じたいので話を進める。この歌詞には当時の腐りきった世の中に対しての怒りの現れが表現されている。不器用ながらもその歌詞を口語訳してみてその後感じたことを話す。

 

1番

汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ

溷濁(こんだく)の世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く

 

かつて楚の屈原は泪羅河に身を投げたことによりこの国を憂いた魂が沸き立つ

巫山(重慶市の景勝)の雲は風雲急を告げるかのように乱れ飛んでいる

つまりこれは今の日本に社会は道理が失われたということだ

そのことに我らは血潮が沸き立つような怒りを覚える

 

2番

権門上に倣(おごれ)ども 国を憂うる誠なし

財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく)を念(ねが)う心なし

 

位置や名誉、家柄ばかりが尊ばれそんな奴らは権勢を欲しいままにしているが

金と権力ばかりに執着し誠に國をよくしていこうという真心はとうに潰えている

財閥は富を蓄えてその力を誇示しているが不甲斐なきかな、貧困にあえぐ国民を見て見ぬふりではないか

 

3番

あゝ人栄えて国亡ぶ 盲(めし)ひたる民(たみ)世に躍(おど)る

治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり

 

権力者は栄華を極めるがそのおかげで国は衰退していく

そんなことは思いもよらず道理を知らぬ輩は大手を振っているが

そのように人心を失った国が幾度となく滅んできただろうか

囲碁は一局で趨勢が変化するというが今の情勢はまるで囲碁を打つかの如く刻々と変化していくものだ

 

4番

昭和維新の春の空 正義に結ぶ益良雄(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花

 

昭和の世を変えていく昭和維新なんて晴れ晴れとした空気であろうか

正義のために契りを結んだ勇ましきかな同志たちには迷いない

その生き様はまるで万と咲き誇る桜の花びらのように美しく散っていくそれは正に清く正しく澄み切っているものだ

 

5番

古びしむくろ乗越えて 雲飄揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて起つ時に 大丈夫(ますらお)の歌なからめや

 

この腐敗した世の中を打破せんがために一介の我らは何物にもとらわれない境地にある

そんな我らが国を憂いて立ち上がるからにはそんな心情を包み隠さず打ち明ける歌がないはずがない

我らの心を歌として刻むのである

 

6番

天の怒りか地の声か そも只ならぬ響あり
民(たみ)永劫(えいごう)の眠より 醒めよ日本の朝ぼらけ

 

天も地も怒りに沸き立っている尋常ならざる状況に今こそ闇を打ち破る時が来た

国民よ今こそ眠りから覚める瞬間である

共に日本の新しい世の中、新しい光をを迎入れようではないか

 

7番

見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐

 

見よ、天の最も高い所に雲は垂れ下がっている

すべての海は叫びている

これまさしく革命の気風は吹き荒れいつまでもそれは止みそうにもない

 

8番

ああうらぶれし天地の 迷ひの道を人は行く
栄華(えいが)を誇る塵(ちり)の世に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺めぞや

 

ああ、このみじめな世の中では語ることも何もなく、人々は何をすればよいのかわからずにいる

一見するとこの世は豊かさも目にすることができるが、しかし、こんな俗世に至ったすべを高々とした立派な場所から眺めていられようか

 

9番

巧名なにか夢のあと 消えざるものはただ誠
人生意気に感じては 成否を誰(たれ)か論(あげつら)ふ

 

この世の中において名誉や手柄などどれほどの価値があるというのか

そんなものは夢のように消え去ってしまうものだ

しかし「誠」の心だけは消え去ることはない

人生とは損得で動かされるものではない「誠の心」で動かされるのだ

そのことに対して誰が成功だとか失敗だとかそんなくだらないことに拘わろうとするものか!

 

10番

止めよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
我等が剣(つるぎ)今こそは 廊清の血に躍るかな

 

あれこれと悲歌を謳うのはもうやめよう

いつまでも悲しんでいても仕方がないではないか

もう悲歌慷慨(悲痛に歌い憤って激しく嘆く)の日は過ぎ去った!

我らの剣が今こそ世の腐敗を打破して、願わくば我が血でこの世を清めたまえ

 

 

相当に意訳しています。これも聞きかじるくらいではこの歌詞は現代語に変換できない。ある程度くらいの書見で行ったもので意味の間違い誤訳は必ずあるはずです。間違った知識を披露して迷惑が被るのならば私の愚かさを自覚している次第です。

しかし、歌詞の意味だけでもと分かってもらいたくてなんとか書いてみたもの。

 

この歌詞は意味には多くは漢学に由来する。ゆえに教養なくしてその意味は伝わらない。これは私の誠に勝手な私見だが無知なものに歌詞の意味を理解されたくなという思いみたいなものが、革命というからにはありきたりな言葉よりも難解な言葉で綴ることがその革命とやらにふさわしく聞こえてくるのではと考えて綴られているかのようだ。志あるものでなければ到底その意味も伝わらないそんな歌詞ではないかと思うのである。

それは裏を返せば実に独善的である。自分だけ分かればいい。自分だけが正しいのだと。しかしそんな難しい難解な歌詞では天下万民には理解されない。そしてそんな歌詞のように二・二六事件は理解されず多くの青年将校が処刑されて志を遂げられなかった。二・二六の失敗の原因は人心の心を掴みきれないままに独善的に行動した点である。革命というからには自分だけではだめなのである。民全員に分かりやすい言葉で綴らなければ。何故漢学に精通するものでなければ分かり得ないそんな歌詞にしてしまったのか。単純に貧困にあえぐ民衆を助けたいという簡素な言葉で歌詞を綴れていないのがこの青年日本という歌の欠点である。だから私はこの歌は嫌いである。小難しくて難解でそれでいて独善的で民衆の言葉に響いてこないと感じるから。

所詮軍部の派閥争いから端をはしたもので誠に民衆をどうこうしようと起こしたものではない。ただの本当に軍部の内部抗争。世を憂いての革命とかそんな大そうなものでは全くない。青年将校の第一の要求とは貧困にあえぐ民を救いたもうという崇高な理想なんかではなく自分の派閥に属する皇道派の上役を要職に就かせろという俗な要求であったことには甚だ幻滅のなすがままである。おかげで軍部が台頭して日本からは民主的な政治の在り方は潰えて国民は軍部の奴隷となる転換期となった実にはた迷惑では済まされない自分勝手独りよがりなシロモノ…。

今年も2月26日になるとこの事件について述べられることがあるとしたら、その日になる前に先に言いたかった。もうただの集団殺人事件でしたで終わらしてほしい。義挙だとかいってもてはやしていた人間を去年思い出して気分が悪かった。今の世の中自分勝手な正義で相手を傷つける正義中毒の人間がいる中、二・二六はその確固たる出来事だということを述べたかったことも付け加えておく。

そもそも今回のブログ内容はこの小難しい青年日本の歌の歌詞の意味を断片的に理解できるように記しただけで二・二六を否定するのは二の次である。